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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

罪はいつも減速せず

2025-05-13 23:45:13 | 思想


すなわち、科学は、潜在的なものを現働化させることができる或る準拠を獲得するために、無限なものを、無限速度を放棄するのである。哲学は、無限なものを保持しながら、概念によって共立性を潜在的なものに与える。ところが、科学は、無限なものを放棄して、潜在的なものに、その潜在的なものを現働化させるような或る準拠を、ファンクションによって与える。哲学は、或る内在平面あるいは共立性平面をもってことに当たり、科学は、或る準拠平面によってことに当たるのである。科学の場合、それは〔映画の〕ストップモーションに似ているところがある。それは或る不思議な減速であり、減速によってこそ、物質は現働化し、またそればかりでなく、命題によって物質を洞察しうる科学的思考もまた現働化するのである。 ファンクションというものは、《減速された》ファンクションなのである。

――ドゥルーズ=ガタリ「ファンクティヴと概念」(『哲学とは何か』財津理訳)


毎年、わたくしの庭の檸檬の葉を食いに来ているキアゲハの幼虫たちを虐×したが、ドルゥーズとかガタリとか、科学がストップモーションみたいだとか言う前に、私にみたいに体のファンクション自体を作動させ昆虫を×した罪を背負って生きるべきだ。罪は減速したりしない。罪は既にそこにあるか永遠にある。確かに無限にはなさそうだが、人間には罪が似合う。

田邊おしゃべり元

2025-05-12 23:57:14 | 思想


併し絕對無が飽くまで否定媒介的であることは、必然にそれが自らの否定たる有を契機として含み、行爲的還相が直接存在の無媒介的有に固定せられる傾向を伴ふことを意味する。その限り絕對無は有無の對立緊張を含むのである。併し實存哲學の場合に於ける緊張の静力學的平衡が具體的現實なのではなくして、行爲の動力學的轉換が絕對現實なのである。こに歴史の意味があり、歴史的實踐に苦難郎感謝の自己存在があるのであつた。緊張はその抽象面に外ならぬ。歴史が單に平衡緊張の連續的推移でなく、同時に危機革新の非連續的飛躍たる所以である。實存哲學の諦觀に對する、絶對無の哲學の實踐的殉難即淨福がそこに成立つ。ヤスパースが用ゐた「愛なる戰」 liebender Kampfといふ意味深き語は、實存哲學に於てよりも寧ろ絕對無の哲學に於て能くその意味を發揮するといふべきではないであらうか。


――田邊元「実存哲学の現界」


授業授業会議と四時間以上喋っていたのだが、田邊元も根本的に饒舌である。

エリートたちの整斉と庶民のスキャット

2025-05-11 23:09:34 | 思想


 戦後には、1960年の安保反対闘争時に、東京大学文学部の学生であった樺美智子さんが国会議事堂前での警官隊とデモ隊との衝突時に命を落としました。1969年の安田講堂の学生排除は、それ以前に東大以外にも広がっていたベトナム反戦運動を前史としていましたが、直接の発端となったのは医学部であり、闘争の素地は理科系学部にも広がっていました。
 東京大学の反権力性や学生運動については、おびただしい数の研究や資料がすでに存在しますので、それらをここで掘り下げるにはとても紙幅が足りません。確実に言えることは、時代状況に応じて現れ方は異なっていても、学術的もしくは選良としての東京大学の教員や学生のプライドが、時にこうした反権力的な行動となって繰り返し表出されてきたことです。


――本田由紀「序章 「東大卒」は日本社会の何を映しているのか」


本田由紀編著の『「東大卒」の研究』をすこし覗いてみた。東京大学卒の人は注目されていることもあって、そこそこイメージもあるしそのイメージの崩壊も世間のなかにあるようなきがしないではない。が、例えば「北海道教育大学卒の研究」とか「都留文科大学卒の研究」とかはきいたことはない。東大卒も社会と同じく社会問題においてはそこそこなのだ。逆に地方大の個々のイメージのなさの方が最近は問題である。東大は頂点だから何か特色があるようにみえるだけで、それは他の大学が偏差値に置換されていることの裏面なのである。

ちなみに、学生運動は東大解体とかなんとか解体とやってるだけあって、派手なことやらかした大学が大学名を売ったという側面がある。たとえば、東大闘争よりも日大闘争の方がちゃんとしてた、みたいなイメージの創出である。それを上のように、「プライド」が「反権力的な行動」となるみたいな観念で把握することこそ東大卒を論じようとする者の特色である。

日本の近代文学で武のわかった人というのは森鷗外一人で、[…]ですから自衛隊でいまだに吉川英治ばかり読んでいるのです。ぼくは、あんな三流文学を文学だと思っていると、もしあなた方が言論統制をするような世の中になるとえらいことになるぞといってからかう

――三島由紀夫「尚武の心と憤怒の抒情」


東大卒という括り自体に意味はないが、三島や鷗外が東大を出たことには意味があった。吉川英治を三流とやじったり、自然主義を馬鹿にしたりするのに、彼らの圧倒的な自意識が必要だったのではなく、整斉への意識が違うのだ。

彼らの文学というのは、ショルティとシカゴ交響楽団のブラームスの交響曲第1番みたいなもので、つい静座して聴いてしまう。テンパニが管弦とちゃんと整斉して溶け合っている。

これに対して、きちんとものを整えられない一般大衆は、 やることがなかなか整わないのでイライラする。で、鼻歌でも歌いたくなるわけだ。いまは鼻歌を歌う前に、自宅に帰るというてがあるが、むかしはそうもいかなかったので歌ったのである。そういえば、むかしのロボットアニメの歌にでてくるスキャットというのは、植木等の歌う「ドント節」みたいなニュアンスがあるのかも知れない。それで辛うじて軍歌ならないのだ。それはともかく、いまやJPOPにおいて辛気臭い個人的ソングがあふれているから、若人が労働しなくなっておるぞ。我が国では「ごますり行進曲」みたいなものがプロテスタンティズムのかわりなのであろう。

授業のために、80年代の『海』に載ったロラン・バルトの音楽論を読んでみた。ちゃんとしていた。いま読むと当時はよく分からなくて読んでた人が多かったんじゃあないかと思うところがある。浅田彰にしても、なぜそんなにバルトを読んで嬉しかったのかよくわからない。たぶん、ウンベルト・エーコにしてもバルトにしても、当時の前衛音楽がスキすぎてなにかそれらを扱った箇所だけ何かに「勝った」感がでてしまっているからかもしれない。受験にしても論議にしても、勝つことは大した意味を持たないだけでなく、不幸を生むことが多い。

