青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

人間と宗教

2018年03月19日 | 宗教観

首相、改ざんへの答弁の影響否定 森友文書、「指示しようがない」

人間と宗教間には、歴然とした違いがある。
明確な異なるものがある。
それ故に人間が宗教心や信仰心を持たないでいると、当然のこととして弐人間社会は悲劇に見舞われていく。

人間というものは、事象や人の言ったことをどう受け止めるかとうと、「都合がいか悪いか」で受け止めている。また「損か得か」で受け止めている。
その結果「都合のいいもの、得するもの」だけを受け止め、「都合が悪いもの、損なもの」には目もくれない。相手が傷つこうがどうなろうがお構いなしに、利己的な身勝手を押し通していく。
これというのも「欲望」を満たしていからである。

一方の宗教心や信仰心においては、事象や相手の言葉を普遍的見地からとらえようとしている。
自分勝手な曲解を離れて、誰にでも受け入れられて理解してもらえるような意味を理解しようとし、また人々の気持ちにも思いをかけようとしている。
こうしたい一方的でない思いというものを抱いていくことが、信仰心や宗教心には大切なことであり、この信仰心と宗教心を持つことによって、社会や世の平安が保たれていく。

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最終回  教育と宗教

2017年09月23日 | 宗教観

「悪の帝国、火で制す」=反米総決起集会開く―北朝鮮

今日は秋分の日。また秋のお彼岸の、中日である。
この日には墓参りや墓参する人が沢山いられる。
だが私は、余りしない。時折家内に誘われていくというように、後ろ向きになっている。
更に家内からは、「少しも仏様に参らない、お仏壇に前らない」という始末になっている。
弁解めいているが、それにはこんな理由がある。

私は亡くなった両親や先祖とは、相対した関係でいたくはない。
相対した関係ではなく、亡くなった両親や先祖を胸の中に置いておいて、その胸の中の両親や先祖と向かい合っていたいと思う。
墓参りしての供養なら、その時だけの供養でしかないだろうが、胸の中でいつも向かい合い、鳴かせまい悲しませまいと自分の行いに気を付けていくならば、一秒一刻が供養になるのではと思う。

仏さまに参らないでいるのは何故かというと、私という人間は常に「目配り気配り」ばかりしているからだ。
何か手伝うことは、手助けするみことは、役に立つことはと気配り目配りばかりしている。そのために、仏さまにお参りするのが疎かになっている。
二つ同時にすればいいのだが、障碍者であるためか、それができない。
人はみんな仕事のことなどで帳付けしながら人と話をして応対しているが、私にはそうした器用なことができないため、一つのことしかできない。

では、仏さまに参ってだけして、後の家族のことも子供のことも何もしないでいいのだろうか。
それとも仏様に参らなくとも、家族や子供の面倒や相手になってやるべきだろうか。

これをもって「教育と宗教」の連載を終わります。

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続2  教育と宗教

2017年09月19日 | 宗教観
  • 再び次のような、コメントを頂きました。

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何の罪も無い人を狙っての爆弾テロ攻撃などに宗教を利用しての
正義面には困ったものです。
神が人を殺すことを許すはずがありません。

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  • これに対しての、返信です。

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この世に現れている全てのものは、相対する二面性をもって存在しています。
正と負、善悪、ブラスとマイナス、雄と雌、表と裏など、相反して存在しています。この存在には力関係があり、片方が強い時、片方は弱くなります。
これは善悪の関係などに出てきます。
このようになるのは「縁」によってなり、言ってみれば「縁」に恵まれていたものが強くなっています。だが弱くなったものは消えては無くならず、底の方に、内面の中底にうずくまっています。
しかしこのことが、信仰という信心によって、力関係が崩されていく時が来ます。それはどれほどの極悪人であっても、自分の意のままにならないことを知らされる時です。自分の力が及ばないことへの恐れに見舞われ、そうなると自分の非力を感じて、ぬかずくより外は無くなります。この時に反省するとか改心するとかすることによって、「縁」の力関係が反転する。内面に閉じ込められていた、もう一人の自分が姿を現すことになります。
しかしこれは、困ったことに人にはできず、押し付けることもできない。自分自身で気が付き、改心していくしかありません。ここに「懺悔」があります

