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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

和歌の出現

2019-05-01 23:09:42 | 文学


「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
とのたまふ。 御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
「こは、など、かくは」
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。 今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。


藤壺の宮は源氏の夢にでた。「バレてしまったので、苦しんでいます」と言う宮に答えようと思ったが、何かに襲いかかられる気さえするのであった。だいたい、源氏に何を言うことが出来ようか。紫の上に起こされて驚く源氏であるが、涙が出てきてしまうのであった。彼女が不審に思うとイケナイので身を固くする源氏であり、そうすると、心の方が動き出す。

「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜にむすぼほれつる夢の短さ」

あんがい普通の歌であるが、なんとなく鬱病っぽい症状の中で一応、この歌の平凡さが源氏を救っているのかもしれん。このあと、あちこちの寺に御誦経などさせてしまい、それでも表だっては藤壺のために大きな供養をするわけにもいかず、――そうするとまた心が動き、阿弥陀仏をとなえたあげく、

「亡き人を慕ふ心にまかせても影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」


と詠んでみせる。

わたくしはぼんやりと、横光利一が言っていた「形式によって価値を決定させる」ところの形式主義とは、結局、和歌みたいなものになってしまうんじゃないかなと思った。我々は、和歌を詠む人間に対してはあんまり批判ができないのだ。横光もそうだが、苦しい言論空間でこそ、そういう形式による突破が図られるような気がする。近年の「ポエム」もそういうものであったのかもしれない。