「これなぁに?、あれなぁに?」
「これはどうしてなの?、あれはどうしてなの?」
とーーーーー。
こうした幼子達の素朴な問いに、そこに知恵の芽生えの生成の過程を感じさせられる。知識欲に満ちた、すばらしさを持っているともいえる。
しかし知識欲には、限界を持たない。貪欲で強欲さを持っていて、限りがない。
今日豊かさを求めて際限がないし、殺傷力の向上を目指して兵器開発にしのぎを削りあい、医科学では人工知能開発や人工細胞ばかりか、人工生命の誕生まで目指している。
こういううことを見てみると、知識を持とうとすること、教養を養おうということがどういうことなのかを、一度考えてみないではいられない。
元々「知る」ということは、「生きる」ということの知識であるはずのものであったはずである。それは言い換えると、私達生命あるものに具わっていた意識されていなかったものが、それが「そういうことだったのか」としることが、知識なのだということになる。されは丁度、病気の自然治癒力を知るようなものが、知識といえるだろう。
しかし私達人間の知識や教養吸収意識は、本来の知識や教養吸収意識を逸脱している。欲望を満たすだけの、知識や教養でしかなくなっている。
せっかく主権住民のための民主主義も、その理念の自由と平等は、欲望を満たすたるの貪欲さと強欲さを露にするものとなっている。
収まる範囲の、知識と教養であるべき必要がある。