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続  「教育と宗教」

2017年09月18日 | 宗教観

祖機に「教育と宗教」のタイトルで投稿いたしましたが、それに対する次のようなコメントをいただきました。

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 いつも思うのですが、宗教はあなたの言う「愛と慈悲」を謳いながら、実は世界の紛争の大半は宗教が原因というのはどういうことなんでしょう。
他の宗派を認めないという時点で、本当の宗教家なんてこの世界にいないのではないかと思います。

僕は日本の神様が好きです。
大層な出雲の神様じゃなく、例えば田んぼの片隅に祀られている神様、トイレの片隅にいる神様。

畏れと感謝。
それこそが日本の宗教の原点の原点だと思っています。

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このコメントの問いかけに対しての、返信です。

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なぜ人間が殺し合いなどの戦争をしているのかというと、宗教の心を取り違えているからです。
宗教は「愛と慈悲」なのですが、この「愛と慈悲」を離れ離れにしているところから、真の宗教とはなっていません。とりわけ「愛」について言いますと、この「愛」はどんな「愛」にしているかというと、「自愛」にしています。即ち自分が一番「可愛い」ことです。
この一番可愛い自分を満足させようと、それは物を盗ったり人殺しするのも厭いません。いじめや虐待も行います。これらはみんな、自分が可愛いがための行いになっています。
こういうことになるのは、「自愛」と「慈悲」とが結び合っていないことによっておこるといっていいでしょう。

即ち宗教とは「愛」と「慈悲」とをしっかりと結び避けること、そこには受動性と能動性との共同作業によるものと言えます。

しかし教育には、これがあません。

 

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死後とは

2017年08月24日 | 宗教観

住職が「葬儀をやり直せ」と激怒 「直葬」で増える問題とは

「死後」とはどうなるかというと、自然に帰るということである。
また、「宇宙の中に溶け込む」という事でもある。
そこには遺体がどうの、葬式がどうの、墓がどうのというようなことから離れて、大きく広く深い世界に入っていく。

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宗教の原点

2017年08月04日 | 宗教観

世界の宗教指導者、平和を祈る 京都に2千人集う

如何にこうした集いを開こうとも、宗教の原点を共有していかなければ意味がない。
宗教の原点とは、自分自身をよく見詰め、その上でこの自分をより正しく導いていき、人間としてより良き人格を高めていくことにある。
しかしそれで終わりではなく、ともすれば情欲に流されがちな己を保ち続けていくことにある。
そこには人を頼りにせず、釈尊の臨終の言葉にあるように「己をともしびに」して良き人生を送ることにある。

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祈り

2017年08月02日 | 宗教観

「祈り」というと、「拝む、礼拝する、合掌する」らも含まれる。
これらの「祈る」という行為は、願いや望み、あるいは悲しみや苦しみからの救済を願い望んでのことと言えるだろう。
しかしこうした行為の祈りは、邪道と言わなければならない。
何故かというと、祈りなどの相手として「神仏」を対象にして行っているが、それは神仏に対して「自分の望むようにしろ」と圧力を加えるに等しい行為だからだ。
「神仏」よりも高い位置にたって、見下しているといってもいい。
「祈りや拝み、礼拝合掌」とは、そういった態度に立ってすべきものではない。

ではどういう態度にたって、なってすべきかというと、「願いや望みや救済」を願ってするものではないのである。
「祈りや拝み、礼拝合掌」するという行為は、「神仏の思いや気持ちを受け取ります」とするがための行為であらねばならない。
「神仏」の望まないことは、行わない。
常に「神仏」の喜んでいただけるように努める。
それは「目配り、気配り」して、何か手伝い手助けして、役立つことを書かめていってこみそ、「祈りや拝み、礼拝合掌」を行った甲斐が表れよう。