白昼夢と文化資本

2025-05-10 23:51:08 | 文学


 ストーブの暖い、上の水皿から湯気のぼうぼう立つまわりに、大勢成人や自分くらいの人々がい、独りぼっちで入って来た自分を驚いたように見る。――自分が試験されるのだから、母などは、ついて来るものとも思っていなかったのである。が、この光景を見ると、自分は急に心淋しくなった。そして一そう成人ぶった顔もし、眼の端から泣いて何か母親に訴えている娘や、心配そうに本を出して見ているリボンの後姿を眺めた。――
 第一日の試験に出来たつもりの算術が大抵ちがっていたのを知って、自分はどんなに涙をこぼしただろう。また、到底駄目に定ったと思って銀座へ遊びに行き、帰って玄関の暗い灯で、手に持った葉書を何心なく見、それが入学許可の通知であると知ったとき、歓びは、何に例えたらいい程であったろう。
 十三の少女の心に、それほど鋭い悲しみや歓びを感じさせながら、受け入れた学校は、それから十九まで私に、どんな感化を与えたか、自分を中心にし、主観で見れば、そこには限りない追憶と、いろいろさまざまな我が姿がある。けれども、人生を深く広く客観すると、一生の最も基礎となる五年を、夢とほか過せなかったのか、という疑問が起って来る。


――宮本百合子「入学試験前後」


とつぜん大学の頃を思い出したりもするのだが、――1年生のある授業で「自治会で徹底したディベートの練習をした方がいい」とか主張したのが一生の恥だほんと生まれてスミマせんとしかいいようがない。それでも、これは日中思い出すだけだから大したことはなく、御飯をたべればなんとかなる類いである。

しかし、夢に何回も出てくる試験最中というのがあり、「いままでの人生は夢でした」という趣向の夢はそうはいかない。大学の先生たちは、案外こういうのをみる。宮本百合子の場合はどっちだったのであろう?私も「博士課程から現在はまでは夢でした。いまは修士論文提出の前日です」に加えて「大学入試以降は夢です。明日はセンター試験です」とかいう夢を現在でもときどきみる。もはや現実感という意味では、起きているときよりもリアルなので、いまの現実のほうを疑っているくらいだ。で、その試験が終わってからも「2次試験の数学で1問もわからないけど、そういえば、センター試験でもほとんど解けなかったのでは?そういえば英語もほとんどがあやしいぞ」みたいな0点に向かって突進して行く趣向が続いて行く。――そういえば、こういうのを起きている今記述できると言うことは、その実、それが夢の記憶が白昼夢と化しているといってよく、その0点状態への恐怖で、私は、仕事や研究にひとより五分ぐらいははやく着手してると思う。はやく取りかからないとまったく脳が空白であるような気がしているのだ。

わたくしが思うに、この悪夢を白痴夢と化す受験システムが、文化資本的なものを迫害しているのである。



わたくしの文化資本は、初等教育の教師の家に生まれたことによって得られた部分がある。上のレコードなんかがそうであろう。そこにある文字や画像を含め、音声も記憶にはっきり残っている。東京こどもクラブのレコードに混じって授業用の見本ソノシートのレコードがあった。体育用とかもあった気がする。――こういうものは、試験にでなかった。東京の私大につとめている同業者は、いまどき金持ちの古風な「文化資本」なんかもう存在してませんわと言っていた。しかしまあ、アカデミシャンが文化資本とか言い始めたときに、その人も品のいいディレッタントではなくなっている。

悟空と奴隷たち

2025-05-09 19:39:22 | 文学


『近代文学』十月号の話で、平野氏は雲にのった孫悟空のように、自身をあらわしている。いまそこにある一つのことでわたしを非難したかと思うと(作家らしすぎるということで)、翻って、わたしが非難されたそれとは正反対のものであるとして(わるい意味で云われている組合の指導者)逆から非難する。このわざは、言葉のあやをかいくぐって連続的に行われているが、たとえばその足許の雲となっている一つの誤記が、誤記とわかってしまったとき、孫悟空の雲は消散して、さて一場のてんまつはどうなるだろう。
 文学のことは、それについて話したいことを話すひとのものだけではなくなって来ている。


――宮本百合子「孫悟空の雲――『近代文学』十月号平野謙氏の評論について――」


今日は「悟空」5・9の日だそうです。筋斗雲をかいてみました。

悟空にとって筋斗雲とは水泳に於けるビート板みたいなものであろうか。我々はなぜかビート板なしでも浮けるようになってしまうし、むしろ、筋斗雲やビート板はスピードを遅くしてしまう邪魔なものになってしまう。勉強やお使いだって、はじめは自立してやれているのではないが、はじめは教師や問題集や入試などが補助装置として必要なのである。

生成AIがはたしてそういうものかどうか?ビート板がそのまま舟になったような勢いではないか?

最近の歴史では、ラジオで総ファシスト化、テレビで総白痴化、ビデオで総オウム化、PCで総クズ化、スマホで総老眼化ときて、チャットGPTで総精神病化ときたので、そろそろバ化がくるのではないだろうか。

そういえば、テレビの後から始まったゲーム脳とかもあった気がする。わたしはゲームと言っても将棋とオセロでとまったからわからないし、なぜかゲームというものに嫌悪感があるのであるが、――柄谷行人のデモに対するあれ風に言えば、「ゲームをすることによって脳を変えることは、確実にできる。なぜなら、ゲームをすることによって、その人の脳は、その人がゲームをする脳に変わるからだ」としかいいようがない。

わたしもパソコンでカチャカチャやってるから人のことは言えないが、太宰とか漱石の同時代人になったつもりで読むみたいな研究者は、まずそのカチャカチャやめろと。

――それはともかく、われわれはもはや道具というもので自分たちの生活を豊かに高度にする気はない。孫悟空になるのではなく、車に乗って悟空に守ってもらうつもりなのである。火花山の猿どもは楽をしていた。生の効率化である。

昔から、若い頃、仕事の効率化を主張している連中はものすごく多くいたが、彼らが今どうなっているかというと、単に好きなこと以外の仕事をさぼっているだけのひとになっている可能性が高い。思ったよりも人の社会は効率よく出来ないのはそもそも自明だし、はじめから「効率化」は方便だったのではないだろうか。現在効率化みたいな主張をする奴隷的人間はほぼ100%人に仕事を押しつけるために仕事の意味を攻撃しているだけである。一方、管理職みたいな人々にとっては、効率化の主張はだいたい他の改革事業やらのためのバランスとも関係していたわけで、もっと欺瞞的であった。ほんとは効率化でなくて時間を取りあげて新規事業に動員したいだけであった。で、結局、省いていいものなどあまりないから、仕事量は改革すればするほど増えてゆく。奴隷からしたら迷惑きわまりない。問題は、奴隷にも自意識があるので、この現状を打開するのに、他の奴隷を虐めることで自分の自由のスペースを確保するようなやり方が常態化したことだ。

