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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

柳森神社を訪ねる2(東京の神社5-2)

2018-10-06 13:25:12 | 神社仏閣
境内は狭いのであるが、沢山の境内社を詰め込んでいて、全くもって東京みたいだと言へよう。



富士宮浅間神社――富士講関係。江戸初期にはもうこの神社の中にあったというが、案内板によると、明治の初期に何らかの理由で廃れたという。明治以降の神道による弾圧と関係があるのかわからないが、ともあれ、いまは復活している。富士講は言うまでもなく富士山に対する信仰なのであるが、われわれは子どものころからやたら山を作りたがる。何かそうすると安心するところがあるのであろう。わたくしは、山の狭間で育ったから、信仰も何もあれなのであるが……。江戸ではものすごい数の講があったと言われている。



明徳稲荷神社。



秋葉大神。うちの近くにもいましたね……



水神厳島大明神/江島大明神



金比羅宮。あらっ



狐の横に幸神社。



右の鳥居が有名な、福寿神祠(徳川桂昌院殿)。いわゆる「おたぬきさま」である。

 

狛犬や狐様のかわりに、形容しがたいおたぬき様の夫婦が居られる。ちょっと一部がでかすぎないであろうか。というような、小学生のようなコメントはさておき、ご懐妊の方が旦那の方を向いておらぬし、旦那の方は参拝客の方を向いてやる気満々である。まさに、この世の夫婦の1シーンを切り取ったと言ってよいであろう。



それはともかく、このお狸さんは、家光の側室で綱吉のお母さん・桂昌院が崇拝していた狸である。この人は、かなり身分の低い庶民の出であるという説があって、所謂「玉の輿」の起源と言われているが、どうせ、もともとは、嫉妬した誰かがでっち上げたお話であろう。知らんけど。源氏物語のあの人と同じで……。そして、そういう俗説に乗っかり、狸などを祀って玉の輿に乗ろうとする大奥の女中達のあれなことよ。とはいえ、こういうことで心を落ち着かせてないと現実は酷いのであった。そして残念なことに、われわれは、けっこういろいろな意味で狸や狐に似たような異性に簡単にひっかかり、幻影を抱いて生きてゆくのであった……。

それはともかく、この神社でかなう事は、以下の通りである。https://hisagawa.com/shrines/tokyo-chiyoda-ku/yanagimori/

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、出世開運、勝負運、金運、諸願成就、火防鎮守、玉の輿、安産

この神社だけですべてがかなう!いま思ったんだが、日本のコンビニに何が足りないかと言えば、神社である。

柳森神社を訪ねる1(東京の神社5-1)

2018-10-06 12:35:24 | 神社仏閣


つくばに行く前に、雨の秋葉原で柳森神社に行きました。上は神田川にかかる橋から眺めるその神社。





雨のせいもあるが、香川ではみられない異様な雰囲気である。この神社は、太田道灌が江戸城をつくるときに、城郭鬼門除けということで京都の伏見稲荷大明神を呼んできたのであるが、――柳も神田川一帯に沢山植えたので、柳森神社となったようである。というわけで、今も柳があるのであるが、雨の日は不気味である。「神田川」のカップルもこんな柳をみているから「あなたの優しさが怖かった」とか錯乱してしまったのであろう。



道路から眺める本殿。



鳥居は昭和五年。なぜかというと、関東大震災で一回灰燼に帰したのを復興したのが、昭和五年なのである。



鳥居があって、上に登るのではなく、河岸の方に降りてゆく神社なのである……所謂「下り宮」というやつである。



水鉢は元禄六年らしい……昔だなあ……



力石群。文化財。大正時代、飯田(神田川)徳三という力持ちがいて、その一派が使っていたという。いまでも、やたら重い物を持ちたがる人はいるものである。大概、本当は他の人が支えている。



拝殿。

 

狐さんは昭和六年。敗戦まであと一四年。

木太町の流れ灌頂地蔵を訪ねる(香川の地蔵39)

2018-10-05 23:27:42 | 神社仏閣


延命地蔵の北側には流れ灌頂地蔵がおります。平成十四年の建立。



どうやら5月18日には流れ灌頂供養の縁日があるようである。

http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/gyoji/4/


上の四国新聞のサイトによると……、江戸末期、ここらで遊んでいた子どもが牛の骨を拾った。その骨を中心に縄の数珠で囲んで百万遍遊びをやっていたところ、彼らの親の夢に牛が出てきて「ありがとう成仏できる」と言ったので、びっくりした親たちがお坊さんに相談して、流れ灌頂の供養を毎年やっていたところ、次第に市も立つようになったというのである。