この世は全て「相対する二面性」をもってと成り立っている。
「祈りや拝み、礼拝合掌」にしても、自分と「神仏」の相対があり、その相対に対して一方的になって依存しようとしていくのが我々だ。ただ身勝手になって、願いや望みを叶えてもらいたがっている。
しかしいくら「神仏」が望みを叶えて挙げようとして働きかけようとしても、受け取るべきこちらが、開け取るに相応しさを持っていないがために、尻切れトンボになっている。
叶え上げようとする働きかけの能動性に、しっかりと受け取りましょうとする受動性が備わっていない。
それ故に「祈りや拝み、礼拝合掌」を熱心に行っても、無意味になっている。

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自分の道は自分で開け  ①

2017年04月24日 | 宗教観



「因果関係によって
作り出されたすべての
ものは無常である」
(諸行無常)と
智慧によって見るとき、
人は苦しみを
厭い離れる。
これが、人が清らかに
なるための道である。

原子仏典  ●ダンマパダ  277

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諦めよ

2016年12月23日 | 宗教観

大規模火災、消火続く=県警、消防が実況見分へ―新潟・糸魚川

現今は、何かと自然災害や忌まわしい事件が相次いでいる。
こういう事になってきたのには、人間というものの飽くなき欲望のためである。
どんなに欲が得られても、それで満足しない。更に更にと求めていき、果てることなく続けていかないではいられないという本性を持っている。
それ故に、お釈迦様は亡くなられるのを前にして、言い残されている。

私が亡き後は、正法が1000年続き、その後1000年の像法が続いた後、末法の世になる。

正法とは、お釈迦様の教えを受け継ぎ行法ともに行われているは時代。
像法時代とは、単に言葉のみの教え、教文だけが独り歩きするようになぞらえていられる時代になる。
末法ともなれば、無宗教ぶりを開けだしている。
いわば現代にこうしたことが絶え間なく起こるのは、末法の世になっているからといえる。
そこには、お釈迦様の教えのもとになっている「四苦八苦」という定めを受け入れなくなっていることにある。
この定め、「四苦八苦」という定めは、何人の上にも襲い掛かる。今いかに我が世の春を謳歌している者でも、例外ではない。
遅いかかるこの定めには、どんな手段をもってしても対処できない。
ノーベル賞受賞者たちでさえ、自然災害といったものに対処する方法を見つけ出しえない。
ゆえにこうした定めには、諦める必要がある。
しかしこの諦めによって、即ち襲い掛かる「四苦八苦」を受け入れて耐えていくことによって、この定めの中に人間として生きていく道が開けていく。
辛さ苦しさの定めを受け入れて諦めないことには、道は開かれて行かない。

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宗教の真実   追加分

2016年09月25日 | 宗教観

巷には多くの宗教を名乗るものがある。
それらの中には「魂と霊」の存在をさせて、信者を募っている。
私はこの「魂や霊」を、肯定も否定もしない。
意味がないからだ。
「魂や霊」を取り上げているのは、今の自分の不運や思い通りにならないことをそのせいにしてしまっているもので、「あれが悪いこれが悪い、あいつが悪いこいつが悪い」と、ものや人の所為にしたりしていて言い逃れ、責任逃れをしてみんな人任せにしているとする以外の何物ではない。そして自分は良い子になっている卑怯さがある。
例え過去の「魂や霊」が悪い者であっても、それにめげず、反対にそれを良くなる方へ転換させていかなければならない。これら「魂や霊」を浄めてくれる宗教に頼らず、自分の手で行わなければならない。
人に頼るとか当てにするというのは、自分と他人の個性が同じなら成り立つ。
しかし自分と他人の個性は、絶対同一ではありえず、となると自分の道は自分で探し求めていく必要がある。

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