
杉浦正一郎の「離合」(『コギト』5)は、前作「高架線の記憶」と同様に家族が主題なのだが、前作が朝鮮人家族の離散の悲劇を扱っていたのに対し、今度のは、日本人同士の話である。自分だけ家族から離されて養子に入っていた高校生「わたし」が、実の姉の死をきっかけに、血の繋がった家族と交流をする話で、――「高架線の記憶」と同様、なかなか読ませる。死んだ姉がかつてはじめて喀血する場面は以下の通り。
私の手をとつた。かと思ふと直ぐにぬらぬらした綺麗な血を吐き出した。私は姉の背をさすりながら途方にくれて甲板から下を見てゐた。姉の血が海のなかへたてにかたまつて入つて行くのを、上からみてゐた私の眼には、真紅な珊瑚が海の底にあつて、夫れがぱつと一時に花を咲かせた庸に、美しく見えた。
これが、最後、母と妹(美智)が「わたし」が別れるときの描写につながっている。
母は美智の廻灯籠をもたされて、美智は金魚の瓶をぶらさげて、ふたりが坂を上って行つた。美智が母のからだにするやうにくつゝいて歩くので真紅(まつかな)な金魚たちがともすると頭をへりにうちつけそうに、玻璃の器のなかでゆらゆら揺られ乍ら、うすぐらい山の街へ上つて行つた。
つまり、上の場面では、肺を思わせる珊瑚に鮮血の花が咲くのだがそれは海の底に沈んでゆく、それが死であり、――対して、妹と母は真っ赤な金魚と一緒に坂を上ってゆく、これが生なのである。文字通り血のつながりが修辞的に処理されたわけだ。そして重要なのは、そのどちらにも属していない、――いままで彼ら家族とはそこそこ交流はあったとは言え赤の他人だった「わたし」は、死でも生でもないところに取り残されているのである。この小説の静かな語り口が、その虚無的な場所を表現している。
しかしまあ、こういう話題は、近代の日本では極めてありふれたものでもあったので、やっぱりこういう結末はロマンティックな若書きと言えそうだが……。誰でも三代前の自分の先祖の周辺を調べてみれば、こんな話でいっぱいである。今だって大変だ。
わたくしが容易に政治や戦争をかたりたくないのは、ただでもこんな状況なのに、これ以上何かを加えなくてもよいと考えるからである。