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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

豊玉依姫大明神を訪ねる(香川の神社204)

2019-10-17 23:58:15 | 神社仏閣


豊玉依姫大明神は女木島。豊玉姫と玉依姫がくっついているようだが、『香川県神社誌』によると、玉依姫が祭神のようだ。

豊玉姫は夫の山幸に自分の真の姿(サメ)を見られ、子どもを産んだ後海宮に帰ってしまったが、妹の玉依姫がその子どもを世話したのである。で、その子どもが玉依姫と結婚して生んだのが、神武天皇である。よく分かりませんが、そうすると、神武天皇はサメの血を継いでいるのではないでしょうか。

それはともかく、『神社誌』によると、豊玉姫が子どもを産んだのが屋島の西海で、海宮に帰った彼女の代わりに玉依姫が遣わされて、一度女木島に寄ってから屋島に向かったのだそうだ。その紀念がこの神社なのだそうである。

森孝宏氏の論文「香川県における「和爾賀波」伝説について」によると、香川県には多くの豊玉、玉依、龍神などの水神関係の神社があって、川の畔にも多いらしいのだ。そういえばそうかもしれない。三木町の鰐河神社の由縁をみると、ワニに乗って豊玉姫が川をさかのぼってきて、上の子どもを生んだことになっている。

まあどうでもよろしいのであるが、瀬戸内海は神代の時代のエピソードに事欠かないのがすごいなあ……。女木島の古墳からは当時の朝鮮半島のイアリングまで出てきているのであった。高松の古墳も旧型だし、確かに、大和朝廷四国起源説でも唱えてみたくなるのは分かるわ。




女木島の八幡宮を訪ねる(香川の神社203)

2019-10-17 20:48:17 | 神社仏閣


八幡宮は女木島。女木島の産土神とされているらしい。



海に向かって松林の広々とした中にある。拝殿を望む。

猫がたくさん境内にいる。そのなかで……

 

前足がしゅっとした狛犬さん。



本殿

この八幡は、先日の「女木元宮社」から移ってきたものである。『香川神社誌』によると、元宮の位置に神功皇后が上陸したそうである。それが月日を経て湾が埋もれ砂浜となっていったので、海に近い現在の位置に移したのだそうだ。これが元和五(1619)年である。大阪の戦が終わったころのことである。



家のなかに入ってゆく感じで、合祀されている小祠あり。『神社誌』によると合祀されたのは明治四四年。



これは普通の荒神であろうか?



瀬戸内海に散見される?珊瑚状みたいなさざれ石?『神社誌』言うところの仲ノ神社か?

女木島の地蔵尊を訪ねる(香川の地蔵47)

2019-10-15 23:04:43 | 神社仏閣


港の近く、モアイ像の側におられる。

昭和三〇年の有名な海難事故の慰霊のために建てられたらしい。もともと島の南西側にたっていたのだが、季節風が強いのでこちらに移ってきたという。そういえば、島に住んでいると、位置によって季節風のあたり方が違うことは自明なのであろう。我々はそんなことも忘れてしまっている。天気予報などに頼るようになったからかもしれない。

わたくしなんか、窓を開ける前に、ネット上の天気サイトで天気を確認するほどである。で、実際の天気は違うなとか言っている。完全に転倒した世界に生きているのだ。

天気の場合は分かりやすいから、このように反省も可能なのだが、――ニュースサイトその他についても全くおなじことが言えるはずである。


女木元宮社を訪ねる(香川の神社202)

2019-10-15 12:18:52 | 神社仏閣


女木元宮社は女木島。海辺の八幡と山の住吉神社の間ぐらいの中腹にあり。



お供え……

案内板によると、神功皇后が「三韓征伐」の帰り道、大風に遭って、女木島に避難したという。そのときに旅の安全を祈ったのがここらしい。戦わず朝鮮半島を屈服させたという明らかに嘘くさい「三韓征伐」が実際どんな出来事なのか実際のところまったくわからんという他はないし、この瀬戸内海の大風というのが信用ならない。

地図で見ていると、瀬戸内海は「海」なのであるが、実際に舟でこの海を渡ってみると、まわりの島島に囲まれた「道」であることが明瞭である。柳田國男の「海上の道」とはこのことかと、わたくしはびっくりしたものだ。この道は、柄谷行人が言うように、木曽川まで繋がっているとはあまり思わないが、――だって、川をさかのぼるのは滅茶苦茶大変なんですよ、――確かに広い自由な道である。特に、瀬戸内海の海の静けさは異常である。細君も言っていったが、諏訪湖よりも穏やかなのだ。

