★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

地方の

2019-03-11 23:36:31 | 思想
今日は、病院の待合室で山下悦子氏の『高群逸枝論』を読んでいたが、やっと山下氏の言いたいことがわかってきたこの頃である。考えてみると、八〇年代にこれに触れていたときはなんとなくぴんとこなかったのだが、果たしてどちらの読み方が妥当だったのか……。

本を読んでいると、「同時代性」などというものが、非常に判断しずらいものであることは明かである。わたくしはこの本にようやく同時代性を共有することになったのか、あるいは、この本の八〇年代には同時代性などなかったのか。それとも「同時代」が続いているだけなのであろうか。

一番可能性が高いのはわたくしの読解力の問題だが、――ひとつには、いま、四国遍路の地にわたくしが住んでいることも重要であるだろう。

思うに、高群における彼女の田舎がきわめて思想的に重要であって、それゆえ、四国遍路みたいなものも重要であるに違いないので、わたくしはこのひとなんかのエネルギーの在処を「地方の人間」としてかんがえたい誘惑に駆られた。



高崎経済大学の六〇年代の闘争をえがいた上のドキュメンタリーを初めて見た。高崎経済大学とわたくしの母校は、体育祭とかを一緒にやっていたからよく知っているのであるが、ICUとともに、単科大学における早くからの学生運動で知られているのであった。日大とか東大の運動の記録をみると、まるで津波のように学生が押し寄せる場面があるが、まったく今も三百人教室に津波が押し寄せて滞留しているのであって――、わたくしが経験した大学とはそういうものではない。まるで、全国から国語だけが好きな子たちが、再度国語専門高校に入学したかんじであって――、クラス名も「花・鳥・風・月」や「止・水・黎・明」で、まことに牧歌的なかんじであるが、決して全面的にそうではない。そこでは、マンモス大学にはある資本主義社会を仕切る(あるいは、学問的出世、でもいいが)人間になるための秘策が群の中にういておらず、閉じた学級会みたいなものが乱立している感じであった。

案の定、わたくしのいた大学にも孤立したセクトがまだ活動していた。

まったく無関係にみえなかったことは確かである。単科大学で趣味や勉強にふける我々と彼らは本質的におなじような気がしたからである。上の高崎経済大学の闘争の面々も、もはやわたくしがいた吹奏楽部の低音パートぐらいの人数である。それが大学と戦って逮捕され裁判にかかっている。これは、マス化した学生運動とは根本的に異なるものである。参加したら最後、逮捕裁判が目の前なのだ。マンモス大学でデモ隊の後ろからくっついていた御仁たちとは訳が違う。

わたくしが大学までで身につけた、そんな感覚を思い出した二作品であった。

嘆きわび空に乱るるわが魂を

2019-03-11 01:51:43 | 文学


「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」
と、慰めたまふに
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
と、 なつかしげに言ひて、
「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」
とのたまふ声、けはひ、 その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、 ただ、かの御息所なりけり。


この場面がいいと思うのは、最初の源氏のあんまり気持ちがこもってるとも思えない――とわたくしは思うんだが――紋切り型のせりふを、葵上(ではないのだが)が「いで、あらずや」と全否定したあとで、物思う魂はほんとに体をぬけでてしまうのですね……、と源氏の「かならず逢う瀬あなれば」、「深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば」といった魂の行く末についての言葉の残響と絡みつつ、「わが魂を結びとどめよ」という、――魂の独立性だけの問題だけでいえば、葵上の言葉であってもまあおかしくはないのだが(やはり無理かもしれないが)、「たまふ声、けはひ、その人にもあらず」と急速に明らかになってしまうところであった。

だいたい、葵上にも冷たかった源氏のことである。本当は、生き霊なんかだれのものでもよいはずだ。生き霊なんてもともとは噂みたいなもので、生じてしまえば誰が口にしようと同じことだ。葵上の代わりに御息所がしゃべっただけかもしれないわけである。

それはともかく、震災のあと、我々の社会は、あたかも死者の声が聞こえるが如き仕組みをメディアなどで作り上げて独特な呪術国家になってしまったが、――いわば、メディアで流されているそれは、「かならず 逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ」、「ダヨネー」みたいな妄想的コミュニケーションを延々しているようなものであって、源氏でさえ若くして罪に苦しみだしているのに、我々の社会は、まだ死んでも会えるみたいなところでうろうろし始めている人々を多く生み出している。まだ現実で正義を為している近代人と思い込んでいるわれわれは、噂の量で人を脅しつける手法をとっている限りはほとんど源氏の周りの凡人たちとかわらず、生き霊にもなりきれない妄想人にすぎない。

死者について語ると、源氏みたいなきれい事をいうことにもなりかねない。死者に自由はないから反論ができない。我々は自由に嘘がつける。そのために、昔は、生き霊とか死霊がきちんと「嘘つくな」と言いに来てくれたのであった。

まあ、いろいろ事情はあるにせよ、親子を含め他人とともにある人生は半分嘘なので、自分の生は自分だけで落とし前をつけなくてはならない。そのために宗教に頼るというのがひとつの道であったが、それは死んだ他人に頼ると現在の日本みたいに、欺瞞が幼稚で善良で誠実なかたちで行われるようになるのを避けるためではなかったか。わたくしは、自明の理がさまざまに分からなくなった我々に、法や近代を語る資格はもう既に失われていると思う者である。いや、実際に資格はあってもなくてもいいのだが、実際にきちんとまともに出来なくなってるじぇねえか、という……