「無頭の怪物」の復興策

2025-05-08 23:23:56 | 思想


ネグリ=マキャヴェッリの「絶対的統治」は、力量ある人物による自由の再建という選択肢を 「ありえない」ものとして退けるとともに、「多くの危険と多くの流血」の道を偶然の出来事の出来にも長い未来の持続にも委ねることなく、あくまでも集団的主体の政治的実践として思考しようとした結果生まれた一つの回答であった。それが必ずしも武装闘争の呼びかけを意味しないことは言うまでもない。むしろ、腐敗しきった政治体においてなお、マルチチュードの力能を認めること。 そこから無頭の怪物が立ち上がりうることを認めること。というよりも、政治共同体はけっしてあらかじめ自明のものとしては存在せず、その「はじまり」はばらばらに分離された多数の人間たちに求められるほかないことを承認すること。 その多数の人間たちがみずから「構成」するものとして政治共同体を、すなわち、われわれにとって親しいと同時に不気味な、無頭の怪物を考えること。 ネグリ=マキアヴェッリはそんな不可能を試みることこそが「政治」であることを教えてくれる。だとすれば、「リベラルな世紀」の末期を見届けつつあるわれわれも、まだしばらくは、 マキアヴェッリとともにとどまり、政治について考えることができるかもしれない。

――王寺賢太「マキャヴェッリとポスト六八年の政治的〈構成〉の諸問題」



確かに、ひとりの人間のやることなどたかが知れているわけだが、そのマルチチュードや無頭の怪物などが、ある種の一人の人間に見得てしまうからやっかいだ。

そういえば、やんごとなき人間がなぜか入学してしまった筑波大は、いままでのなんちゃってテック都市にあるテック大学の有り様を反省し、やんごとなき国文科を作りましょうそうしましょう、――と思うのであるが、はやりそのとき、その改革は天皇の顔をせざるをえない。錦旗革命かどうかはともかく、この30年の國文学徒たちの抵抗運動などの顔をはしていまい。

左派が期待していたマルチチュードも、その実「統計」みたいな顔をして換骨奪胎されてしまったわけだ。統計と言うよりもアンケート結果みたいなものであるが。そういえば、本質的なことがらについては面白くもない統計結果しか出てこないのに対し、芸能人みたいなものに絡んだものが、マルチチュード的な生を感じさせる。例えば、彼女(彼氏)にしたい芸能人とか、結婚したい芸能人とかはわからないではないが、母親にしたい芸能人みたいなアンケートがあるのが面白い。しかも一位がもとモーニング娘。の辻ちゃんである。五人も生んでいるから、つまり子だくさんだから――自分も彼女からワンチャン生まれ得るとか思ってるのであろうか?あるいは自分の父親が辻ちゃんと不倫すると思っているのか?石破首相の人気よりも結果が革命的である。

要するに、政治的な意志としての英雄がでてくるからおかしくなるので、政治以外の英雄(=芸能人)のほうが、それを論評する人民の中に「無頭の怪物」みたいなものが顕れる可能性がある。なにより、それを生み出したシステムが復興する可能性があるのだが、そうでないと、システムにぶら下がるほかはない人間は暴れ出すことはない。

例えば、日本の大リーガーが身体的なハンデ(大谷以外)をものともせず活躍するようになったのは、スポーツ業界(とたぶん音楽業界)だけは幼少期からのエリート教育と大衆教育と学校の部活がうまいことかみ合い(かどうかはしらんが)、精神的にサブカルからの援護もあって、それだけだと成長を妨害しかねない学校のシステムを相対化できているからかもしれない。一方、思想や文学研究なんかは、大学からやれば人間的にも綜合的に学力がともなうときだからそれでよいみたいな考え方があるけれども、ほんとはそうでもなく、どうみても幼少期から多くのものを摂取していた連中しか大成していない。わたくしでさえ、幼少期の絵本の乱読とか朗読レコードを一日中聴いているところからはじまって、小学校で小説家(担任)に習い、10代は学校の授業は上の空のまま、ひたすら音楽で遊びながら文学思想関係を訳も分からず乱読していた。が、――幸運なことに、生存していたところが田舎過ぎて受験競争がほぼ存在せず、周囲との大した軋轢もなく通過できたわけで、わたくしの存在が、「田舎すぎて受験戦争のなかった場合」の有効性を示しているわけだ。猛烈な読書というのは、大学からではたぶん遅すぎで、記憶に定着しているものが少なくなり、大学以降は大学や学会との関係でどうしても、処世にからんだ読書を強いられ、それが得意な奴が勝ちかねない。これではだめにきまっている。

筆が滑ったが、わたくしはその意味でがんばらないと、「田舎すぎて受験戦争のなかった場合」が死滅する。

現代的怨念論

2025-05-07 23:03:00 | 音楽


 自己の内部へ閉じこもり、一切の人々から切り離された彼は、ただ自然の中に浸ることだけを慰めとした。「自然がベートーヴェンの唯一の友であった」とテレーズ・フォン・ブルンスヴィックはいっている。自然が彼の安息所であった。一八一五年に彼を識ったチャールズ・ニートがいっているが、彼は、ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を完全に愛する人間を見たことがなかった(54)。自然はベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。「私ほど田園を愛する者はあるまい」とベートーヴェンは書いている「私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する……」〔「……森や樹々や巌が返し与える木魂は人間にとってまったく好ましいものだ……」〕彼は毎日のようにヴィーンの郊外を散策した。暁から夜まで帽子もかぶらず日光の中または雨の中を、独りで田舎を歩き廻っていた。「全能なる神よ!――森の中で私は幸福である――そこではおのおのの樹がおんみの言葉を語る。――神よ、何たるこの壮麗さ!――この森の中、丘の上の――この静寂よ――おんみにかしずくためのこの静寂よ!」

――ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」(片山敏彦訳)


ロマン・ロランのベートーヴェン像についてはいまかなり修正が行われていて、さすがにもっと俗っぽい明るい奴だったのではないかといわれているが、ロランが我々よりも馬鹿だったことにはならない。そもそも一部の修正を全否定とみなしたがる怨念でおかしくなった人格が我々の時代の典型であって、ロランよりも、たぶんベートーヴェンよりも頭が悪くなっている。「田園」交響曲や「ジャン・クリストフ」を我々は生み出せるであろうか。生み出せないのは時代のせいではないのである。

ベートーベンの時代に録音技術があったら、エリントンやビートルズどころじゃない量のあのときの演奏みたいなものが発売され、マニアの人は一生聴いてくらせる。わたくしもそういう暮らしがしたいものである。

そういえば、この前、ジャッキー吉川とブルー・コメッツをきいていたら、もう少しでヒップホップにできそうな声だとおもった。あの時代の不良風味と我々の不良風味が別のものではない証拠のようにわたくしには思えた。この不良風味というのは、芥川や太宰のものとはちょっと違っていて、本当の、しかもつまらない怨念があるということだ。ベートーヴェン=ロラン風味の晴れ渡った怨念がまだ文豪たちにはあった。別役実が八〇年代の初頭に、いまどきの笑いの実体は怨念だみたいなことを言っていた(「要求される「笑い」」)。当時、このひとたちはあいかわらずどろどろしてるな、と思ったが、いま考えてみると、別役たちは来たるべき観客がほんとに怖ろしかったんだなと思う。実際に、このあと、笑いにはみえない怨念が噴出していったからである。

