青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

身勝手

2009年06月28日 | 人生設計

私が住んでいる県の県議会では、次のような二つの議案が上程されている。

副知事を二人体制にするために、総務省の官僚を起用する方針を固めた。

県立恐竜博物館に、二億七千八百万円する骨格標本を購入する交渉をしている。

今日「行財政改革、公務員改革」に取り組まなければならないのに、「天下り的人事案、無駄遣い的支出」をするようなことをしている。
今日は「人員削減や財政削減」で、一般家庭でさえも生活が苦しいというのに、票を得て当選したからといって、「民意の総意」を得たように「身勝手」に振舞われても困る。

これは「国政」も、おんなじ・・・・・

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犬の子、猫の子

2009年06月28日 | 政治
臓器移植法2案、参院戸惑う 解散前にちらつく廃案(朝日新聞) - goo ニュース

人間の臓器も、結局のところ、「犬の子や猫の子」をやり取りするような具合になろうと、させたいらしい。
そして「金銭」のやり取りにも、使おうとする。

すると「人身売買」と、同じになってしまう。

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短歌 二十、

2009年06月25日 | 短歌

  ★       望むとも ままにはならぬ 人の世は
    原罪分かち 背負い合うゆえ    2009/6/5

       手指軽く 湯あがり後の ハンドマッサージ
    昼飯つつく 外は梅雨めき      2009/6/10

       梅雨まだき うっとおし中 ティルーム
    アイスコーヒー飲み カラオケ聞いて 2009/6/10

       今日もまた 好(このみ)ばかりの バイキング
    食べられるなら もっと食べたい
一通り戴くとお腹いっぱいになり、もっと食べたいと思っても、食べられないのですね。        2009/6/19

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裁かれる自己

2009年06月24日 | 人生設計
我々は、「人を批判、批評」したりするのを好む。
「得意」とする、ところでもある。
そして相手の「欠点、短所」などを、あげつらう。
それは、相手や人を「裁く」のと、同じである。

しかし我々は、そうして「相手や人を裁く」様な行いをしているけれども、その実は「自分自身を裁く」という行いをしていることに気が付かない。
それは、今の一つの行いが、その「裁き」を受けることになる。
いかなる行いであっても、その行いは、「裁き」の対象になっている。
けれども、我々は眼を外に向けていて、自らに向けていないから、「自らが裁かれている」とは感じない。

それが人から「批評、批判」にあったりして、「裁かれる」ことになっている。
しかしそれでも「裁かれている」という、気がしていない。反省する、気がない。なかなか、改める気になれない。

それは前にも述べたように、「後始末、整理整頓」がちゃんとできないことにある。
「裁かれるのは自己」という前提に立ち、「行いの後始末と整理整頓」をちゃんとして、その上での「批評、批判」なら、お互いが納得するだろう。

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リサイクル

2009年06月23日 | 社会
セブンイレブンに排除命令 公取委、値引き制限「不当」(朝日新聞) - goo ニュース

「リサイクル」ということは、「再利用」ということだ。
使いに使い切って不要になったものを、「再利用いる」ということが、本来の意味だろう。

しかし今日で言う「リサイクル」は、単なる「廃棄物」を「再利用」すると言うことを、「リサイクル」といっている。
そのために、新製品が出て、売れ残ってしまったものや、作りすぎて消費期限がきて破棄しなければならなくなったもの、あるいは食べ残し多ものなどを「再利用」するという具合になる。

それならば作り過ぎないようにすればいいのだが、そうすると「景気拡大、経済成長」が止まってしまうといって、政府があわてる。
また消費者も、売り切れたなら他のものであつらえればいいのだが、そうするのは「沽券に関わる」らしいところがある、とくる。

尤も「臓器移植」してまでも、「リサイクル」とは、ちょっとそこまではやりすぎる。

だから、こういう悶着が起こる。
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国民の政治参加

2009年06月23日 | 人生設計
今日の「国民の政治参加」は、たった一つしかないようだ。
即ち「投票」による、意想表示しかない。そして「政治参加」となると、間接参加になっている。
「投票」によって選ばれて議員や首長によって、事が決められていて、その時には国民の意想を離れている場合が多い。多数を占める政党の流れに、流されてしまっている。
民意は、二歩か三歩先のところまで、なかなか届かないようになっている。
ただ「世論調査」があるが、これはあくまでも「調査」で、意想参加までは、やはり及ばない。首相なんかには、解散権や任命権が持たされているという具合で、「国民の政治参加」は間接も、更に間接的になっている。

ここでちょっと、この「国民の政治参加」について提言したい。
これまでも「住民基本台帳カード 」というのがある。これに「健康保険、年金記録」といったカードが付けられるようにするとかいう話しがある。
私はこうしたカードに、「政策意想表示投票」機能を付けるとよいと思う。

このカードがあれば、何も議員などは必要なく、国民の誰もが政策賛否に参加できる。それは銀行やコンビニ、病院のなどのATMでも、投票ができるといい。
政策課題も、「一案、二案、三案・・・」としておけば、我々はそのどれかに投票すればよい。

