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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ほうろく地蔵を訪ねる(香川の地蔵41)

2019-04-08 18:10:35 | 神社仏閣


仏生山の法然寺の西側入り口にほうろく地蔵というのが座っている。明治時代、ちょいと文明開化を被ってしまったおじさんにしかみえないので、よくみてみよう



確かに焙烙にみえないことはないが、あえて焙烙を被っている理由は――、八百屋お七にちなむ地蔵尊もほうろく地蔵なので、たぶん火あぶりになった人を慰めているんだと思うが、詳細不明。



百相八幡神社を訪ねる(香川の神社186)

2019-03-28 17:35:35 | 神社仏閣


百相八幡神社は仏生山。ちきり神社と舩山神社を結んだ直線のちょうど真ん中あたりにある。文治あたりに出来たらしい。



境内のなかに花道がある……。垣も花畑になっていた。そろそろ平成もオワるのであちこちで神社の改装が始まっている。このお花は違うかもしれない。神社でちゃんとせねばいけなくなるかもしれない。神仏よりも花というのものに我々は弱い。

 

あちこちにある「表彰記念」と燈籠。



嘉永年間かな……



拝殿



本殿が石のスタイル。祭神は応神天皇。なんと祭日は、「八月一五日」。

香川県神社誌に曰く、

古老の口碑に依れば、昔社前の大川の底堀をなせしに黄金の像が現れしを里人畏敬して祠を祀りしと言へり。


黄金の像とは……、誰だろう……

明治初年右の像を神鏡に改めて御霊代りとせり


改めてしまいました。最初の黄金の人(仏像かなあ……)はどこへ……。

  

境内社の皆さん……



薄曇り

円成庵内の小祠を訪ねる(香川の神社185)

2019-02-26 23:01:37 | 神社仏閣


円成庵は多肥上町。
ここは、木造六字尊立像という密教の仏像(一二世紀)があるというので有名なのだが、いまは見られない。修理中のことである。



左側にお地蔵さんがいる。



その左側に小祠あり。詳細不明。





最近、高松市内では伸びすぎた木を切っているのが目立つ気がする。案外、不気味な形をしているので疲れた中年には薬である。

渋柿地蔵を訪ねる(香川の地蔵40)

2019-02-15 01:09:18 | 神社仏閣


渋柿地蔵は、中野町。渋柿寺の住職の釋鉄雄氏による由来書に拠れば、ここらに戦国時代末期、香西氏の臣下の吉田玄蕃の城があって、彼の死後墓所となったらしい。東側の中央通りは昔香東川であった。いつも氾濫してこまったので江戸期に埋め立てられてしまったが……。とにかく氾濫がらみで人が死ぬところには地蔵を置く。そのまわりに生えていた柿の木の実は渋かった。それで「渋柿地蔵」となったそうである。

しかしまあ、有名なのは、むしろこれ↓



釋氏の解説は否定しているが、聖徒が刻まれているとみなして「切支丹燈籠」と考える人もいるという。そういえば昨日はバレンタインデーだったが、クリスマスも騒ぐ人たちも多いし、日本には大量の隠れキリシタンがいると言えよう。ただし、本人も自覚がないから無意識に隠れているレベルのすごい隠れキリシタンである。拷問したらすぐに転ぶが、家に帰ってからクリスマスツリーをまた飾ってしまう。長崎に原爆を落としても、それを燔祭と受け取ったひともいた。これは自覚的な人であるが……。この人はどちらかというと、隠れ日本主義者みたいな感じがする。小説を読んだ限りでは……

富田町地蔵尊を訪ねる(長野の地蔵2)

2019-01-03 11:58:14 | 神社仏閣


二〇年近くこのあたりにいたにも関わらず、ちゃんと覗いたこともなかったが、なかなか良い顔をしている……
木曽町福島の富田町にある地蔵菩薩。わたくしの育った八沢という地区も、確か昔は富田町だった。大正九年七月に書かれた由緒が前面に飾ってあった。行き場に困っていた地蔵尊に堂をたてたのであった。中心になった人たちは知っている名字の何代か前の先祖であった。

水無神社を訪ねる3(長野の神社7-3)

2019-01-01 18:53:06 | 神社仏閣


龍の吐く水は凍っているので、しばしば手を洗う子どもが泣いている。しかし油断は出来ないのだ。涙が凍るかもしれないからである。悲しくなくても心も凍る木曽である。なぜ人類はこんなところに進出したのか?



