
ある者は自分の影を踏もうとして駈けまわるが、大抵は他人の影を踏もうとして追いまわすのである。相手は踏まれまいとして逃げまわりながら、隙をみて巧みに敵の影を踏もうとする。また横合いから飛び出して行って、どちらかの影を踏もうとするのもある。こうして三人五人、多いときには十人以上も入りみだれて、地に落つる各自の影を追うのである。もちろん、すべって転ぶのもある。
――岡本綺堂「影を踏まれた女」
なんしろ字なんか書くって奴はいとも面倒くさいもんであるよ、みんなよくもまあながながとことや細かくつまんねえ屁理窟やつまらん男と女がどうしたとかこうしたとか、すべったとかひっくりかえったとか凡そベラボーでちんぷでなさけなくはては臍茶なもんやないかないか――だがみんな生きとしいけるものはおまんまというものをいただかなければならないのが、実に厄介センバンだよ。これにはシャッポだ。だから私は凡そおかねのない人達がどんなことをしようとやろうとたいていがまんしてむりもないなと考えながら傍かんしているんだ。
――辻潤「だだをこねる」
二つの足で立つようになるために、人間は二十万年もころんでは立ち、ころんでは立ちしたんだろう。そして、手が自由になったとき、どんな気持ちがしただろう。
ものをつかんで、土の上に立った人間のすがた。
――中井正一「生まれ変わった赤坂離宮」
寧そ初めからやり直した方がいいと思って、友達などが待って居て追試験を受けろと切りに勧めるのも聞かず、自分から落第して再び二級を繰返すことにしたのである。人間と云うものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今迄少しも分らなかったものも瞭然と分る様になる。
――夏目漱石「落第」
……青空文庫で、「合格」を検索したら、安吾が共産党を貶した「戦後合格者」ぐらいしかでてこなくて、滑ったり転んだり落第するなら沢山出てくる。思うに、戦後世界というのは、やたら「合格」を基準に成り立っている世界といえるのではなかろうか。安吾言うところの堕落を避けようと「合格」文化をつくってしまったのであろう。そこで内発的な思想がどんどん失われて行くことになったのであろう。マルクスの思想に合格、トランプの意向に合格、といった具合に。どうしようもない。