しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

「昭和三陸津波」の記録を読む

2011年04月09日 | 自然災害

昭和8年(1933)3月3日の午前3時ごろ、東北地方の日本海沿岸に震度5の地震が襲った。 震源は日本海海溝付近でマグニチュードは8.1と記録されている。

これといった地震の被害はなかったが、この地震から20分から40分後にまたもや大きな津波が沿岸を襲い、被害は岩手県中心に流失全半壊、焼失約六千戸、死亡・行方不明が三千人以上と言われている。この地震は前回書いた明治29年(1896)の大津波からわずか37年後のことであった。



前回の記事で紹介させていただいた「津波てんでんこ」(新日本出版社:山下文男著)に、「岩手県昭和震災誌」という本の文章が引用されている。

「人々は夢もなかばに驚いて起き出て、あるいは陰惨の空を仰いで、あるいは海を臨んで天災のなきかを懸念した。しかし、暫くして余震はおさまり、天地は再びもとのひっそりした夜にかえった。ようやく胸を安んじてまた温かな床に入り、まどろみかかろうとする時、海上はるかに洶湧(きょうゆう)した津波は、凄まじい黒波をあげわが三陸地方を襲った。

 見よ!ほのぼのと明けはなれゆく暁の光の下に展開された光景を。船端を接して停泊せる大小一万の船舶は、今やその片影さえとどめていない。軒を連ねて朝に夕に漁歌に賑わいし村落は、ただ一望、涯なき荒涼の砂原である。亘長八〇里(314㎞)、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の眺め豊かな海浜には哀れ幸いなくして死せる人々の骸(むくろ)が累々として横たわり、六親を奪われ、家なく、食なき人々の悲しい号哭(ごうこく)の声に満ちた」

では、この昭和8年の三陸大津波の波の高さはいか程だったのか。

前回書いた明治三陸大津波の時に最も大きい波を記録した岩手県綾里村の白浜の津波の高さは38.2mであったが、この時の記録は28.7mとかなり下回るが、やはり大きな数字である。
単純に双方の津波の高さを割ると昭和8年の津波の高さは明治29年の記録を100とすると75程度という計算になるが、山下文男氏によると他の被災地も波の高さの関係はその数字に近い値になるという。
例えば、田老村では明治が14.6mに対し昭和が10.1m、重茂村では18.9mに対し12.4m、釜石では7.9mに対し5.4mという具合である。

また山下文男氏は、浸水を除いた被災戸数についても、明治の数字を100とすると75程度の数字になるそうなのだが、死者数についてはどうかというと、これは津波の高さや被災戸数を考えると異常に少ないことを指摘しておられる。
明治の津波の死者は前回の記事で書いたが2万1千人であったが、昭和の津波では約3千人であった。確かに死者の数は、津波の高さや被害戸数の割には、幸いにも大きく下回っている。

死者の数が少なかったのは「不幸中の幸い」とも言えるが、この経緯について山下文男氏はこう書いている。

「明治の大津波から既に三七年も経って風化しかけてはいたが、それでも、ほとんどの家に、一夜にして家財を烏有に帰し、先祖の命を奪った津波の恐怖についての悲しい『津波物語』があって、親子の間で語り合われることが少なくなかった。…

 その体験者や津波の恐ろしさを聞き知っている賢い大人たちが、地震の後、氷点下4度から10度という厳寒の明け方にもかかわらず、自ら海岸に下がって海の様子を監視していた。そして異常な引き潮を見ると同時に、大声をあげたり、半鐘を叩いたりして集落に危急を告げて住民たちの避難を促した。この危急を告げる叫び声や半鐘の早鐘で、どれだけ多くの命が救われたか数知れない。」(「津波てんでんこ」p.89) 

「大船渡町では、消防の夜警たちが、震度5の地震の後、津波が来るかもしれないと直感、海岸通りを走って避難を呼び掛けている。そのためもあって大船渡では、明治の津波の時の死者110人に対して、55分の1の2人にとどまっている。」(同書p.90) 