そういう怨念から観ると、ロランのえがく人間たちが悩み多き尊大さをもってみえるだけである。

perfection and destruction

2025-05-06 23:26:08 | 思想


 […]毛沢東は中国のモダニズムの悲劇的表現である。毛沢東は、何百万もの中国人(と他国の人々)に、過去と現在を克服して近代のオールタナティヴを創造することは可能だ、という信念を吹き込んだが、その帰結は、彼らに攻撃の矛先を向け、彼らに最も深刻で最も悲劇的な近代の矛盾を背負わせただけであった。毛沢東をゲーテの虚構の人物よりもっとファウスト的にしているのは、その革命実験による人的犠牲について、また革命のヴィジョンの仮借なき追求のなかでは結局のところ実験材料でしかなかった生存者について、毛が全く意にも介していないように見えることである。
 この実験は別の意味でも悲劇的なものであった。毛沢東が一九五〇年代、一九六〇年代 (文化大革命)に引き起こした破壊があまりにも衝撃的であったために、革命のヴィジョン――毛沢東のヴィジョンはそのなかの最後の表現であった――に対する、またそれとともに近代を克服する可能性に対する、総体的な不信感を植えつけてしまったのである。文化大革命は、今日から見れば、社会を資本主義から抜け出させ、もう一つ別の近代を追い求めた歴史的苦闘の最後のものであったように思われる。過去二〇年間にわたる世界各地の諸社会の経験が物語っているように、「近代の生の諸矛盾から抜け出す道」などないのかもしれない。その破壊性をそれとともに生きることを学ぶこと以外には


――アリフ・ダーリク「毛沢東思想における近代と反近代」(砂山幸雄訳)


いまも教育に合理性を旗に口だしてくるのは、新興ブルジョアジーである。それはいつもいいところの一部はついているのだが、教育を人為的にコントロールできると考えてる時点で常に失敗する運命にある。教育はみかけより文学みたいなもので作者に完全に従ってるわけではない。「文化大革命」は革命の進捗上にあるという意識の産物であったろうが、軍事的な制圧とちがって教育上の制圧を完全に行うことは出来ない。やろうとすると、革命自体が破壊されてしまうのである。ソ連だって、経済的失策によって破壊されたのではなく、文化政策によって自殺したにすぎない。革命政府がその実新興ブルジョアジーと同じようなルサンチマンによって突き動かされていることに、みずからが革命政府であることによって気付かなかったに違いない。

iPadで劇的に初等教育は進化するとかいっている研究者か評論家がいたので、――あれは隣の女の子や男の子の頭をはたくのにちょうどいい大きさだと、忠告してさしあげたことがあるが、ちっとは現実を想像して欲しいというかんじがする。これも昔、関曠野が言っていた気がするが、いじめというのは学校制度の強いる抽象的な平等性に対して、我々が本能的に持っている社会性=役を演じる人間性を無理やり実現しようとして出現する、と。それはともかく、テクノロジーをつかったいじめがいつも起きるのは、機械的な平等性への無理やりな反抗かも知れない。問題なのは、そのいじめとやらが、テクノロジーの機械性=エラーのなさによって、いじめが人間業を超えて完成性に近づくことである。そこに気付かないのは、子供、大人に限らず、人として頭が悪いのか意地が悪い。

ブルックナーの改訂癖というのは、なかなか完成原稿が出来た気がしない人々を勇気づける。というのは冗談だが、ブルックナーの完成性への追究は、一人、あるいは弟子をふくめたコミュニティでやるべきだ。

このまえテレビで、若手のマーラー指揮者=カーチュン・ウォンが、マーラーの曲について、オーケストラの限界を要求する部分こそが肝なんだと言っていた。本質的に優れている書物もそうだとおもう。読者の限界、よく分からなくなるところが重要だ。ところで、ショスタコービチの交響曲のトランペットパートは、あまりにきつすぎて、奏者たちがその限界点でこけたり音が出なかったりするのを予想して書かれている気がする。終楽章で瀕死しかかっているトランペットに何回かお目にかかったことがあるが、まさにソ連の終焉という感じだった。文化大革命の失敗なんか、タコさまの交響曲でとっくに予告されているのである。

ところが、最近のオーケストラは巧いので、きつい高音の連続も苦もなくやってのけてしまう。この調子で行くと、我々の革命の破滅は、もっと人間業を超えたところに設定されてしまうに違いない。

ミスティフィケーションの主体化

2025-05-05 23:12:33 | 思想


資本主義にとっての学校の主要な効用は、家族のスクーリングと人間の〈主体化〉にある。してみれば学校の効用は、それが企業や国家に必要な少数の人材を(極めて偶然的なやり方で) 生産するというポジティヴな側面より、圧倒的にネガティヴな側面から考察されねばならないのだ。現代の学校を特徴付けるその形式主義、厳格主義、体系性やカリキュラムの一貫性といった要素にも、あくまで学校制度のニヒリスティックな無益さと恣意性を隠蔽するための意図を見た方が正しいだろう。そして学校の戦略目標としての人間の〈主体化〉自体、いかなるポジティブな内実ももっていないのである。自己への敵対としての人間の主体化は、学校を超えたマクロな次元における現代資本主義の歴史的戦略に関係している。国家および科学技術体制と一体化したこの資本主義は、絶えざるサボタージュとミスティフィケーションの戦略を必要としている。現代科学技術の裡に、生と労働と環境自体を教育的なものに変える解放のポテンシャルが存在している限りにおいて、この体制は市民たちの学ぶ能力を挫折させ、解放をサボタージュしなければならない。またこの体制は、己れが生産する社会構造には市民たちを自ずと教育する力が欠けている事実をミスティファイする必要がある。だが史上大半の社会において、人間は社会構造それ自体によって感化され教育されたのだ。人間を教育することに関しての資本主義の無能さこそ、特殊化された空間における専門家による制度としての教育という幻想を生み出し、教育の完全な欠如と不在をみせかけの教育熱で覆い隠す狡猾な戦略をこの社会に強いたといえる。要するに現代テクノロジーの裡にそれと知られずに内在する解放のポテンシャルという見地からすれば、 二十世紀の学校の使命は一種の「予防反革命」にあることになろう。

――関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』)