で、かかる静かな「道」で生活の中心をなしてもいるこの瀬戸内海が荒れたりすれば一大事で、なぜだか大きな転覆事故とかも結構起こっている。もっとも、三韓征伐のときの舟の技術がどれだけのものだったのかわからないけれども、当時の天皇の軍隊がこの静かな海で難渋しているようでは、朝鮮半島に着く前にどこかで立ち往生していると思うのだ。思うに、偶然嵐に巻き込まれたよりも、瀬戸内海に来てやっと安心した皇后一行がちょっと休憩しただけ、というのどかな風景をわたくしは想像したい気がする。あるいは、当時の力自慢の女の子が水軍に入って帰ってきた記念とか、あるいは鬼さんたち、即ち孤立したグループが滅ぼされた記念か――。

瀬戸内国際芸術祭にでていたリョン・カータイの作品に、この島の夫婦の履歴を写真と一緒に並べたものがあったが、今も昔も、さまざまな人々がいて、島から出たり入ったりしているのである。人間の想像力や事実誤認も強弁も無限の数が存在してきたのであった。先日「いだてん」で描かれていた、ソ連の満州侵入の悲劇に関しても同じである。事実よりは、女の子とがどうした息子がどうした酒がどうした、といった感情的記憶として戦争は記録される。死人の数をエビデンスみたいにみなす見方自体が不健全なのだ。その数は感情が創り出す数なのである。



確かなのは、当時もたぶんこんな風景だったかもしれないというだけである。

附記)『香川県神社誌』をみたらこの元宮はもとは湾の側にあったらしい。砂浜が拡大し島の中腹にあるようにみえるのだ。

西村神社を訪ねる(香川の神社201)

2019-09-19 17:40:35 | 神社仏閣


西村神社(西村荒神社)は木太町。



入り口に、「皇紀二千六百年記念」の碑。左側の柱をみると、下部が埋もれているが「西村婦人会」か。昭和一五年というのは、隣組強化法とかが出来た年であった。占領軍によって戦後二年後ぐらいに隣組は禁止されているようだ。我が国ではいったん石を名前と共に周りに並べた磁力を振り払うことが出来ないのが神社である。そんな神社に隣組や婦人会が石を名前を彫って突き立てる。だからか分からんが今にいたるまで隣組は存続しているし、政治的機能もないとは言えない。香川でも長宗我部とか米軍とかに神社を焼かれたが、復活しているものがかなり多い。社殿は焼かれても神社とは「石」なのである。焼けない石……



石が緑に囲まれている風景が我々の脳裏に染みついているせいでもあろうか。草葉の陰には天皇がいる、という感じである。ジブリ映画なんてとてもその意味じゃ頑固に保守的ですよね。トトロというのは天皇ですよ、一人の。旧社会党の仲良し主義とは全く別のものである。

八坂神社旧御旅所跡の地神さんを訪ねる(香川の神社199)

2019-09-18 21:39:45 | 神社仏閣


木太町。八坂神社の南にいま新しい御旅所が建設中であるようにみえた。平成の改元の時にはすごく神社が新しくなっている。令和になって、どれだけ神社がリニューアルするか注目しているのであるが、みんなお金がないのか、ついに神社を支えるコミュニティがぶっ壊れているのか、目立った動きはないかなと思っていたら、さすが、ここは違う……。

確かに、御旅所の外観を残しているが、そのなかに堂々と地神さんが立っている。燈籠も新しい。



土台がまるいタイプである。わたくしの住んでいる周りにはあまりない形である。

最近、鉄塔が仏塔に見えたので、わたくしももう少しで悟るかもしれない。



久しぶりにみた「支那事変記念」の碑。いうまでもないが、こういう記念碑の方が本当は「本尊」なのである。テレビで知ったのだが、最近の女子中学生は好きすぎる男子なんかを「尊い」と言うらしい。

影向神社を訪ねる(香川の神社198)

2019-09-18 21:01:08 | 神社仏閣


影向神社は木太町。

祭神はスサノオ。南東に八坂神社がある。案内板によれば、昔このあたりは入り江で、九九〇年頃、甕と楠が流れ着いたのであった。(いやな予感である。流れ着いた人はだいたい祀れとか言い出す……。ほんとうは、流れ着いた人をみんなで亡き者にしてしまったのでその代わりに祀ったのかもしれないが。四国はいろいろの流れ着くので慣れていたのであろうが……。)その甕と楠は、