一方、明治の津波の時に死者769人を出した唐丹村(現釜石市唐丹町)の本郷という地区では、325人もの死者を出している。
「何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしかその原因を探るに、本郷には明治二十九年の津波の遭遇者が少なく、ために海岸に下りて警戒する者少なく、大概平然として就床しあり、あるいは談笑しあり…。あの大地震の際不安を感じ、家財を背追いて高台に逃れしも、一度家へ来たりし時、古老曰く『晴天に然も満潮時に津波来るものにあらず』と頑迷なる言により安心をなし床にもぐりしと。警戒者も少なく(その後、引き潮を見て津波の襲来を教えてくれた人がいたけれども)寝つきし人なれば聞こえざりきか」佐々木典夫編「津波の記録」-昭和八年の三陸津波  (同書p.91) 

また、明治の津波で1800人以上が溺死した田老村(現宮古市田老町)も津波監視活動が見られず、昭和の津波でも900余人の死亡・行方不明者を出した地域だ。この地域では、明治三陸津波の体験談として「津波の前には井戸水と川の水が引いて空っぽになる」という話がまことしやかに伝承されていたらしい。そのために、昭和の津波の時に、せっかく逃げる準備をしながら、わざわざ井戸と川の様子を見に行って、変化がないのを確認して油断したという話が残っているそうだ。

岩手県は明治・昭和の津波襲来の浸水線を標準として、それ以上の高所に住宅を移転させることを決定し、津波後わずか二年そこそこの間に、岩手県だけでも集団的移転を含む約3000戸の高所移転が実現したそうだ。

例えば先程紹介した釜石市唐丹町本郷はこの時に山を崩して団地が作られ、この高台に移転した住宅は先月の東日本大震災の津波でも無傷だったようだ。ところが、土地がないためにその後低地に住宅が開発され、その50戸近くは今回津波の被害を受けたが、津波警報を受けてほとんどの住民が高台に避難し、犠牲者は1名が出ただけだ。



写真では高台にある住居は無傷で、低地の家が全壊している。



しかし現宮古市田老町は、昭和の地震の後、住宅の高所移転よりも防潮堤の建設という独自の道を選択した。戦争による工事の中断はあったが、昭和33年(1958)に、高さ10m、全長1350mという大防潮堤が完成。その後2433mまで延長されたのだが、先月の津波は非情にもその防潮堤の高さを超えて、田老町はまたもや大きな被害が出てしまったようだ。



今回の地震で田老町の津波の高さは37.9mというとんでもない高さだったそうだが、過去の記録では明治29年が14.6mに対し昭和8年が10.1mとなっていたので、10mの堤防を作ると言う選択は正しかったのか。
どんな大きな津波が来るかはわからないのだから、防潮堤などの施設だけでは津波を防げないと考えて行動すべきなのだろう。

漁業を営む人々にとっては、海に近い方が楽であることはわかるのだが、すべてを一瞬にして失う津波の怖さを思えば、野中良一前田老町長の提言のとおり「生産と生活の分離」「(土地利用の)規制」は必要なことだと思う。また、今回の津波で判明した特に危険な場所は、「規制」するだけでは遠い将来にわたって徹底することに限界があるので、国や地方が土地を買い上げるということも検討すべきではないだろうか。

今度こそ、数百年後に大きな津波が来ても人的被害がほとんどない町づくりを目指してほしいと思う。
そのためには住居や主要施設は高台に作ることを徹底し、低地は公園の他、一部の施設は残るも、津波に対して強い構造であり屋上や最上階に避難が出来る施設とし、津波避難シェルターも何箇所かに設置すべきだろう。
その上で津波の怖さと、そして津波の時にどう行動すべきかを、今後数百年にわたって新しい世代に伝承していく仕組み作りと、津波発生後の地域別の波の高さ、到達時刻の予測精度の向上が不可欠だと思う。
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BLOGariコメント

NHKも東北の次は南海地震だということで、執拗に取材をしてきます。私の自宅と会社がある高知市二葉町は地震が来れば水没するどうしようもない地域だからです。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ced5.html

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat5681894/index.html

 まだ東北は逃げ込める自然地形の高台や山があります。二葉町には自然の高台は皆無。耐震の公共建築物も皆無です。

 その絶望的な地域ゆえに自主防災会を4ね年前に結成したときも苦労しました。結局町内の4階建て以上のマンションのオーナーと直談判し、協定を結びました。「災害時(津波)一時待避所」として、マンションの階段や廊下に近隣住民が24時間退避させていただくことです。