ただしこの投票に際し本人確認のために、「暗証番号」の他に、指紋認識、生年月日」を識別させるべき必要があるし、年齢制限も必要になる。
その他にも、まだ考えておかなければならないことがあるかもしれない。

この「国民政策参加カード」を使用すれば、政党の必要も、議員の必要もなくなり、そのための年に数回しかない「投票」のための選挙費用が必要がなくなる。
だから「政党交付金、議員宿舎、その他議員活動費」など入らない。
それにより「贈収賄」も、なくなるのではないか。

ただ、このカードは、全国民に貸与の形にすべきで、そのための費用が要る。そして本人が亡くなられたときには、返してもらわなければならないこととする。

まだまだ検討の余地があるが、こんなカードがあると、いつでも「政策参加」ができると思う。

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短歌 十九、

2009年06月22日 | 短歌

 ★       つつじ花の 連なり咲いた 通り路
   ディサービスは 風かおる中   
2009/5/6

      
バイキング おいしいけれど 困ります
   年を取ったら おなか小さく 
2009/5/8
おいしい「バイキング献立」だけど。もっと食べようにも、年のせいかお腹が小さくなって食べられなくて口惜しい。ほどほどに頂いて、「ごちそうさま」しましょ。





        のんびりと ディサービスで 湯に入れば
   あれこれ時と場 選ばなくても 
2009/5/18

      
梅雨めいた 空は空でも ディルームは
   リズムは弾む スコップ三味線  
2009/5/29
    ボランティアの方々による「スコップ三味線」コンサート

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短歌 十八、

2009年06月21日 | 短歌

  ★       五月空 兜飾りに こいのぼり 
   夢育ぐくまる ツバメ子鳥も    
2009/4/29

      
浮き雲を 窓辺に望む 緑の日
   ディサービスで 湯浴みするかな  
2009/4/29

      
五月入り 連休だとて 田園は
   田植えいそしむ 人の姿が     
2009/5/1

      
善きことも 悪しきことをも 結ばるる
   常に行う 我がうしろに      
2009/5/4

      
千尋(ちひろ)なる 時につながる 今をおば
   大切にして 無駄にせじまじ    
2009/5/5

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「死」とは

2009年06月19日 | 社会
「脳死を一律死にしないで」=慎重な議論求める-移植法A案反対の遺族ら(時事通信) - goo ニュース

「脳死」や「心臓死」など、肉体の一部が「人の死」とするならば、他の部位の「壊死」なども「人の死」ということになる。

「死」という概念を考えるなら、それに合わせて「生」の概念も、また考えなければならない。
「生」の概念を考えるということは、「肉体の一部の死を人間の死」とするならば、「肉体の一部の生は、人間の生」であると言い得るからである。
臓器移植をしようということは、移植をしようとする者が肉体の一部が「死」しているからであるが「生」を持っている。それを「死」の部分を、「肉体の一部が「生」している者から移植し、非移植者には「生」を否定させて完全なる死を与えようとしている。
これは傲慢である。
「死」を、全体の「死」を持って「人間の死」と捕らえていない。

これはまた「生」を持つ者の、在り方を問うということでもある。
「生」とは、「人らしく生きる」ことであろう。このように「人らしく生きる」ためにであるならば、「肉体の一部に死」があっても、「らしく」生きられる。

だが今は、「欲に生きる」事のために「生」があり、その「欲に生きるため」に「臓器移植」を必要としている。
それで「人らしく生きれる」ものならばいいが・・・・
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私に出会う

2009年06月18日 | 人生設計

「私に出会う」ということは、「私が、私に出会う」ということである。
この事はまた、「自分が、自分に出会う」とていうことでもある。

普通我々は、「この自分」を、「自分」だと思っている。
「この自分を、自分」だと思っているならば、自分で自分をちゃんとさせることができるはずだ。
ところが「自分で、自分」をちゃんとさせることができない。反省させても、守らない。
こうなると、「今いる私とは、別の私」がいることになる。
この別々になっている「私と私」が出合うことを言う。

我々の生きる世界は、「したいのに、してはならない」という世界であり、かつ「したくないのに、しなければならない」世界なのである。
これはちょうど「仕事がしたくないのに、しなければならない」、「楽をしたいのに、仕事をしなければならない」という様な物だ。
こうなるのは「したいのを耐えない、してはならないことを我慢しない、楽することを我慢する、仕事のつらさに耐える」という耐えるということと我慢がないことにある。忍耐心だ。
こうした「したくない、楽をしたい」というような忍耐心が無いでいると、我々の生きる世界が、「したいのに、してはならない」という世界であり、かつ「したくないのに、しなければならない」という世界との間にこじれが起こる。軋轢がおきる。それは、「思い通りにならない」からである。


「思い通りにならない」ことが鬱積して、「うつ病」などになってしまう。
それに対して「忍耐しえた」人は、「してはならないぜずの、すべきことはする」人になっており、今までとは異なった別の自分と出会うことになる。

それが「新たな私との出会い」である。

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