霜柱というものを見たことのないやつにダウンコートを着る権利はない。



讃岐とちがって神社の境内に聳え立つ樹木がしゃんとしている。讃岐のだらしくなく横に広がったお化けみたいな木はなんですか。時々熱帯みたいな植物も生えてますし。

  

 

いつもの狛犬さん。眼の金色がいつ落ちるか心配である。



大日尊ここにあり

 

境内社のみなさま(参拝者たちはここにはあまり来ない。かわいそうである)



本殿。中は見たことがない。

 

狛犬さん2

 

 

明治末期の燈籠。



お神輿が燃えている…

白山神社を訪ねる(香川の神社184)

2018-12-15 23:26:03 | 神社仏閣
スケートでおじさんの体はぎしぎしいってますが、いやがるゼミ生などを引き連れ、スケートリンクの隣の白山神社(三木町)にゆく。



 

狛犬さん。わたくしが「かわいい」と言うと、ゼミ生さんも「かわいいです」と繰り返す。他の研究室のゼミ生が「忖度」と突っ込む。



向こうに見えるのは白山(讃岐富士の一つ)である。こんな小山が富士なわけはないが、――こういうことを言っていると、案外かかる神社は参道が長く足にクルので「案外奥にあるぞ本殿は」と学生たちに嫌がらせを言うておく。











神門に到着。体力の限界近し。



拝殿近し。

 

狛犬さん。

『香川県神社誌』にはいろいろ情報が載っている。

まず、極楽寺記という書に、「延長四年九月明海勧請白山権現于高岡」とあるそうだ。お坊さんが白山権現を呼んできたのであった。また、全讃史には「古老伝昔有 晴明者 居白山下妙通占筮術 世人稱白山相人・・・・蓋此相人則越人是以迎 越白山妙理権現司之呼」とあるそうだ。いつもの古老さんのお話では、越国の出の清明という者がいて、占筮の術に通じていて彼がつくった、らしい。この二つの説、とにかく怪しさ満載である。とにかく、白山信仰や御嶽信仰やらは、田んぼの神様たちとは違うのである。全国の白山神社を作った人たちは、あるいは白山信仰のふりをしようともお米の人たちとは何か別種の志を持っていたに違いないっ。確かに柳田国男風のロマン主義はあれだと思うが、あれがいつもあれであるとは限らないのである。



境内社の鳥居?昭和三年九月奉納。

 

小さな狛犬を大きく撮る。ゼミ生が自ら「かわいい」と言う。教育の成果である。

  

境内社の皆さん(白石社、天神社、地神社)。しかし、修験道を山人とみたりするロマンは、大概、――角力とりが石を奉納したのが始まりとか(案内板の石版に書いてあった)、そんな感じのエピソードで萎えてしまう。

琴平神社を訪ねる(香川の神社75-2)

2018-11-17 23:51:36 | 神社仏閣


久しぶりに観光通の琴平宮を訪ねました。快晴でしたが、なんとなく明るくなっております。鎮守の森感がほぼなくなっているのです。

 

この人たちは別に変わりなし。



あっ

一年前は……



後ろのビルを見ていたら、シティ神社の匂いまでしてきました。大塚英志が『「伝統」とは何か』のなかで戦時中の思想戦に関わった藤沢親雄という人物(柳田国男にも関係あり)に注目していましたが、これのひとはナチスのドイツ人アトランティス起源説の真似をして、日本人の起源をムー大陸に求める説をおもしろがったりしていました。〈伝統〉は、鎮守の森に閉じ込めておいた方がよいこともあります。開かれてとんでもないところに飛散することがあります――というか、そう思いたいバカが出現するのです。――それはともかく、北方領土の問題はあれだな……、「愛国者」は二島返還で喜んでいる場合なのかね……?、完全に後退じゃねえか。というより、ロシアからしたら日本は米軍基地に他ならず、そんなところに土地を貸すかいな……

菅原神社を訪ねる(香川の神社183)

2018-10-14 22:42:10 | 神社仏閣


菅原神社は香西南町。宇佐神社の近く。神社名の石碑と金比羅燈籠(嘉永六年)とその後ろには……



社稷五大神。この形のものは初めて見た。香西のあたりも「社稷五大神」の名前を用いる圏内であろうか……?



鳥居は平成十七年のもので新しい。

  

牛さん。



注連石と拝殿。



本殿。



『香川県神社誌』には、「古今名所図会」の引用があった。

菅公土人平賀某に賜ふ所の神影を奉齋し、里人小祠を営みて崇敬せしが、後阿野、香川二郡の領主香西氏これを崇敬し、香西中島の南面に社殿を造営し神影を遷して累世厚く崇敬せりと云ふ。名勝図絵には、神影は平賀某に賜ふ所にして後中村天満宮に納め、その後神像をつくりて當社に納む。當所は顯然たる菅公の旧跡なれば村民の信仰厚しと云へり。中島の南面とは香西氏の天神廓の中にして、現今の字西打小字天神の地なり。


そういえば、香川県の菅原神社/天満宮の実態を考えたことがなかったな……



そうですか、と言いたげな牛さん。



香西氏の城が、近くの宇佐神社あたりにあったのであるが、天正十年の長宗我部の侵攻でこの神社あたりも激戦があったらしい。



境内社あり。