夢に出てくるということは、今の何でもかんでもの擬人法と違って、もう何かせざるを得ない何かがあったのである。わたくしも夢でマーラーに会ったことがあるが、その日のうちに交響曲をひとつ聴き直してあげた。マーラーは確か、のどが渇いたとか言っておった……。わたくしは供養の仕方を間違えたと思う。

それはともかく、流れ灌頂の供養自体は、戦争末期に途切れてしまい、縁日だけが残ったらしいのだ。研究があるのか知らないが、戦争によっていろいろ伝統が途切れた例はかなりあるのではなかろうか。文化を守ろうとして守り手が死んだのでは元も子もない。

ところで、数日前につくば市に滞在して分かったのだが、高松は空襲に遭ったとはいえ、昔の道や寺社がかなり残っていて、城下町の面影もかなりあるのだが、つくばというのは本当に人工的な感じがする街だった。大学院生の時も、そんな気はしてたのであるが、改めて古い城下町に住んでみて急につくばに行くと異様な感じがする。筑波大学も森に囲まれた自然のなかの大学なのになんとなく冷たい感触だ。ちなみに、故郷の木曽は、自然の中に近代文明が落ちているみたいな状態である点は、高松よりつくばに近い。われわれは自然が豊だー風光明媚だーとか自分の国を褒めるけれども、本当のところはそういう認識は実感からは遠く、むしろ、不自然に今と昔の人工物が混在するような状態に美を感じているような気がする。自然を攻略しようとしてきたのは、西洋も日本も同じだと思う。

こう考えるのも、――おそらくは、わたくしが最近、自分の住んでいる場所を二〇〇あまりの神社が点在するような場所として「見える」ようになってきたからである。一応、勉強と調査あっての認識の、いや視覚的な変化なのであろう。神社仏閣などは、いまや生活とは切り離されているから、相当時間をかけないとこんな状態にはならない。学校教育でのふるさと教育なるものは、昔の「ウサギ追いしかの山」のような完全な幻想を与えるもので、かえって視覚=認識的な変化を起こすことがない。

木太町の延命地蔵を訪ねる(香川の地蔵38)

2018-10-03 19:22:17 | 神社仏閣


一応石碑には「延命地蔵」とあるのであるが、本堂にはでかでかと「このお地蔵様は ぽっくり地蔵 です」という看板が貼り付けてあった。わたくしも、そろそろ、「延命」することと「ぽっくり」というのが殆ど同じ事を言っているということに気づいてきた。「ぽっくり」というのが「ぷっくり」とかにも似てて、もはや「ぷっくる」でも良いような気がしてくるが、たぶん歳をとってくると、そんな小せえことはどうでも良くなってくるのであろう。



ちなみにここの東側?は、「春日庵(遍明庵)跡」という所である。東側を振り返ると春日川の向こうに屋島が見える。




上野東照宮を訪ねる(東京の神社4)

2018-10-02 23:23:25 | 神社仏閣


上野には徳川家康を祀った東照宮がある。ここを神社と言い張るのなら、日本の神社の「神」は徳川家康みたいなただの人間のことを指すことになるが、そんなことはない。と言いたいところだが、その通りなのである。ただ、その人間が川の氾濫とか男性器を含んでいるだけなのだ。石造明神鳥居は寛永十年。



すごいっ。銅燈籠の並びが神っ

 

狛犬のマッチョぶりがすごい。大正三年。





われわれの三等身礼賛文化は、こんなものから来ているのかもしれない。



外国人の方々が、いきなり手を合わせたりしてましたが、この徳川家康というのは狸と言われていましてね、わたくしの普段すんでいる四国には狸の祠など掃いて捨てるほどございましてですね……。





医薬祖神五條天神社を訪ねる(東京の神社3)

2018-10-01 23:45:58 | 神社仏閣


上野公園には、五條天神社もある。花園稲荷はこの神社の境内社ではなく、隣り合ってるだけ。確かにどちらの参道も立派にあるから別物という体は保たれている。

 

狛犬さん。

この神社に祀られているのは、大己貴命と少彦名命で、日本武尊が東征の時にここに二人を祀ったとか……。文献的には室町時代から存在が確認できるそうである。あちこち動いて、昭和三年あたりでここらに落ち着いた。面白いのは天神とあるからにゃ道真公を祀らねば、ということで、寛永十八年、天界・公海という当時のお偉方の坊さんが像を造って開眼したという。で、ここには道真もいるのであった……。この神社は、近所の寛永寺の建築動向で移動してきた歴史があるようであり、もうお寺と神社は一緒でいいのにと思っていると、