異様な光を放っていた。その夜、里人の夢に姿形は夜叉のようで頭に角を頂いた者が現れ、「われは尾張の国より来た牛頭天皇なり。……」

案の定、この牛は自分を祀れば病気にならんとか言って消えたのだが、朝確認してみると、里人みんなその夢をみており(←昔から、調子を合わせる日本人でござる)、この地に塚をつくって祀ったのである。で、南東に「牛頭天皇社」をつくり、「入江神社」とも呼ばれていたが、明治になって八坂神社になり、いまはこの塚を影向(えごう)神社と称している。みんなはこれを「ようごさん」(影向を「ようごう」とも読むからかな……)と呼んでいる。

影向というのは、神仏が仮の姿をとって眼前に現れることをいうのである。牛頭天皇が姿をみせず、その牛頭天皇もスサノオの仮の……(あるいはその逆か)、という訳で、八坂神社が明治政府の言うこと聞いてその名前を八坂神社にしているのに、この神社はいまも植物に埋もれながら、「お前たちがみているのは仮の姿だ」と呼びかけているのであろう。

 

境内を圧する巨木は、牛頭天皇の角みたいですね……

天神社を訪ねる(香川の神社197)

2019-08-13 17:28:50 | 神社仏閣


天神社は下田井町。下田井町の北部にある。この神社が西天神区と東天神区を分けているみたいです。印象的なコンクリート打ちっ放しの拝殿。道真がここで休んでいったとか。



振り返る



本殿



台風が接近して参りました。思うに、田園地帯にいると、不穏な風というのはわりと体感できるものです。町の中にいるとわかんなくなるんですよね……




居石神社を訪ねる2019(香川の神社1-2)

2019-08-11 19:51:19 | 神社仏閣
初心に帰って居石神社にゆく。二年前にここを訪ねたとき猛烈な熱波だったので、今日は夕方に行くことにします……




本殿


名物のさざれ石

宮本百合子は、「修身」という51年の文章のなかで、「君が代」を歌わせようとする教育を批判する前提として

信濃教育会教育研究所が、小学生の行動について父兄が問題だと考える点を調査したら、「無作法」各学年を通じて七〇%、「根気がない」三年七六%、六年七三%、「理窟をこねるが実行力がない」各学年四二%そのほかだった。青少年の育ってゆく精神によりどころを与えることが必要だということは誰のめにも明らかになっている。

といった見解から出発している。ピチピチした子どもの心にとって「君が代」はふさわしくない、というのである。信濃教育研究所が調べた小学生はわたくしの親の世代なはずだが、まったく今の子たちとおんなじである。昔から子どもは「不作法」で「根気がなく」、「理屈はこねるが実行力がない」のであった。もっとも、これは長野県の特徴かもしれない。理屈はこねるが実行力がないとはまさにわたくしのことである。

それにしても、「君が代」がさざれ石の如くとは、やはり変わった感覚だと思うのである。

『源氏物語』にはむかしから、「もののまぎれ」というテーマが読まれてきた。作中の三つの密通事件のことで、皇統の乱れこそがこの話の中心だということである。(本居宣長の「もののあはれ」はそれに反発して生じた。)そして、それは、現在の、源氏物語が「反万世一系」(三谷邦明氏)を狙ったものであるという説にまで至っている、わけであるが、――「もののまぎれ」だからこそ、逆に、にもかかわらず結果的に乱れないこと、それが「もののあはれ」なんだとか強弁することの方が、この国ではよくやられていることではある。41年、保田與重郎の「日本文化の独創性」(『近代の終焉』)なんか、日本の文化の模倣性を脆弱性とみなす気持ちは、「自信」とか「気宇」とかによって大国の「俤」に変貌するに違いないみたいな主張を繰り広げている。――そりゃまあそうかもしれんが、変貌しないうちから、そういう気分に浸るのは、一種の「バカ」なのではないだろうか。

高松頼重の墓を訪ねる(香川の地蔵・番外編)

2019-08-10 19:07:29 | 神社仏閣


下田井町にひっそりと五輪塔。

http://genki365.net/gnkt05/pub/sheet.php?id=18980

によると、

「建武2年(1335年)旧高松城(現、古高松の喜岡寺)の城主頼重の死を忍んで後日作られたもの。」


らしいです。ここらの神社は高松氏由縁のものであったが、

https://ameblo.jp/katana-bokudo/entry-12341437764.html

この方の研究によると、「長専寺、貢八幡神社、高松頼重五輪塔を結ぶトライアングル」が存在しているという。「敵の侵入をすばやく察知し、防ぐために意識的に造られている」とみておられるが、そうすると、貢八幡神社は本当は神社ではなかったのかもしれない。確かに、妙に見晴らしがいいんですよね、この五輪塔も八幡の場所も。

