★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

嘆きわび空に乱るるわが魂を

2019-03-11 01:51:43 | 文学


「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」
と、慰めたまふに
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
と、 なつかしげに言ひて、
「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」
とのたまふ声、けはひ、 その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、 ただ、かの御息所なりけり。


この場面がいいと思うのは、最初の源氏のあんまり気持ちがこもってるとも思えない――とわたくしは思うんだが――紋切り型のせりふを、葵上(ではないのだが)が「いで、あらずや」と全否定したあとで、物思う魂はほんとに体をぬけでてしまうのですね……、と源氏の「かならず逢う瀬あなれば」、「深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば」といった魂の行く末についての言葉の残響と絡みつつ、「わが魂を結びとどめよ」という、――魂の独立性だけの問題だけでいえば、葵上の言葉であってもまあおかしくはないのだが(やはり無理かもしれないが)、「たまふ声、けはひ、その人にもあらず」と急速に明らかになってしまうところであった。

だいたい、葵上にも冷たかった源氏のことである。本当は、生き霊なんかだれのものでもよいはずだ。生き霊なんてもともとは噂みたいなもので、生じてしまえば誰が口にしようと同じことだ。葵上の代わりに御息所がしゃべっただけかもしれないわけである。

それはともかく、震災のあと、我々の社会は、あたかも死者の声が聞こえるが如き仕組みをメディアなどで作り上げて独特な呪術国家になってしまったが、――いわば、メディアで流されているそれは、「かならず 逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ」、「ダヨネー」みたいな妄想的コミュニケーションを延々しているようなものであって、源氏でさえ若くして罪に苦しみだしているのに、我々の社会は、まだ死んでも会えるみたいなところでうろうろし始めている人々を多く生み出している。まだ現実で正義を為している近代人と思い込んでいるわれわれは、噂の量で人を脅しつける手法をとっている限りはほとんど源氏の周りの凡人たちとかわらず、生き霊にもなりきれない妄想人にすぎない。

死者について語ると、源氏みたいなきれい事をいうことにもなりかねない。死者に自由はないから反論ができない。我々は自由に嘘がつける。そのために、昔は、生き霊とか死霊がきちんと「嘘つくな」と言いに来てくれたのであった。

まあ、いろいろ事情はあるにせよ、親子を含め他人とともにある人生は半分嘘なので、自分の生は自分だけで落とし前をつけなくてはならない。そのために宗教に頼るというのがひとつの道であったが、それは死んだ他人に頼ると現在の日本みたいに、欺瞞が幼稚で善良で誠実なかたちで行われるようになるのを避けるためではなかったか。わたくしは、自明の理がさまざまに分からなくなった我々に、法や近代を語る資格はもう既に失われていると思う者である。いや、実際に資格はあってもなくてもいいのだが、実際にきちんとまともに出来なくなってるじぇねえか、という……
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