青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

生存権 (上)

2009年05月30日 | 人生設計
「清き一票」の中でちょっと述べたが、一般的なこととして私たちは、「生存権」を権利として持っているという慣行になり、それを行使しようとしている。しかしよく考えればわかると思うが、私たちの「生存」は、自分で自分の生存を決められるものではない。
「自分で自分の生存を決められない」以上、私たちが「生存権」を主張するということは、意味を持たない。矛盾している。
意味を持たず、矛盾しているところから、私たちの「迷い」があり「混乱」がある。

私たちの「生」の始まり、すなわち誕生に際しても、自分の選んだものでも、自分が望んだものでもない。これはまた、両親が望んだものではあっても、両親が望むがままに誕生し得ない場合があり、こうなると私たちの「生」という誕生は、自然の手に、言うならば「神」の手にゆだねられていることになる。

これはまた、どんなに長生きしたい、「無量長寿」を願っても、それもまた自分で自分を思い通りに出来えはし得ない。
「生」があったなら、必ず向かい合わなければならない「死」がある。この「死」というものの存在を見つめた上での「生」なれば、どうして「生存権」を権利として振り回されるだろう。

だが悲しくも情けないことに、私たち人間は、「生」が無数の「生」となるものの中から選ばれたものであり、そしてその「生」は、いつかは終わりを迎える「死」を待たなければならない間の「生」であるという認識を持たない。
持たないどころか、ただこの「生」が持続されるものとしか思っていない。
そうした「生の持続感」から、「生存権」を持つ。それが私たちが言う「生存権」という、権利である。

今も言ったように、「生」には持続が無い。必ず終結を迎える。
終結を迎える「生」ならば、「生存」というものは、一時的なものである。この一時的なものの中で、私たちが生きていくのが「人生」である。

こうしてみると、私たちが持たなければならない「生存権」とは、この一時的な中のもの、それも「ただ今のこの一瞬」を、「どのように生きるか」が「生存権」になる。
この「どのように生きるか」ということも、ただ「生きる」とか、「気ままに生きる」ということではなしに、「人間らしく生きる」ということにこそ、人間らしい「生存権」を持ったものになる。
「人間らしく生きる」ということの「生存権」ということは、別の言い方をするならば、自分を「人間らしく生きる」という方向に引っ張っていくということが、真摯な「生存権」である。

こうした、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」を教えるものを、「宗教、信仰」という。


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警告

2009年05月30日 | 短歌に政治や社会
草なぎさんテレビ復帰 「ひと月も休んでしまいました」(朝日新聞) - goo ニュース

酔態をさらしてしまったことを、もう忘れてしまったような気分らしいが、もしあの時の「真夜中に素っ裸になって騒いでいた」のを撮ったものがいて、それをネットで公開するようなものがいるかもしれない。
そういうようなことが起きても、自分は「公衆わいせつ罪」で「起訴猶予」になっているから、こういう「起訴猶予」になった画像を公開されても、それは罪には当たらないだろう。

またこのような画像をネタに、「脅迫」してこないとも限らない。

芸能復帰できるといい気になっているようだが、こんなことが起こりうる危険性があるので「警告」しておく。
何せ、逮捕して家宅捜査したことで、「警察署の爆破予告」などするような輩がいるし、推理小説上ではこういうことが発生するのが決まりとなっているから・・・・。

謹慎していたほうが、ためになる。
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