★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

男ドン・キホーテは石の如く

2022-07-12 23:40:54 | 思想


竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。

当たり前であるが、男尊女卑の世界であっても、女性に対する悔恨がさまざまあったにきまっているわけで、宗教に於いて女人が天国に行けるかと成仏出来るかみたいな話が、女性に関するトラウマやコンプレックスと完全に無関係だったはずはない。

この前、檜垣立哉氏の『バロックの哲学』に所収されている、オルテガ・イ・ガゼット論を読んでいて、そこで引用されているオルテガの「ドン・キホーテ論」を少し読み返してみたのだが、とにかく前置きが重要で、しかし長い。花★清輝のドン・キホーテ論なんかも、前置きだけみたいな文章である。ドン・キホーチェを語る人たちというのは、なかなか本題に入りたがらないというのがあるんじゃないか。これが、主人公の騎士が思い人のところにたどり着かない事態を示しているようで面白い。

そういえば、上のオルテガの「ドン・キホーテ論」もなかなか書棚から見つからなかった。旅にでもでていたのであろう。

ドン・キホーテの騎士は、バナナ型神話であたかもバナナではなく石を選んで不老不死になった者であるかのようだ。死んで生を生み出す女体ではなく、永遠に放浪し徐々に朽ちようとする石である。

ヤマトタケルが死ぬ場面で、脚が腫れちゃってもう歩けず、白鳥になってしまい、それを細君たちが泣きながら追いかけてゆく。これはなにか丈夫なヤマトタケルが女性的なるものに置き換わってゆく過程を見るようだ。我々の文化では、男は討ち死にして祈念碑や墓に成り永遠を得る。それにうまく成功しない場合は、女性が登場して行方知れずである。義仲は巴を逃がして男の一生を終えた。義経はその点、静御前とともに賴朝に反抗したために微妙な最後であり、死にきれずチンギスハンにならなければならなかった。

現代書館刊行の「for beginners」シリーズの一冊、「右翼」をつい古本で買ってしまったが、これは、文:猪野健治 イラスト:宮谷一彦の組み合わせですごい迫力を持っている。22、23頁のシャーマニズムの画はすごい。蛇の髑髏を被った男の横で蛇よりも迫力ある女性が踊っている。ときどきあるポンチ絵もどきもいいね。国のポンチ絵はこれを見習えよと思う、国のポンチ絵は、カクカクと記号的な男なのである。宮谷一彦の画は、男を女と同じようなバナナのような崩れゆく肉体として描いている。

あんまり読んでないが、オルタナライトに影響力があるといわれるニック・ランドは、『絶滅への渇望』(1992)を少しよんでみると、ショーペンハウアーを評価しているみたいだ。なんか90年代の香りするよね、と思ったのは、わたしも90年代に、これからはショーペンハウアーがもう一回来るとかいうて、ちょっと論文を書いたこともあるんだが、9・11以降辺りからちょっと反省してちょっとちがう道をさぐったつもりなのだ。がニック・ランドはそのまま突き進んだところがある。私はどちらかというと、内田樹の言う「おばさん」化を為すことによって行きのびようとしたのだが、ニック・ランドはそんな誘惑にはのらなかったとみえる。