関氏がこの箇所より前のところでも言っていたと思うが、――学校が資本にやくだつイデオロギー注入装置だという左翼的見解が、わざわざ文科省などに、「学校が役に立つ」という観念をおしえてやったようなところがある。むろん、学校なんかが役に立つわけがない。資本主義は消費のシステムで根本的に「教育」によって人材を生産するのは苦手である。しかし同様に、それと結託した近代社会がつくった学校も「教育」が苦手である。学校が説く「主体化」はそういう自明の理を隠蔽する為にこそ機能している。依存先としての唯一の存在でありながら、その不備を指摘され続けることこそ、学校の存在理由なのである。いまもICT教育の必要などと資本と国が旗をフルものだから、学校は慣習すべてを旧来の?やりかたとして勝手に解放(掘り崩し)ながら、それによって自然と作動する葛藤、すなわち、どうにか維持されなければならない善や人間への葛藤、――の場としてますます学校は再起動し続ける。むろんその葛藤は、歴史や科学とともにある実践を常に勉強に差し戻す。関氏も言うように、教育されることは我々が歴史的社会的存在であることと違うことではないのだが、――なにか合理的に切り取られた認識がインストールできる気がしてしまうわけである。

学生時代以来、いろんな疑問があって古典文学や漢文に遡行してみているのだが、おもったよりも明瞭に分かることは少ない。転向とかするひとが信用できないのはそこであって、「転向」とはいわば、歴史の不明瞭さ、我々が教育されうる実態ではなく、合理的に、AからBに移行するような認識を信じるということである。

朝ドラって総集編でみるとメロドラマが2倍速みたいなテンポになってけっこうおもしろい。しかし、この面白さは何か我々の「勉強」化されたものを快と感ずるセンスのせいではなかろうかと疑われる。

橋本環奈氏が演じたこのまえの朝ドラは結局1回も観なかったが、今日みたかぎりでは、ギャルというのは魂レベルの分類であって、おそろしく主体化された人間のことらしい。わたくしは、愚かにも、ギャルにはいろんな種類があるらしいのでここまで違うともはやギャルという括りがなくてもよいのでは、と思っていたくらいだ。――それはともかく、わたくしが子供の頃から不良みたいなのが嫌いなのは、たぶん根本的には、祭の天狗が怖かったみたいなレベルのことであろうが、彼らの「主体化」された態度が学校でおそわったことをそのまま実践に移したみたいであって、まったく反学校には見えなかったからである。大概の中学校の教師というのはそうは思っていないだろうが、――申し訳ないが、このくらいは、中学生でも気付くことだ。

同じようなことは何か芸術の趣味においても存して、オルフの淫猥な「カルミナ・ブラーナ」という曲、編曲版で吹いたこともあるけど、いまだに好きになれない。はじめから主体のふりをしているのは主体化とはおもわれないからだ。

我々は、常に他なるものとの関係をアイデンティファイし、主体としてミスティフィケーションしながら生きているので、キリスト教やベートーベンとみずからを重ね合わせてはじかれる何かを回収しようとしているマーラーのほうが音楽として主体的にみえる。SFでよくある、「人間そっくり」出現は、それを作品の中では科学や宇宙人のせいにしているが、本当は我々の社会や学校のせいである。授業で必要なので最近観返した「クローン」という映画にはそういう事情が明瞭である。実は宇宙人にクローンにされてしまっている国家公務員(研究者)の夫婦は、お互いの愛の関係と公務員の活動とうまく重ね合わせられない。どちらかが「クローン」ではないかと疑っているにちがいない。話としては、そんな話ではないのだが、「クローン」というのはそういう自己同一性の危機の比喩なのである。――それはともかく、上映された頃はあまり面白いと思わなかったこの映画であるが、共働きでそこそこがんばってきた公務員がそろって宇宙人に惨殺されるはなしということでいまは感情移入できるに違いないと思って観た。

が、今度は当方、老眼鏡をかけていたために暗い画面がよくみえない。我々の生は、かならずアインデンティファイを妨害するようにも出来ているのである。

二分法への対処

2025-05-04 23:22:43 | 思想


哲学者の中村雄二郎は同じように、オウムの発達にとってSFが重要であったことに注目しているが、しかし、そのさらに一般的な役割をも強調する。彼によれば、「オウムはある意味で、野卑で漫画的だったが、それは、人びとの広い無意識をとらえ、ほとんど知識階級を征服した」。その「広い無意識」とは何だったのか。私は、それが消すことのできない広島の刻印、つまり後には全世界に広げられた、日本の全滅という集合的なイメージを担っていたと主張したい。ここで問題なのは、大衆文化の中核を担っている未来モノ的で精巧でハイテクなイメージと世界破壊との観念が、多くの現代日本人にとって、抗しがたいような力を持っていることである。

――ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想――オウム真理教とは何か』(渡辺学訳)


ロバート・J・リフトンてまだ生きてるらしいのだ。デューク・エリントンがデビューしたあたりからずっと世界をみるとどうなるのか。いろんな物が一緒に見えてくるのであろう、彼にとっては、ナチスもオウムも連合赤軍も同じなのだ。こういう見方が一見客観的に見えるのが世論であり、いまの二分法に淫するネット世論のインテリ版みたいなところがないではない。

そもそも、オウムや連合赤軍でさえ、いや、学校の先生でさえ自分たちがナチスに似ているくらいは自覚しているものである。そして、その自覚が、批判的対象への模倣を早める。

そういえば、天皇を崇拝する人の中には、かならずその側近などを逆臣扱いにしているひとがいるけれども、天皇は我々の象徴なんだから、あまり我々を含んだ逆臣たちを次々に認定して行くと、象徴まで逆臣化してしまうのではなかろうか。これは冗談ではなく、象徴というのは「模倣」の一種なのである。天皇に自分たちの似姿を観るのは当然だ。天皇が庶民をある程度模倣しているからである。

躁鬱の原因として、親子関係の亀裂の影響が云々されることがある。我々の行動や性格?は両親譲りでもあることがおおいけれども、――近代文学によくみられるような「養子に出された人間」の激情的な側面の影響は、三代ぐらいは平気で続く可能性があると思われる。戦争や治安維持法のトラウマなんかも、孫の代まで続く。それは、リフトンの言うような「文化」の集合性と持続性と問題もあるかも知れないが、もっとひとりの人間と人間の関係性に於いて模倣される気がする。むろん、本人たちが、親と子の関係でものを考えすぎるからであるが、そんなことを強いる悲劇的状況が近代には実に多かったのである。

文学や国語の教員は、この文章を直して下さいと頼まれることもあるが、本気で直せば、内容も修正されるので、いやがられることがある。文章が悪いときは内容が悪いときにきまっている。こういうことが「文化」や「思い」のレベルで考えている人間には通じない。なお、だからこそ、どっちでもよい場合は言い方は自由であることも多いことも分かるわけである。しかしそれがかなり思っているよりもかなりすくないと言うだけだ。言葉が違えば言っていることが違うというのが原則だ。で、その違いに対しての判断を少しでもまちがうと、いろんな物がドミノ倒しのように二分法に組織し直されてしまうのである。

