私は、キリスト教徒では無い。即ち、クリスチャンでは、無い。
しかし、聖書のはじめに、
「はじめに、言葉ありき」
というのがあることは知っている。そして、この「はじめに、言葉ありき」という事の意味がまた、釈尊が説かれた「一切」という教えの中で、言葉だけが「一切」を持たないという事から、この二つの宗教の根底に流れる思想に相関性を思う。
私たちが何気なく使っている「言葉」とは、釈尊の説明を借りれば、相対性を持たないものである。相対性を持たないということは、「無二」ということになる。
一般的に言えば、言葉には、言葉としてのものだけではなくて、その裏付けがなければならない。「言う」だけで、「中身」が無いならば、それは言葉としての意味を持たなくなる。格言で言う「有言実行」を伴ったものでなければならなくなり、言葉に心を込めたものでなければならない。
こういう「言葉に心をこめた」ものとしてのものが、私たちが持たなければならない「心」というもの、あるいは「精神」なのである。
そしてこの「心、精神」である「言葉」は、「思い、想い」を持つ。
だから聖書にも、また釈尊の教えにも、「言葉」というものの「重さ」と「確かさ」というものについて述べている。
情報化過剰状態の現在、こうした「言葉」というものが多く用いられながら、しかし「言葉」のみが独り歩きしている。中身が伴わないし、いや伴わないばかりでなく、「偽装、捏造」されたり、ひどいものには「攻撃的になる。
「批評、批判」はまだ良いとしても、「中傷、誹謗、いじめ」から「報復、復讐、制裁」手段に用いられる。
かと思うと、「笑い」を誘うものにもなるかと思うと、「茶々を入れる、卑猥、下劣」ときて、言葉というものにも、使い方の限定をわきまえなければならなくなる。野放図な使い方をすると、世間が混乱する。
いわば「自由の制限」が、必要である。
「自由」は、憲法で保障されている、個人の基本的人権である。それは、「心」の思考観の自由とも言える。
この「心」の思考観に自由はあるけれども、好き勝手、身勝手に自由に振舞うと、今も言ったように「言葉」がある程度制限され無ければ、私たちの「心も精神」も正常に機能しない。
私たちの「心」とも言うべき「言葉」を「制限」、いや、そういうよりも「整える」ということが必要になる。
この「心、言葉を整える」という行為が、「信仰」であり、宗教」である。
即ち「本質的自由」は、この「心と言葉を整え」たことによって、「真の自由」が得られる。
「本質的自由」を得られれば、「羨ましい、情けない、惨め」などと、思うことも無い。一時は「悲しい、苦しい、辛い」思いをしても、それは「本質的自由」のためになる。もとより「報復、復讐、制裁」などする気もなく、「誹謗、中傷、維持・」をする気も、そうした事に気をもむ事もない「自由さ」がある。
そもそもが、「言葉」を整えるかどうか、にある。
そしてそこに人間としての、また生命あるものとしての、「価値」がある。
しかし、聖書のはじめに、
「はじめに、言葉ありき」
というのがあることは知っている。そして、この「はじめに、言葉ありき」という事の意味がまた、釈尊が説かれた「一切」という教えの中で、言葉だけが「一切」を持たないという事から、この二つの宗教の根底に流れる思想に相関性を思う。
私たちが何気なく使っている「言葉」とは、釈尊の説明を借りれば、相対性を持たないものである。相対性を持たないということは、「無二」ということになる。
一般的に言えば、言葉には、言葉としてのものだけではなくて、その裏付けがなければならない。「言う」だけで、「中身」が無いならば、それは言葉としての意味を持たなくなる。格言で言う「有言実行」を伴ったものでなければならなくなり、言葉に心を込めたものでなければならない。
こういう「言葉に心をこめた」ものとしてのものが、私たちが持たなければならない「心」というもの、あるいは「精神」なのである。
そしてこの「心、精神」である「言葉」は、「思い、想い」を持つ。
だから聖書にも、また釈尊の教えにも、「言葉」というものの「重さ」と「確かさ」というものについて述べている。
情報化過剰状態の現在、こうした「言葉」というものが多く用いられながら、しかし「言葉」のみが独り歩きしている。中身が伴わないし、いや伴わないばかりでなく、「偽装、捏造」されたり、ひどいものには「攻撃的になる。
「批評、批判」はまだ良いとしても、「中傷、誹謗、いじめ」から「報復、復讐、制裁」手段に用いられる。
かと思うと、「笑い」を誘うものにもなるかと思うと、「茶々を入れる、卑猥、下劣」ときて、言葉というものにも、使い方の限定をわきまえなければならなくなる。野放図な使い方をすると、世間が混乱する。
いわば「自由の制限」が、必要である。
「自由」は、憲法で保障されている、個人の基本的人権である。それは、「心」の思考観の自由とも言える。
この「心」の思考観に自由はあるけれども、好き勝手、身勝手に自由に振舞うと、今も言ったように「言葉」がある程度制限され無ければ、私たちの「心も精神」も正常に機能しない。
私たちの「心」とも言うべき「言葉」を「制限」、いや、そういうよりも「整える」ということが必要になる。
この「心、言葉を整える」という行為が、「信仰」であり、宗教」である。
即ち「本質的自由」は、この「心と言葉を整え」たことによって、「真の自由」が得られる。
「本質的自由」を得られれば、「羨ましい、情けない、惨め」などと、思うことも無い。一時は「悲しい、苦しい、辛い」思いをしても、それは「本質的自由」のためになる。もとより「報復、復讐、制裁」などする気もなく、「誹謗、中傷、維持・」をする気も、そうした事に気をもむ事もない「自由さ」がある。
そもそもが、「言葉」を整えるかどうか、にある。
そしてそこに人間としての、また生命あるものとしての、「価値」がある。