貢八幡神社を訪ねる(香川の神社196)

2019-08-10 17:50:37 | 神社仏閣


田んぼがとっても青いから今日は田んぼ記念日



春日川の向こう側にある、昨日訪ねた「(下田井)八幡神社」が移動する前の場所に立っている。六条町。ゆえに「旧宮様」というのである。なぜ「貢」なのかは知らないが、――はっきりしていることは、日本の神社がこれほど無数にあるのは、――武士?があちらこちらで戦ったり子孫や部下が派遣されたり改姓したりする過程と関係があるということであろう。高松のこれほどの神社の数も、由縁を見る限り、武士の都合が大きいような気がする。神道が「宗教」でない訳はこんなところにもあるのであった。武士と雖も権威を示すのに常に刀を抜いて怒声を響かせているわけにもゆくまい。神だか天皇の親だかしらないがそういうものをおっ立ててシンボルの政治をおこなうのである。いまでも箱物をつくる人はそういう輩である。本当に天下を取ると自分を祀る家康みたいな人もいるが、ほかの人も心根はおんなじであり、今のネット民が偉そうにしているのと変わらない。

なにしろ弱き民の方は、下田井町の方に八幡さんが移ってしまったあと――

それ故、六条は下田井八幡宮の氏子であったのがいつの頃か分かれて六条に鎮座の鹿島神社を氏神としたのである。(案内板より)

鹿島神社というのは、いまの三宮神社のことであろうが、北の方で結構遠い。今や、川の向こう側の下田井八幡は近くて遠い神様であった。

こうなりゃ、エネルギーのある若者なんかは、おれも神社をいつの日か……と思わないではないであろう。

 
狛犬さん




本殿


わたくしの足下で、蛙が跳ねた。

八幡神社を訪ねる(香川の神社194)

2019-08-09 16:55:13 | 神社仏閣


八幡神社は下田井町。昔ここらは川添村といった。村社がこれである。長い参道がある。その周りは畑があり、――こういうのが神社という感じがする。



着きました。





日露紀年の注連石……。日露戦争は勝って?からこういうのを建てているうちに、もうその意味はどうでも良くなってしまったのだ。「三韓征伐」と同等の神話的歴史となってしまったのである。




ありゃりゃこれはもうはっきり書いちゃってるな……

 
狛犬さん

『香川県神社誌』によれば、慶長の頃できた神社らしい。新庄長光という人が八幡を崇拝していたところ、

「一夜枕頭に松樹高さ十余丈なるもの生じ、樹上に八幡大神現れ給ひしを夢み、氏を高松と改む。」

えっ、それで高松っ

「子長重豊臣秀吉に従ひて朝鮮の陣に加はり戦功あり山田郡田井郷に居る。」

あーこのころ朝鮮に由縁ありか……

「或る夜、六条村貢原に八幡宮をあるを以て適地に遷すべしと夢告あり。往て之を求めしに果たして神像ありしかば、慶長四年を以て祠を下田井に建てて之を祀ると云ふ。下田井八幡宮と稱へらる。」

となりの六条からもってきてしまったか……。それにしても、神様ってよく移動するよね……。うちの田舎(水無神社)みたいに、山を越えてぶん転がして持ってくるよりはましか。

「一説に當社は天正年間貢八幡宮兵火にかかりしを以て下田井に遷座せしなりとも云ふ。」

結局、よくわかんないんですね……

「七月七日祭禮の節 田の中に棚を架して酒食を薦むるに、雌雄の鴉その頸白く、大さ鳩の如きものありて當社より飛来して之を食ふ。若し食はざるときは更に棚を架し酒食を改めて再三に及ぶ。俗に之を御當具烏云ひ神使なりと云へりとあり。」

厳島神社でも有名な、所謂御烏喰(御當具烏)神事ですね。飛んでくるまで頑張って旨いもんを並べていたんですね……。日本の烏はこんな神事によって甘やかされたもんだから、近代になってもこちらがおいしいものを出してくるのを待っています。

やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
 烏は、また、鳴き叫びながら、空に廻い上って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。
 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。

――黒島傳治「渦巻ける烏の群」




すばらしい本殿




地神さん


若宮神社

 
その他の地神さんたち