文士の悲惨

2025-05-03 23:39:09 | 文学


もっとも水蔭のごときは、他に相当の原稿料をかせぎながら酒色に濫費し、たえず窮迫していたらしいが、新聞社勤めもできなかった他の作家の生活は、悲惨をきわめていた。当時文壇ゴシップの大半はかれらの貧乏物語なのである。たとえば小栗風葉はゆかたを一枚しかもっておらず、それが乾かなかったので外出できなかったという話がある。しかし風葉の生活は放縦をきわめ、自業自得の嫌いがないでもない。 また、広津柳浪は金がなくてお菜がかえず、金魚をすくってきて子どもたちに金魚のフライをたべさせたが、これなども若干の ユーモアで救われている。しかし何とも陰惨なのも数多く、たとえば有名なのでは、石川啄木は貧乏ゆえに肺病の手当てができず、家内中、感染したというのなどは、一文士の待遇の問題をこえたことであろう。

――多田道太郎「芸術家の待遇の歴史」(『複製芸術論』)


きのうテレビで「おっ、ジブリに影響を受けたシュールなアニメやってる」と思ったら「君たちはどう生きるか」だったわけだが(――映画館でこの映画を観ていたが細部を忘れてたのだ)、この映画は案外、宮崎監督が作っているとはいっても「おっ、ジブリに影響を受けたシュールなアニメ」みたいに創られたのではなかろうか。いままでのジブリとは違った動きのところもあるし、宮崎監督の自己模倣みたいな、そして模倣になりきっていないところもあるからである。のみならず、本質的に私アニメなので、自己を模倣しながら自己から空想的に遠ざかる側面が顕著なのだ。そして、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」の昭和12年的状況からの逃避的想像という面でも理解することも出来るわけであるわけであるから、そのシュールさの本質は、二重の逃避としての空想というべきかもしれない。宮崎アニメというのはそもそもそういう面を抱えていたわけだが、その空想を子供のためというロマンという理由で支えなくてもよいと思いはじめた宮崎監督が、自分の逃避とのみ向き合っている感がつよい。こういう内省は「内部世界」というシュールさを帯びる。

宮崎監督は、戦時下で育ちながら、父親が兵器をつくっていたためかよい暮らしを経験していたらしい。これにくらべると、上の文士たちは悲惨である。おそらく、貧乏というのは、逃避が許されない。金を持つようになっても貧乏であることは続くのである。

アイディアルに生きる文士を多田は肯定している。しかし留保条件として、一応飯を食えること、その目処のあることが重要とのべ、「そのためには、文名高しといえど、女房を働かす、その他の工夫が必要である」と述べている。わたくしなぞ、文名低し、女房を働かし、自分も働いている。さいしょのところが少し違うが、私の本質が貧乏文士である所以である。

しかし、文士がかように貧乏であるのは、原稿料が安い、酒と女に使いすぎという理由以外にも原因がある。本読みだから働く暇がないのだ。いま本読みの利点として考えられていることも、よく考えてみると、貧乏の原因になりかねないことばかりである。例えば、まだ読んでねえ重要作があるというだけで死ぬわけにはいかない、と思う本読みの思想は一見かっこよくみえるがそうではない。人間記憶力はだいたいたいしたことないから一度読んでも忘れる。で、読み直すしかなくなる。ドストエフスキーなんか作品の区別がよく分からなくなるので、いずれ全部読みなおさないと逝けなくなってしまうのである。本読みがだいたい読まない人を蔑視しているようにみえるのは、自分が頭がいいとか思っているというより、「源氏物語読まないとか生きてて恥ずかしくないの?」とか「空海ぐらい読んどけよ情弱が」とか「ドスエフスキー読んでないとかほんとに人間なのか」とかいう声が本棚から聞こえるからにすぎない。むかし田島正樹先生が、ブログで、ドストエフスキー読んでないひとは人間ではなく猿並、とほんとに書いていた。わたくしはこの意見には反対だ。猿並ではなく小学生の頃の私並みというべし。

そして、本読みのあれなのは、ドストエフスキーがスキとかいっているだけでなく、コンビニで売っている雑誌なども本だからという理由で収集し始めかねないというあれである。周囲の人間はたまったものじゃないと思う。

空想的な「見える」もの

2025-05-02 23:47:21 | 思想


 この批評的空想的社會主義および共産主義は、歴史的發展と逆行する意義を有してゐる。階級鬪爭が發達し成形するに從つて、階級鬪爭に對するこの空想的な超越と、この空想的な攻撃とは、一切の實際的價値、一切の學理的妥當を失ふ。そこでこの學派の創設者らは、多くの點において革命的であつたけれども、その門弟らはみな反動的分派をつくつてゐる。彼らはプロレタリヤの歴史的發展に反對して、その師の舊説を固守してゐる。從つて彼らはひつきやう、階級鬪爭を鈍らし、階級對立を調停しようとする。彼らは今でもやはり、自分らの社會的ユートピアの試驗的實現を夢み、個々のファランステール(1)を起すこと、『内國植民地(2)』を設けること、『小イカリヤ村(3)』をつくること、などいふ、新エルサレムの小型發行を試み、そしてそれらの空中樓閣を築くためには、ブルジョアジーの慈善心と財嚢とに哀訴せざるを得ない。かくて彼らは次第々々に、上記の反動的、もしくは保守的社會主義の範疇に陷り、ただそれと異なるところは、やや組織的の學理を衒ふことと、その社會科學の奇蹟的效果に對する熱狂的迷信をもつこととである。

――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


共産党宣言の「空想的」なものへの批判は、いまだって有効である。例えば、弱者を救えという「思い」が「法律」となったからいろんなことが解決するみたいなものが「空想」なのである。例えば、もはや週刊と言うより最悪な意味で「文化」といってもいいが、――「面談文化」というのが、学校だけでなく官庁や企業やらに広まっているけれども、多くの狡賢い連中に利用されている。やつらに最適化するのが目的ではなかったはずではないか。例えば、育休で資格の勉強したいですとか言ってくる人間は、授業を休んで就活とか言うてる大学生とかわらない。仕事でしんどそうなものからにげまわる人間がプライベートで協働で子育てとかするはずがないと断言できる、というのが残酷なコモンセンスであって、こういう自明の理を相対的にスルーしている――すなわち、強者のずるを見逃しているのに、管理者たちが、本当に弱者の味方になるはずがない。我々がもともと弱者集団であったために根本的に狡賢い国民に生成しているのは、ちょっと我々を内省してみれば自明の理だ。我々がそういう事態を忘れたふりをしているのは、「空想」のせいではなく、それが「見える」ものではないからではなかろうか。

ときどき、官庁が弱者に杓子定規の冷たい対応したユルセヌみたいな言説がある。たしかにひどい事象もあるようだが、公務員というのは日々どうみてもおかしいクレームを雨あられのように受けているわけで、クレーム対応として市民を怒鳴りつけてしまったとか無視してしまったとかにならないように最適解を見出そうとすると、――そういう冷たいかんじになりがちだというのは、人間の現象としては自明の理の如く理解できるではないか。大学事務も、自分で考えろみたいなレベルの質問を受けつづけてがんばって堪えている。――こういう事象は、公僕とか事務とかいった観念が見えているものさえ見えなくさせる例である。