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat11908619/index.html

 1番新しい町内の穴吹工務店のマンションの管理組合はその退避を拒絶してきました。理由は「汚れるし治安に不安がある」ということ。呆れました。関係は断絶しています。

 なんとか町内に10箇所の一時待避所と、国道の橋を災害時要支援者待避所として認めてもらいました。

 NHKは「二葉町は地盤沈下して長期浸水するのにどうされるのでしょう」と執拗に聞きます。その問題は行政の対応の問題だと思います。ただこれからの話しですが、山間部の仁淀川町と連携しようと思っています。具体的な話はこれからですが、仁淀川町の野菜を二葉町で販売する。間伐ボランティアにいく。住んでいない家屋を借りる・などです。疎開先を日頃の交流でつくろうというものです¥」と言いました。

 月曜日にうちへ取材に来るそうです。そして22日の高知ローカルの番組で放映するようです。

 なかなか前途は多難なんです。東北のほうはある意味簡単です。高台があるし、奥尻島のように高台に住居をこしらえ、海で仕事をする体制にすればいいのですから。       
 二葉町の場合は街全体の移転を考えなければ根本的な解決にはなりませんから。
 
 
二葉町の位置を地図で確認しましたが、深刻に考えておられる理由が良くわかりました。

高知の事を何も知らない自分に、自信を持って言えるようなことはありませんが、山間部の仁淀川町と連携することは非常にいいことだと思います。仁淀川町の農産物は優先的に買って、間伐のボランティアという関係は素晴らしいです。

今回の地震で福島県や宮城県の農地の1割以上が耕作不能になったにもかかわらず、政府はどこにも米や農作物の増産指示を出していません。もうすぐ田植えの時期でありながら、これはおかしなことです。このままでは秋には国内で食糧が大幅不足になって、TPPの承認やむなしという方向に世論誘導がされることを懸念しています。

日本の農業を救うためには、都市生活者が農業生産者を理解してその活動を支援する。農業生産者は、良い状態で生産できた作物を協力者が中心に直接販売し、大手の流通ルートには良質な製品は流さないようにすることが一番いいと思っています。
また田舎の人々はなかなか都会で買い物をする機会がありません。高知市内の商店が共同で、仁淀川町の住民から電話やFAXの注文を受けてまとめて商品を届けるような仕組みを作ることも喜んでもらえるのではないでしょうか。
そのような都市と田舎との関係が日本各地で拡がれば、イオンのような業態は良質な農作物が入らず、客が激減して店舗の収支が成り立たなくなるはずです。

仰る通り、地盤沈下などの問題は行政の問題ですね。だけど行政に任せてもいつになるかわからないし、町毎移転するような話は難しい。いざという時に頼りになる地域と関係を構築することが民間でできるベストの選択だと思います。そのことが田舎を活性化させることにもなります。


自主防災会関係ブログには以下のことを書かせていただきました。

 仁淀川町と二葉町との交流事業について

 CSA農業支援事業。田舎の農業を都市部がサポート(直接野菜などを購入など)
文部科学省支援事業を活用しながら高知版CSAモデルにする。

 災害時の避難先・疎開先の確保も目的。費用はかからない。承認を受ければ、NPO法人土佐の森救援隊の中嶋健造氏が仲立ちすることになっています。。

 西森二葉町町内会長(酒屋・米屋)は「うちの店舗に仁淀川町の農産物を置き、販売することは可能です。ぜひ協力したい」とのこと。また森自主防災会会長も「うちの弁当屋で使用することも可能です。」と言われました。会議の参加者一同関心が深く、既に間伐ボランティアで荒木副会長や、福留幹事は仁淀川町とご縁があります。

 より親密な交流をしていこうと合意が得られました。具体的な交流の方法については、中嶋健造さんに連絡をし、交流していこうということになりました。

 同じ発音の福島県双葉町は原発にあまりに依存しすぎたまちづくりでした。まちづくりは「みのたけ」にあったことをしないと破綻します。

 CSAはコミュニティが農業をサポートするというしくみで、もともと日本から発祥しましたが、いまではアメリカが盛んで,逆輸入された考え方です。

 しばやんさんが言われるように、消費者がスーパーへ行くことを少し控えることです。知り合いのJASS認定有機栽培農薬農家も人も、スーパーに販売しているために、野菜を洗ったり、袋詰する作業に追われるとか。本末転倒なんですよ。

