青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

9月28日(木)のつぶやき

2017年09月29日 | 国際
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解散総選挙

2017年09月28日 | 短歌に政治や社会

衆院解散、総選挙へ 3年ぶり、憲法改正・原発ゼロ争点

★ 高らかに 万歳叫ぶ 国会は
        国民裏切り 解散をする    2017/10/28

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9月26日(火)のつぶやき

2017年09月27日 | 国際
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二足の草鞋

2017年09月26日 | 短歌に政治や社会

【都議会代表質問速報(1)】小池氏の国政参加「都民の期待は都政に専念し、都民のために汗かくこと」 公明都議が苦言

小池都知事が、都知事と「希望の党」代表とを務めるのを「二足の草鞋」というならば、安倍首相が自民党総裁と総理大臣とを務めるのもまた、二足の草鞋と言えるのでは。
尤も総理大臣は、多数党の党首が就くという仕組みになっているが、こういう仕組みでは国政が食い荒らされていく。そういうことを強化するために、改憲しようともしている。

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9月25日(月)のつぶやき

2017年09月26日 | 国際
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言葉の重み

2017年09月25日 | 短歌に政治や社会

安倍首相、今夕に解散表明 消費増税の使途変更を説明へ

安倍首相はここに、加計学園疑惑で取りざたされた「総理の意向」を示して、今夕記者会見して衆院解散を表明するという。
それも臨時国会冒頭に解散させるという。
一般的には国会を開会したならば、所信表明演説をすべきで、それを省いて今夕の記者会見で済ませておいて解散するというのでは、解散の意向という事すら意味も持たない。
また以前に言った、「読売新聞の記事を…」と言う気しかないようだ。
いつまでも鼻たれ小僧のように、言葉の重みも知らないままに口にしている。

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9月24日(日)のつぶやき

2017年09月25日 | 国際
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我15歳にして

2017年09月24日 | 人生設計

北朝鮮外相、「先制行動」に言及 国連総会で演説

「我15にして学を志し」と述べたのは、孔子である。
孔子がここで述べている「学」とは何を指すかというと、普通に我々が思っている「知識、学識」のことではない。即ち「知識や学識」を学び収めるために、「学」を志した言うことではないと受け取らなければならない。
では孔子が宣われたこの「学」とは何か。

私はこの「学」を、「人の道を収めることだ」と了解している。
「知識や学識」ではない。「知識や学識」を得たとて、その「知識や学識」を使って、犯罪めいたことが世の中に蔓延している。殺人方法とか詐欺手段とか、戦争の作戦などと、世の中を乱す事に使うことにしかなっていない。

これに対して孔子の言われるのが「人の道を収める」ための学とするならば、自分にも良く人にも良い正しい人の生き方の道に繋がっていく。

トランプ大統領と北朝鮮のキム委員長の言葉の争い、非難合戦。それに乗っかって安倍首相も「圧力や制裁を加える」と姦しい。
「拉致被害者の救出は安倍政権の重要課題」なのに、そのための知恵はなし。

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9月23日(土)のつぶやき

2017年09月24日 | 国際
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最終回  教育と宗教

2017年09月23日 | 宗教観

「悪の帝国、火で制す」=反米総決起集会開く―北朝鮮

今日は秋分の日。また秋のお彼岸の、中日である。
この日には墓参りや墓参する人が沢山いられる。
だが私は、余りしない。時折家内に誘われていくというように、後ろ向きになっている。
更に家内からは、「少しも仏様に参らない、お仏壇に前らない」という始末になっている。
弁解めいているが、それにはこんな理由がある。

私は亡くなった両親や先祖とは、相対した関係でいたくはない。
相対した関係ではなく、亡くなった両親や先祖を胸の中に置いておいて、その胸の中の両親や先祖と向かい合っていたいと思う。
墓参りしての供養なら、その時だけの供養でしかないだろうが、胸の中でいつも向かい合い、鳴かせまい悲しませまいと自分の行いに気を付けていくならば、一秒一刻が供養になるのではと思う。

仏さまに参らないでいるのは何故かというと、私という人間は常に「目配り気配り」ばかりしているからだ。
何か手伝うことは、手助けするみことは、役に立つことはと気配り目配りばかりしている。そのために、仏さまにお参りするのが疎かになっている。
二つ同時にすればいいのだが、障碍者であるためか、それができない。
人はみんな仕事のことなどで帳付けしながら人と話をして応対しているが、私にはそうした器用なことができないため、一つのことしかできない。

では、仏さまに参ってだけして、後の家族のことも子供のことも何もしないでいいのだろうか。
それとも仏様に参らなくとも、家族や子供の面倒や相手になってやるべきだろうか。

これをもって「教育と宗教」の連載を終わります。

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