そのずるい国民は憲法も利用する。みずからの平和=幸福をもたらしたのがいまの憲法である一面があるのは明らかなのであろうが、だからといって、もっと幸福になりたい気持ちを憲法にぶつけてもらってもこまる。いや、ほんとは、そういう高級な問題でもないかもしれない。憲法は不断にチェックされ続けるべきだとは思うが、あの文体を變だとかいう人の中には、単に文章を読み取れない人が大量に混じっているとしか思えない。西田幾多郎の文体を普通だと思えとか贅沢なことはいわんから、文章には色々なものがありそれなりの読み方があることを理解する人間だけが、わかりやすい文章かどうかを評価する資格があるのである。

小林秀雄が近代化の病がなんちゃらと腐した西田幾多郎の文章に慣れてくる(――ほんとうに慣れたかどうかはわからんが)と、近代エリートじみた田邊元の文章はほんとに読みにくい。そういえば、昔塾講師で一緒に働いていた院生が、一番読みやすいのは大澤真幸、順に追えば読めるから、と言っていたが、――もちろん順には読むんのだが、わたしはあまりそういう読み方に快を覚えないというか、――分かった気がしない。小説や詩は順に読んでも直ちに分からないことが多いので、かかる読み方に慣れたからかもしれない。ある種の視覚的なセンスが混じった読み方を私はしている気がする。そういえば、現代の「見える化」とか言っているひとが大概は阿呆だとしても、何か「見える」というかたちの認識をやたら求めることの意味は考えとかにゃならない。ゼミ生と野間宏を読んでいてそう思った。野間の小説に顕れるいろんな事象の「見える化」と、戦争のトラウマは明らかに関係があるからだ。田邊の「種の論理と世界図式」は、論理とは解釈じゃないんだ推論だぜみたいなところから始まるけど、これ國語教育でも結構重要なポイントである。解釈はどうしても「思いの見える化」つまり「空想」みたいな領域と接している。

そういえば、ゼミ生に「いまの若人は、いまどきのロボットアニメのサーカスみたいな戦闘シーンをほんとに目で追えてるのか」ときいたら、追えていると思うといっていた。すごいぞ若者の視覚。。

面前の狂い

2025-05-01 23:25:57 | 思想


何故、人間は笑うのかという問題、これは、なかなかむつかしい問題であります。古来たくさんの哲学者がいろいろな分析や解説を試みていますけれども、どうもあまりはつきりしません。その中でさすがにフランス近代の大哲学者ベルグソンがなかなか面白い説明をしています。これからの私の話もその説をところどころ借りようと思います。ベルグソンはその笑いの研究で、まずこう前置きをしております。「そもそも笑いの正体というものは理窟では容易に掴まえることができない。掴まえたと思うとぬらりくらりと逃げてしまう。実に始末に負えぬ代物だ。」と言つております。ベルグソンにさえそういう悲鳴をあげさせるのですから、私などの手には到底負えないにきまつております。が併し、それだけに相手にすればするほど、面白いわけであります。
 まず、私は、私流に笑いの種類について、ここでどう区別しているかを吟味して見ましよう。分類の基準は雑然としておりますが、思いつくままに挙げて見ます。「微笑」即ち「微笑み」、「苦笑」「苦笑い」、「薄笑い」「冷笑」「憫笑」というのがあります。それから「嘲笑い」「嘲笑」、「大笑い」「哄笑」「爆笑」などという新語もあります。「微苦笑」という造語も言えば一般に通用すると思います。「馬鹿笑い」「含み笑い」「しのび笑い」「追従笑い」などがあります。
 笑い声にもいろいろあります。「はつはつは」「えつへつへ」「うつふつふ」。又、「からから」「げらげら」「きやツきやツ」など、これはいずれも、「擬音」であります。ざつと、こんなところかと思います。


――岸田国士「笑について」


コロナ以前からすでにマスクだいすきだった日本人であるが、――戦後のカルチャーをみてみるに、マスクをした以上、やることは正義でなければ不正義と決まっているのである。むかし「微苦笑芸術」というのがあって、笑うでもなく能面でもない不気味な地帯を主張した文士たちは、正義でも不思議でもない地帯にいなおろうとしていたに違いない。

この傾向はいまでもかわらない。最近は悩んだすえに断固決然、みたいなアニメばっかりつくられているが、わたくしの生まれた頃は逆に、常に断固決然的馬鹿だったから体も心も壊れまして候、みたいなアニメばかりつくられていた。果たしてどちらがどのように有害なのかしらないが、結果どことなく主人公たちが微苦笑に近づいているきがする。

我々は、自分や他人の顔に心理的に接近しすぎているのではないのか。だから、はじめは赤ちゃんのように泣き叫んだりするが、次第に下品にないたり笑ったり怒ったりするのを恥じるのだ。行動のためにはそんなプロセスを一切省く必要がある。あんなクズには負けるわけにはイカンという環境はだいじだ。勝つチャンスがあるからだ、それでよいのである。

教育というのは、社会以上に、それを体験した我々が若かったために、その姿が面前に迫って――教師の姿で――あるときは恐ろしい姿で、あるときは児戯に見えているものだと思う。面前にいた教師は、教育の一部であっても一人の人間に過ぎない。それをエビデンスにして何か別の**とか××に結びつけて価値づける。舞姫だけで近代文学全部を語るようなものだ。おおくの教育論がルサンチマンしか感じないのはそのためだし、端的に内省が足りない。社会でもほんとはおなじで、面前にひどいものが出現するようになると、全体が悪く見えるし、何か原因を勝手に探される。一人一人がきちんとしなきゃというのは、総和がひどくなるからではないのだ、総和や全体が見えないからなのである。

そういえば、そういった遠近法の狂いは、階級意識の狂いと同じようなもので、ほんとうは同じものかも知れない。例えば、――土地や家を持っているがたくさん税金を持ってかれる経験をしているひとは多く、金持ちもそうだ。結果的に痛くもかゆくもないわけでも、額面だけ見ると結構持ってかれたなと思う場合は、搾取されたとおもうわけである。

革命をマンガで、社会を文学で

2025-04-30 23:41:30 | 文学


すべて此の世で眞に偉大なるものは、提携によつて獲得されたものではなく、常にたゞ一人の勝者が爲し遂げたものなのだ。提携はその遣り方が遣り方だから、始めから将来の分立、またはそれ以上に、到達したものをやがては喪失する萌芽を含んである。偉大な、本當に全世界を驚倒させるやうな精神的革命といふものは、そもそも單一、一體の組織の巨大なる闘争があつてのみ考へ得ることであるし、且つそれに依つてのみ實現化され得るのであつて、決して提携に依る企てとしてではない。

――「吾が闘争」(下巻、第八章)