 ハゲタカ.イオンなんぞに優良野菜を販売する必要がないように市民が力を持たないといけないですね。
 
 
どんな生産者にとっても、消費者の顔がわかり、その喜びがわかるところに販売したいと思っています。もし田舎の生産者が都市住民とそのような関係が築くことができれば、大手流通対応に余計な手間をかけた上に安価に買い叩かれることもありません。

多くの都市住民が同様な関係を田舎と結ぶようになれば、大手流通に致命的なダメージを与えることは確実です。

イオンと言っても営業利益率は2%台です。仮に売上が1割でも低下すれば、赤字に転落する店舗が続出します。けんちゃんさんの嫌いなハゲタカを退散させることは、消費者の一部でも生産地と関係性を強化すれば、意外と簡単に実現できるような気がします。

前回コメントに書きましたが、今の流れでは政府の無策から秋以降に食糧不足になると思います。日本の製品を求める消費者が地域単位で生産地で繋がっていけば、大手流通は良質な農産物が一般消費者に供給できなくなりますし、売上はさらに縮小します。

地方の疲弊の問題の多くは、大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊するところにありました。消費者が前述した行動をとれば、世の中が大きく変わるきっかけになるのだと思います。
 
 
心強い励ましありがとうございます。
 出口のない防災対策をいくら考えても答えはなく、みなムードが暗かったんですが、「仁淀川町疎開案」「そのための日頃からの交流案」は、防災会役員の賛同があっさり得られ驚きました。

 案外進展するかもしれません。4月末から具体化しますが、なんだか少し希望がわいてきました。

 戦争中の疎開先を町ぐるみでこしらえる。町民同時の顔が見える交流でそれが実現すればそれにこしらことはありませんから。
 
 
防災対策は、自分の住んでいる地域を守るという対策と、自分の住んでいる地域にもしものことがあったらどうするのかという対策との両方が不可欠ですが、前者の対策に偏り過ぎればいくらコストがかかるかわかりませんし、他の地域とバランスがとれずになかなか意見がまとまらないでしょう。

他の地域と連携し、お互いの心配事を共有しお互いが助け合うことの方が、コストもかからず精神衛生上もいいような気がします。

どの地域も前者の対策にこだわってしまうのは、他の地域との交流がないために不安を覚えるからではないどしょうか。交流すれば、そのような不安は解消していくと思います。
 
 
こんにちは。
震災後の稿を続けて読ませていただき、三陸海岸の津波の歴史がよくわかりました。
私は「阪神・淡路大震災」を経験しており、この度の地震の映像を見ていると、地震そのものの“揺れ”の激しさだけを見れば、「阪神」の方が大きかったのではないかと思えました。
しかし、これほどたくさんの犠牲者を生んでしまった・・・津波に関しては、スマトラのときに見た映像は衝撃的でしたが、今回改めて、津波というものが如何に恐ろしいものかということを知りました。
前稿の明治29年の大津波が、実は震度3程度だったという話は驚きです。
おっしゃるように、歴史に対する認識が備わっていれば、助かっていた命はたくさんあったでしょうね。

前稿で紹介されていた、釜石市の小学生については、昨日の記事でより詳しく紹介されています。
http://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1104/13/news069.html
地域によっては、しっかりと歴史に学んで防災教育がなされていたんですね。
それが全ての地域ではなかったというのが、残念な限りです。

今回、被災者の方々が撮影された津波の映像がたくさんTVで映しだされ、その映像によって私たちも津波の恐ろしさを知ることができたわけですが、中にはかなり近くで撮影したものもあり、そう考えれば、他にも津波を甘く見て逃げずに撮影していて津波に巻き込まれた人もたくさんいたのではないか・・・と思ったりします。
ああいった映像が多く流されるというのも、考えもののような気がします。
 
 
津波は怖いものだと漠然と思っていましたが、自分があの時に北陸地方にいたとした場合に、とっさに高台に避難して助かっていたかというと、あまり自信がありません。
私も津波の怖さを甘く考えていたところがあり、もし現場にいたら、どちらかというと怖いもの見たさで津波を間近で見たいという衝動を持ったかもしれない性格なのですが、今回の映像を見て「逃げるしかない」ことを十二分に悟ることができました。

紹介いただいた釜石市の小学生のように防災知識を、今後何世代にもわたって叩きこむ教育がとにかく重要ですね。今回の大災害の経験を、決して風化させてはいけません。