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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

広庭神社を訪ねる(香川の神社193)

2019-08-08 23:29:17 | 神社仏閣


広庭神社は六条町。西には春日川。

古い拝殿があったような気がするが、現在は↓



直接本殿への階段が屋根付きで。こんなかたちの神社はちらほら見かけますね。町中のシティ神社よりも好感が持てる……。カップルが雨宿りできそうだから。



蝉が地上に這い出してきた穴がそこら中にあった。

右手に案内板があった。それによると創建は不明だそうだ。広庭であるから、欽明天皇が祭神。「里人は天皇様と言い伝えている」そうである。天皇陛下でもなく、大元帥でもなく、「天皇様」という言い方はどうも昔から気になっている。様をつけることで、なんか親しみを感じるのはわたくしだけではあるまい。ヨン様とか……。わたくしも、もう少しえらくなれば様が愛称に近くなっていくのかもしれない。大学ではなぜか、いつの頃からか「教員」、あるいは「教員殿」とか言われている。意地でも「先生」と呼びたくないぜ、という意志を感じる。日本語というのは難しいものである。よく言われていることであるが、我々は「源氏物語」なぞ習うから、何でもかんでも二方面の敬語的な感覚を用い、敬いながらへりくだる、へりくだりながら敬う、へりくだりながら馬鹿にする、馬鹿にしながらへりくだる、へりくだりながら自分を尊敬する、――などなどジェットコースターみたいな人間関係を生きることになっている。天壌無窮なのはこの人間関係の方だ。

さっそく『天皇史年表』で、欽明天皇のところを読んでみると、元年に隼人と蝦夷が帰順、あとは、朝鮮半島での争いの激化や、仏教とともに大量の人が渡ってきている時期に当たっている。百済聖明王が戦死したのもこの頃。朝鮮半島と日本列島だけが世界みたいな時代である。

案内板によると、

昔は相当の社であったが、長宗我部の兵火で焼失し、

また長宗我部かっ、と思うが、とにかく高松の神社はなんでもかんでも長宗我部に一度焼かれたことになっており、これはかなりあやしいと言わざるをえない。焼かれる以前に、そもそもなかったのではないだろうか。

「以来森の中に石祠があるだけであったが、この地に縁があった高松市丸亀町の呉服商筒井熊吉氏が地元発起人(五名)と計画し、大正十年(一九二一)資金を投じて社地を広め、社殿を造営して再興した。」


大正末期にどうも神社復興運動があちこちであるらしい。筒井さんはどういう縁なんだろうか。地元発起人が頼みにいったのかなあ……。






本殿


本殿の背後に道路あり。



鳥居は、昭和六年のもの。



地神さん。

神田明神を訪ねる(東京の神社6)

2019-06-01 07:57:03 | 神社仏閣


つくばエクスプレスは秋葉原に通じている。秋葉原で巨体にはでなプリントTシャツを貼り付けたお兄さんやお姉さんたちにもまれながら、神田明神に行き着く。



巨体

 

なんだこれ。これたぶん狛犬だよね……。ただの巨大番犬ではないか。



広重の『東京名所図会』でも出てくるところですね。

主神がえびす・だいこく・まさかどであり、まさに明神イイネとしかいいようがない。



虚実はもはや関係ない。銭形平次の碑まであります。



風★杜夫が金を投げていると、銀ちゃんがあれしているようで、銅銭だからまあいいかという……

蛭子神社を訪ねる(香川の神社188)

2019-05-27 23:05:24 | 神社仏閣


蛭子神社は沙弥島。祠のなかをみると蛭子さんが数人おられるので蛭子神社であろう……

わりと島の神社には……これが祀ってあることが多いらしい。



珊瑚っ



仲良くやしろあり。



中には亀さんが鎮座。仄聞したところ、近くの濱に打ち上げられていた亀さんを祀ったということである。決して、カミとカメみたいな語呂で祀ってしまったわけではないようである。高松のシティ水神にも亀さんがいたが、それは本殿の外にいた。我が国では内と外の区別は重要だ。しかし、外から内に入ることはもっと重要な意味を持つ。

大統領が土俵の中に侵入したことが重要であるように。我々は、それを別に境界侵犯だとは必ずしも思わない。富をもたらしてくれる大物は内に入れてもいいのであった。トランプは蛭子みたいなもんである。貧乏神であってもまだぎりぎり許せる。問題は、疫病神みたいなもの(しかもそれが日本人)になったときが我々の凶悪さがでてくるときである。ほとんどの我々の憎悪が、外にではなく内に向かっていることは重要である。自虐的な人々を攻撃しようとして、結果的に自分たちの内部を虐めているのだから、ますます自虐的である。

華下天満宮を訪ねる(香川の神社70-2)

2019-04-11 00:56:00 | 神社仏閣


雪洞を吹き消して拜殿を下りると、夜はもう曉に近くて、星の影も薄くなつた。拜殿の横から、ぐるりと神殿の後に廻ると、こんもりとした神域の木立は、紫の雲が垂れ下がつたやうで、梟が一聲けたゝましく啼いた。
 横の方の玉垣の側で、何やら白いものがチラと動いたやうなので、道臣は足音を偸んで近づいて行くと、其處の大きな杉の幹へ、蝉のやうにピタリとくツ付いてゐるのは、寢衣姿の京子であつたから、道臣は慄然として棒のやうに突つ立つた。


――上司小剣「天満宮」


 

市田山地蔵を訪ねる(香川の地蔵43)

2019-04-08 18:39:22 | 神社仏閣


「薬師庵地蔵」から西に田園地帯医に下ってゆくと、「市田山地蔵」に出会う。





傍らに、「佛生山 南無阿弥陀佛」とある石碑あり。

地蔵と道標というのはたぶん同じような機能を果たしている。道標というのは、いまのようなナビよりも、安全を念じる役割があっただろうからだ。田舎の風景というのは、方向感覚も含めて案外茫洋とした不安があるものである。市田山というのは地名らしいです。