そりゃその偉大な勝者がマジンガーZで、暗黒代将軍を倒したとか、あるいは、鄰の家のあんちゃんが隣の村の悪いあんちゃんを一瞬で殴り倒したとかだったら、むしろ称賛される勝者なのであろうが、ことはドイツ全体という大きさであった。しかしヒトラーはむしろその大きさが、一人の観念と化した勇者によって出現すると考えたし、そこは非常にいいとこついていた。良心的だが野心的な民主主義者や共産主義者たちが恥ずかしくて言えないポイントである。むかしの左翼運動からあったジレンマ、実践的にみえるやつほど観念的であるという自明の理を、なにゆえ現代の良心的な運動族が無視してるのかというと、そういうことなのである。教育界でも、実践的理論とか言うてるうちに、何もしない人々が増えているが、実践的であることは観念的であり、理論は観念的であるから、当然である。大事なのは、ただの理論、あるいはただの個人であり、それゆえ実行されやすいに過ぎない。

そういえば、昨日は昔の天皇誕生日だったが、昭和天皇はわしとおなじく蕎麦好きだったらしい。うどん好きは朝敵である。――こんなぐあいで、友敵理論だってそんな単純なところがあるにちがいない。

われわれの目指すところは、上のような悲惨しかもたらさない元気いっぱいの革命運動ではなく、社会である。どういうものかというと、香川県で蕎麦派が多いからといって、うどん好きを殲滅するのがヒトラーのやり方であるのにたいし、社会は、香川県に木曽駒ヶ岳と御嶽山を移植して、うどんと人口の半分を移動させる――そういう提携的な夢を多くのひとに見させるがごとき難問なのである。あるいは、ヒトラーを穏やかな小学校の先生にする、とか、植民地主義主義者カミュを、当時からポストコロニアリズムに転向させるような難問である。――言うまでもなく、こういう構想は特殊な文学的なものである。革命は漫画で、社会の構想は文学である。

Mein Kampf

2025-04-29 23:28:10 | 思想


 本書は全譯と銘うち、また事實上全部を譯了したのであるが、原書二五八頁より二六一頁までと、三〇三頁より三〇五頁に亙る箇所は、國情の相違から私自身としても到底紹介し得ないものであり、かつ本邦とは全然無關係、また参考にもなり得ないものであるので削除した。
 第二に原著三一七頁より三二八頁までに至る箇所の一部は、大東亜戦下にあってある敵性國家がヒトラーの真意を曲解し逆用して、日獨離間策の宣傳文書として公布したところを含んでゐる。敵の逆宣伝に用ひたところを此処に出して敵性國家をしてまたまた利用せしめることは、私としてやはり出来なかった。同所はヒトラーが獨逸國民を奮起さす目的で、いは「テクニク」として書いた論旨であるが、如上の理由から――また前後の關係上少しく大きく――削除した。
 此の點讀者の御を乞ふ次第である。
 本書が「吾が闘争」の註釈書であり、研究書であるならば、或ひは充分意をして説明し、誤解を避けつゞ註釈も出来るのであるが、単なる譯書としての性質に鑑み、また研究書は他にも存在する點を考慮して、譯書としての譯出は差控へた次第である。


――眞鍋良一「訳者序」


眞鍋氏は、戦後、眞鍋のドイツ語、みたいなかんじで活躍した人であった。戦前の履歴もすごく、大学のドイツ語教師、ドイツ大使館書記官や上海総領事館情報部附などをやったり、ハウプトマンやトーマス・マンと交友があったり、ヒトラーユーゲントの通訳などをしている。で、ついに「吾が闘争」の全訳である。戦後の真鍋氏の回想を読むと、――当時、アーリア人の優位性を説いた部分が、大和民族のあれとあれするからと一部の軍人がかちんときて、これでは発禁処分の恐れありということで、その箇所だけ削ったらしい。いつも我々の同盟国というのは我々を馬鹿にしているから、内部のマルクス主義者と同盟国のファシストの両方を禁じるという忙しさが当時の御役人に必要であった。そして、我が国では、禁止される側も、上のように、原著の頁まで示してそのことはちゃんと仄めかすことぐらいは許されている。わたくしがファシスト国家の管理部門を担当したならば、このような不穏分子を決して許さぬ。

「吾が闘争」を読むと、主体は空虚であり、私なんかないから、とかいうて、――深く人間を考察している心優しい人たちの盲点が突かれているとわかる。つまり、ヒトラーの主体は空虚ではなく、「おれは腕白小僧だった」、「父親は働いて死んで先祖の元へ帰っていった」、このぐらいで人間は元気になれるということを示しているのみならず、「卑怯な平和」より「闘え」ばいいじゃないか、というある種の生活倫理としては正しいことも言っている。我々は確かに、争うことでしか成長せず、その後も争うレベルに堕落することをやめない。平和な修正主義はだいたい後半の過程を無視して、その過程そのものとなる。安吾の堕落は、堕落と争いの関係についてやや不明瞭だと思うが、それは反ヒトラー的であるという意味で意図的だと思う。同質的集団は堕落するのが必然なので、われわれは異物をつくりだす。ヒトラーは、異物をユダヤ人に押しつけ、安吾は自分(あるいは個人)を異物にしているだけなのだ。

そもそも我々は外国語を異物とみなしながら発展してきた忸怩たる歴史をもっているからなのか、最近は、異物を異物とせずしらないうちに自分が異物であるかのようなふりをするという、平安朝の漢文で日記をつける役人みたいな作法を、庶民がやるようになっている。コスパとかちゃんと日本語に訳すべきなのだ。わたくしなら、「狡(コス)いパッとせん人々のやり方」とでも訳す。コスパ野郎のイメージといえば、神社で降ってくる餅に群がるあの方々である。イメージは本質を描き出すためにこそ大事にすべきである。かつて爆笑問題が暴走族を「おならぷうぷう族」と訳したように。飜訳というのは、こういう本質へのプロセスである。

そういえば、マルクス主義なんかは仏教に飜訳されようともされた独逸観念論よりも異物だったのか、上のプロセスに長い時間を要した。その意味でキリスト教並みではあった。その過程で、堪えられず、出現したのは、転向文学の人たちと、――少し若い連中では日本浪曼派がそうであった。はじめから非転向でいられるところでやるというのもコスパ野郎の特徴であって、最後の人たちは饒舌でわかりにくいから一見そうは見えないが、それなのである。だから、彼らの活動の本番は戦後であって、かれらが回避した異物への抵抗は戦争が終わって、はじまった。転向以前に転向したからといっていつまでも安定した地点にはいられない。きのう授業で日本浪曼派について語ってたら改めて気付いたんだが、彼らが古典文学を重視した文学史的思考をするのはある意味当然で、そもそもが文学史的に悩まないですむポジションのつもりだったからである。むろん、彼らが自身を保守本流だとはおもってはいない。むしろ、疎外された系譜に位置づけた。