★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

心の世界

2022-07-08 23:46:48 | 思想


但し我等が慈父・雙林最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、不依人等とは初依・二依・三依・第四依・普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず、「了義経に依つて不了義経に依らざれ」と定めて経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべきこそ候いぬれ、竜樹菩薩の十住毘婆沙論に云く「修多羅黒論に依らずして修多羅白論に依れ」等云云、天台大師云く「修多羅と合う者は録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず」等云云、伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云、円珍智証大師云く「文に依つて伝うべし」等云云

人の言うところを信じてはならぬ、仏法の言葉だけを信じるべしというのは、窮屈にみえるが、言葉にある心の範疇から遁れてしまうことへの危惧であったろうと思う。我々の心は非常に我が儘にあらゆる方向に伸びるようにできている。人の生き死が生起した場合は特にそうだ。今日は、暗殺事件まで起こってしまったわけで、これに対して民主主義や法治や自由の概念は、そこで起こった感情に追いつくことは出来ない。たぶん、殺された元首相が直観していたのはそこで、法外なもののせめぎ合いにだけ集中することが政治だと思い切ってしまったのかもしれない。そこで我々が失ったものは多いが、必然でもある。我々の日常的に経験してきた悲しみや鬱屈にどどく言葉を失った我々の世界は、もう生々しいことにしか興味がなくなってしまっている。

人は簡単に共感能力の有無を問題にする。しかし、それの過剰さがある人々が時々あること、われわれが群体としてそれを拘束しながらも持っていることを知っている。その拘束がときどき外れて、都市生活の中で協同性や宗教的な規範から離れがちになった我々は、他人が、あるいは自分がどのように心を動かされるのか分からなくなってしまうことがある。たぶん近代文学が勃興してきた理由も、それと表裏一体なのである。それは分からなくなることそのものの表現でもあり、分からないことへの抵抗でもある。だから、文学は、分からない範囲を思い切り広げて、テロリストや犯罪にまで手を伸ばしてきたのだ。

近代文学のそのような性格が、うまく機能しなくなるのも、その「分からない」度合いが閾値を超えたときである。だから、私の感覚だと、――戦争と連合赤軍事件やオウム事件のようなものが、長期的にみれば文学を育てると同時にたたきつぶしもするのである。それは「分からない」という地点に引き籠もりもするからだ。

そもそもイデオロギーや政治的な因子が原因であれば話はわかりやすいんだが、いつもそんな簡単にはいかないのは自明である。しかし、イデオロギーよりも込められた思い、とか、論破、とか、刺さる、とか言っている言論の方に注目すべきだからといってそこをつっこんでゆくと、それはなかなか時間がかかる。村上春樹なんかはそういうことを長い時間かけてやっているのかもしれない。しかし、死を前にした中上なんかは、「もっとしっかりしてくれ」みたいな説教モードになっていた気もするのだ。確かに、だらけきったわれわれの社会がだめだと言い切るやり方もあるであろう。目的も感情もあやふやになった我々の心の世界は、肉体と繋がっている。肉体を制御出来ない心に期待は出来ないからである。

今日は授業で、ちょうど内向の世代や大江、中上をはじめとするテロ予備軍小説?や秋山駿の「内部の人間」について話す予定だったのである。授業のⅠ時間前に事件のニュースを聞いた。