七福社。七福神もちゃんといるのであった。



拝殿。

 



印象的だったのはこれ。関東大震災のあと遷座したときのものであろうか。鳥居は寝ても迫力がある。

花園稲荷神社を訪ねる(東京の神社2)

2018-09-30 21:42:19 | 神社仏閣


外国の皆さんが大好きな神社です。



この連なりに何かアウラを感じるらしいのです。わたくしは、ここ数日の疲れを感じます。



拝殿。

「忍岡稲荷」が正式名称らしい。「穴稲荷」とも言われますわな……。春告鳥など思い出すところではある。

「懐疑説の破綻と来るね。ああ、よして呉れ。僕は掛合い万歳は好きでない」
「君は自分の手塩にかけた作品を市場にさらしたあとの突き刺されるような悲しみを知らないようだ。お稲荷さまを拝んでしまったあとの空虚を知らない。君たちは、たったいま、一の鳥居をくぐっただけだ」
「ちぇっ! また御託宣か。――僕はあなたの小説を読んだことはないが、リリシズムと、ウイットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなものを除き去ったら、跡になんにも残らぬような駄洒落小説をお書きになっているような気がするのです。僕はあなたに精神を感ぜずに世間を感ずる。芸術家の気品を感ぜずに、人間の胃腑を感ずる」


――太宰治「ダス・ゲマイネ」


ほんとに太宰というのは信心のない男です。



こんこん

ドドーン/\/\という恐ろしい音響が上野の方で鳴り出しました。それは大砲の音である。すると、また、パチパチ、パチパチとまるで仲店で弾け豆が走っているような音がする。ドドン、ドドン、パチパチパチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。何んともいえない変な心持であります。私たちは二階へ上がって上野の方を見ている。音響は引っ切りなしに続いて四隣あたりを震動させている。其所にも此所にも家根や火の見へ上がって上野の山の方を見て何かいっている。すると間もなく、十時頃とも思う時分、上野の山の中から真黒な焔が巻き上がって雨気を含んだ風と一緒に渦巻いている中、それが割れると火が見えて来ました。後で、知ったことですが、これは中堂へ火が掛かったのであって、ちょうどその時戦争の酣な時であったのであります。
 そして、小銃は雁鍋の二階から、大砲は松坂屋から打ち込んだが、別して湯島切通、榊原の下屋敷、今の岩崎の別荘の高台から、上野の山の横ッ腹へ、中堂を目標に打ち込んだ大砲が彰義隊の致命傷となったのだといいます。彰義隊は苦戦奮闘したけれども、とうとう勝てず、散々に落ちて行き、昼過ぎには戦が歇みました。


――高村光雲「幕末維新懐古談 上野戦争当時のことなど」


上野彰義隊の戦いは穴稲荷で終わったとも言われておる。全然無血革命ではない……。



ここの狐は、弥左衛門狐というやつで、寛永寺開山のときにすみかを追われた。で、責任者のお坊さんに頼んでここに住ませてもらったのである。有名な稲荷神社の割に話がおもしろくないような気がする。なにゆえ、この狐、坊主ぐらい騙そうとしなかったのであろうか。江戸の狐は本気出さねえな……。

祇園宮を訪ねる(香川の神社182)

2018-09-19 13:19:14 | 神社仏閣


仏生山。「船山神社」の東、田園地帯にある。ザ・農村の神社というかんじである。田んぼの真ん中にもっこり林があったら大概神社で、ここもそうなのだ。が、ここは三宝荒神でも稲荷でも八幡でもなく、「祇園宮」である。




拝殿


本殿あたり

 

拝殿の右側にはちゃんと由緒の説明が書いてあった。

祇園さん 八坂神社
 祭神 素戔嗚尊
 鳥居の額には「祗園宮」と刻まれ、灯籠には「祗園宮宝前 天保十二年 壬牛 六月吉祥日」の字が見える。
香川県神社史を見ると、大字百相字祗園宮八坂神社のあることが記され、このお社は舟山神社の境外末社。祭日は、旧七月七日から十四日までとなっている。

「香川県神社誌」には確かにそう書いてあった。

 神社史の社名と土地の呼び名がちがうのは、ちょっと意外なようであるが、実は祇園さんというのは、八坂神社のことである。
 八坂神社は、京都市東山区祗園に祀られた神社で、祭神は「すさのおうのみこと」「くしなだひめのみこと」とその御子八柱の神で全国の祇園さん信仰の中心であり明治四年までは祗園さんと呼ばれていたのである。
 ここに八坂神社をおまつりするようになったのは、いつの頃か全くわからないが、境内の風化した石塔(燈籠かもわからない)の頭部の状態などから察してずい分古くからここにまつられたであろうことが想像される。




