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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

口よりでる子どもと笑い

2022-10-02 19:17:59 | 文学


あるとき内助に。あはせの事ありて。同じ里より。年かまへなる女房を持しに。内介は猟船に出しに。其夜の留守に。うるはしき女の。水色の着物に。立浪のつきしを上に掛。うらの口よりかけ込。我は内助殿とは。ひさびさのなじみにして。かく腹には。子もある中なるに。またぞろや。こなたをむかへ給ふ。此うらみやむ事なし。いそひで親里へ。帰りたまへ。さもなくば。三日のうちに。大浪をうたせ。此家をそのまゝ。池に深めんと申捨て。行方しれず。

内介の家では、鯉をかわいがっていた。大きくなって家にもあげて食べ物を与えていたりした。その結果、娘ぐらいの大きさになってしまった。内介が嫁をとると、この鯉が嫉妬して娘の姿になってあらわれたのである。内介の子どもを宿していると。江戸のポニョである。

思うに、内助はこのあと、田舎の紅屋や針売りの子ならひっかけたことがあると白状している。しかもこいつは漁師である。魚を文字どおり釣って――ナンパしている可能性は高い。この鯉娘の言っていることは本当ではないか。

子どもがいたのは本当だった。

大鯉ふねに飛のり。口より子の形なる物をはき出しうせける。

龍神たる巴御前の「巴」で思い出すのが、この西鶴諸国話の「鯉の散らし紋」である。男がかわいがっていた魚がしらないうちに男の子どもを宿している話であって、魚って妙な人間味があってこわいのである。人魚や夢応の鯉魚は非常にリアルである。しかし果たしてそうか。

自分の意見を持とう、という教育をしながら、証拠がないことは言っちゃ駄目、みたいな教育をすれば、その帰結として、自分が証拠とみなすものだけを強弁して自分の意見は変えないやつが出来上がるのは当然。教育の効果は遠い未来にあらわれるものもあるけど、単純な方向性はすぐさま効果があるもんだ。もしかしたら、この鯉女は、そういうやからかもしれない。人間の世界でエビデンスがありゃいいという教育でも受けたか。で、どこかの男子でも飲み込んで舟ではき出したのかも知れないのだ。

「見える化」とか「エビデンス」至上主義というのはおなじものだ。この二者は我々の言語の世界に対立している、それらはいろいろなものをあいまいにし隠しているからである。しかしそうでないと、我々は善悪をはっきりしている暇がない人生において、我々は生きていけない。むかしからぼやき系の漫才というものがあって、ボケとしてのぼやきにどの程度の偏見をまぜて、どの程度突っ込んでどうやって落とすかは、観客の持つ偏見との関係で腕の見せ所だ。人生幸朗・生恵幸子はそのへんうまかった。笑いは、善悪の判断とは異なる「認識の発見」の一種で、それが失われて何かを守ろうという笑いは何か違うもんになってしまう。しかも簡単になるのだ。ダウンタウンや爆笑問題が炎上を繰り返してしまうのは、何かを守る笑いに切り替わったからである。