竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

豊橋空襲から70年

2015年06月18日 | 一般
豊橋市は、昭和20年(1945)6月19日深夜から20日未明にかけてB29による爆撃を受けました。一夜にして市街地の90%が焼け野原となり、624人の市民が亡くなりました。世帯数では16,009世帯が、人員は68,502人が被災しています。人的被害は、死亡624名、重傷229名、軽傷117名、物的被害は、全焼全壊15,886棟、半焼半壊109棟です。

<写真:戦災直後の札木周辺>


<歩兵第18聯隊営門>


<歩兵第18聯隊の出征>


<写真:市内における防空演習>

 明治17(1884)年、軍国日本を象徴するように豊橋の地に「歩兵第18聯隊」が、明治41(1908)年には「第15師団」が置かれたことから、豊橋市は、「糸の町」「蚕都」と併せ「軍都」と称されていた。

 昭和19(1944)年夏のサイパン島陥落以降、B29による本土空襲が始まり、当初、大都市に向けられていた焼夷空襲の目標が、昭和20(1945)年6月に中小都市へと変わり、その2回目の目標となったのが豊橋、静岡、福岡だった。

昭和20(1945)年6月18日、隣接の浜松市、対岸の四日市市が相次いで空襲を受け燃え上がり、つぎは豊橋の番だと市民は予感したという。

 翌6月19日午後11時43分ごろ、最初の焼夷弾が投下され柳生川運河北方面が燃えはじめた。さらに1分後には、中心部の松山町付近に被弾した。

 まもなく豊橋の市街地のほとんどが戦火に包まれ、B29延べ136機の徹底的な波状攻撃の目標となっていった。(豊橋空襲の開始時刻については諸説があり、20日未明が正しいとも云われる。)

 この空襲下、市民はなすすべもなく、焼夷弾が異様な音を発して、身辺すきまなく落下する中で、本能的に生き残る道のみを求め、炎と崩れる家屋の間を右往左往した。空襲時の避難場所は一応校区内の国民学校とされていたが、統制はとれなかった。

 市中には炎の中に、あるいは直撃弾に、痛ましくも焼死する人が続出し、家族を求めて叫び泣く姿は言語に絶する地獄絵巻であった。


<写真:天皇行幸>
和21(1946)年、天皇陛下が豊橋に行幸されたのをきっかけに市民の復興意欲はいやが上にも高まり、復興の槌音は市内各所に力強く響いた。

(豊橋市役所発行の「豊橋市戦災復興誌」、「戦中の市民生活と戦後豊橋の歩み」、「豊橋市政80年史」による)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 総務委員会 | トップ | 総務委員会 第44号議案:市... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

一般」カテゴリの最新記事