これですかな……

 祭神「すさのおうのみこと」は天照大神の弟さまで「天の岩戸物語」「やまたのおろち退治」などよく知られている。人文神、英雄神、あらしの神、人間*を授ける神、作物の神としてまつられるのである。
 また「くしなだひめのみこと」は「やまたのおろち」にのまれるところを「すさのおうのみこと」に助けられその妃となった方である。




素戔嗚尊は乱暴者の希望の星で、どんなにやんちゃ(←この言葉大嫌い。教育界からこの言葉をなくしたら少しいろいろと改善されそうな気がしないではない)な阿呆でも、役に立つことがあるということを証明している。か、どうかは分からないが、そういうことになっている。たぶん、まだ少女だったくしなだひめは下品な素戔嗚尊に手を焼いたことであろう。そんなしょっちゅうヤマタノオロチは出てこないが、出てきた時の態度をいつも取りたがるのがこういう輩の特徴だ。とはいえ、不思議なもので、彼はなんだか洒落みたいな歌の発明までやってみせた。

雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


はいはい、力持ちはいいですね~。これもどうせ素戔嗚尊の歌じゃないのであろうが、そういうことになっている。思うに、我々はもっと平時に役に立っている人材を褒めなくちゃならない。そうでないと、思想のないところまで思想が見えてきてしまうからである。

力石地蔵を訪ねる(香川の地蔵36)

2018-09-15 15:53:59 | 神社仏閣


仏生山、高橋商会の前におります「力石地蔵」。これはリキイシではなく、チカライシと読むらしいです。

http://busshozan-community.info/busshozan-map/jizou/6chikaraishi.html

「仏生山みんなの地図」によると、「力試しの石にされていたが、「罰が当たっては」と丁寧にまつられた。」らしいのです。もう遅いような気がしますが、だいたい人はあとからになっていろいろと気づくものであります。しかも、上のサイトの写真とは場所が違います。また移動したらしいですね……。もはや「運試し」になってきている気がします。


十蓮坊を訪ねる(香川の神社178)

2018-09-14 16:20:29 | 神社仏閣
大学からの帰りに仏生山の「十蓮坊」によりました。『香川県神社誌』には「龍田神社」として載っています。祭神は龍田大神ということになりますですね。このあたりの神社のいくつかは『神社誌』の記載に拠れば、龍田大神の神社ということになっていますが、よくわかりません。



いまは、珍しい「イスノキの群生する十蓮坊」として知られています。少なくとも、わたくしはそうして知りました。真ん中の石祠に立てかけてあった額には「十蓮坊之祠」とあります。燈籠は天保年間のもの。







この鳥居には、「十蓮坊祠前石華表」とありました。日本では華表というのは鳥居の古い言い方みたいですが、中国の華表は天安門広場のそれが知られているように、派手な標柱です。これが鳥居の先祖だという人もいるらしいです。左側の石柱には、この華表の由縁が結構長く書かれていましたが、今度読んでみようと思います。

一寸島神社を訪ねる(香川の神社177)

2018-09-13 15:42:34 | 神社仏閣


丸亀駅の近くにあります。参道の両側に建物があるケースです。

 

狛犬さん。

鳥居の額には、「厳島神社 天満宮」とありますが、『香川県神社誌』に曰く、

「初め二社にして一を弁財天と称し一寸島媛命を祀り、一を天満宮と呼びて菅原道真公を祀れり。西讃府誌によれば、弁財天は丸亀藩士大塚八郎左衛門尊崇し、その邸に奉祀ありしを元禄元年この地に移し、又天満宮は浦人吹屋甚兵衛なる者崇敬祭祀したりしを貞享三年ここにうつせしものにして、後寛保元年これを一社に合わせ祀りしといふ。」

というわけで、弁財天と道真公が一緒になったそうです。弁財天はイチキシマヒメと習合しておったので……まあ三人ともいえますが、まあどうでもいいかな……

鳥居や燈籠などは江戸期のものが残っていて、玉垣も明治二二年だった。

境内には、木野山神社(岡山に多い、狼のものかな……)、稲荷神社があった。あと、遙拝所の石塔もあったので、石鎚かな……わからんが……。



拝殿

本殿の裏側にも鳥居と石祠がみえました。ここらあたりの街はまるで近代文学の世界――樋口一葉からカフェー文学にいたるまでの――に帰ったような風景が広がっているのであった。高松は空襲でかなりなくなってしまったけど……