しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波

2011年04月02日 | 自然災害

明治29年(1896)6月15日の三陸地方の夜は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎えて多くの村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわであった。またこの日は旧暦の5月5日でもあり端午の節句を親戚家族で祝う家が多かったという。
その日の夜7時32分頃に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表によれば震度2~3程度のもので、この地震に気がつかなかった人が多かったそうだ。しかし揺れは5分近く続いたという。

地震としての被害は全くなかったそうなのだが、地震後30分を過ぎた午後8時頃に、北海道から宮城県に至る太平洋岸一帯に突如として大津波が襲う。



この津波が北陸地方を中心に大被害をもたらし、この時の死者は岩手県で18,158人、宮城県で3,452人、青森県で343人、北海道で6人と合わせて22,000人近い数字にも及んだ。

津波の高さは、岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現・宮古市)で14.6m、同郡船越村(現・山田町)で10.5m、同郡重茂村(現・宮古市)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現・釜石市)で8.2m、気仙郡吉浜村(現・大船渡市)で22.4m、同郡綾里村(同)で21.9mと軒並み10mを超える到達高度を記録したという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87



岩手県綾里村の津浪は、38.2mという想像を絶する高さであったそうだ。
ネットで探した綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告) 

「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。晩暮帰潮に随って湾上に揚るもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり子の骸を抱き慟哭するものあり、多くは死体変化し父子だも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり。」



改めて書くが、これだけの大津波の被害が出ておりながら震度は2~3だったと言うのだ。 大きな揺れではなかったから、人々は津波を警戒しなかったところにとんでもない津波が来たために大きな被害が出たのだ。

山下文男氏の「津波てんでんこ」という本を読むと、津波の後、岩手県の釜石町長が郡役所に提出した報告書には「起災前、一、二回の震動アリタリト云フガ、甚ダ微弱ニシテ、知覚セザルモノ多キニ居レリ」と書かれているそうだ。(p.33) 
また当時の文書や記念碑の記述を見ると、事前の地震について記述しているものは大変少なく、いきなり津波の記述になっているものが大半だそうだ。このことは、地震の揺れそのものは大したことはなかったことを意味している。

こんな小さな地震でも大きな津波が来ることがあることを今回調べて初めて知ったが、明治の三陸大津波の時の地震の震度がこんなにレベルであったことをどれだけの人が知っているのだろうか。

このように、地震の規模に比して不相応に大きな津波を発生させる自信を「津波地震」と呼ぶそうだが、どうしてそのような事象が起こるのだろうか。

Wikipediaによると、こう説明がなされている。
「海底において地震が発生し、海底面に地震断層による地殻変動が現れると、それは海水の上下動を呼び起こし、津波を発生させる。通常は、津波を発生させる地震は大規模な地震であり、体感もしくは強震動地震計などにより、津波を引き起こした地震による揺れ(地震動)を感知することができる。一般的に断層運動の大きさ(モーメントマグニチュード)が大きいほど、地震動も津波の規模も大きくなる。
しかしながら、断層運動によって、地震動(揺れ)と津波(海底面の地殻変動に よる海水の上下動)がそれぞれ生じるのであって、地震動が津波を引き起こすわけではなく、地震動と津波は原因は同じだが別の現象であるともいえる。よって 地震動と津波の大きさがリンクしない場合もあり、極端なケースになると、体感もしくは地震計によって観測した地震動は比較的小規模であるにも関わらず、大きな津波が発生する場合もある。このタイプの地震を津波地震と呼称する。」

「大きな地殻変動が通常の地震よりも長い時間をかけて発生することで、有感となるような短周期の地震動をあまり生じさせることなく大きな津波を発生させるこ とで、津波地震となる。一般に地震断層の破壊伝播速度は、通常の地震ではおおむね秒速2.5~3km程度であるとされる。しかし津波地震では秒速1km程度の場合が多い。このような地震では強震動をあまり生じさせないが、津波の波源域は津波が拡散するよりも早く数分以内の短い時間で広がるため、津波が大きくなる。破壊伝播速度がこれよりさらに十分遅い場合は、津波の波源域が広がる前に津波が拡散してしまい、大きな津波も発生しなくなる。」

私は長い間「震度」と「マグニチュード」とは良く似たものだと解釈していたが、調べると「震度」とは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」で尺度は何種類かあるようだが、日本では気象庁が定めた尺度を用いているそうである。
ということは、同じマグニチュードの地震であっても、震度の測定地点が震源からその地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わると言うことである。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/sindo.htm 

もし震源地の地盤が軟らかければ、大きなマグニチュードの地震であっても震度が低くなることがあるということは重要なことだと思うのだが、あまりこういう事実は伝えられていないような気がする。
冒頭に書いた明治三陸大津波をもたらした地震の震度はわずか2~3程度であったのだが、マグニチュードは8.6程度と推定されているそうだ。「津波地震」の怖さは、もっと良く知られる必要があると思う。

「津波地震」の事例としては、この明治三陸地震津波のほかに、慶長10年(1605)駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフを震源とする慶長大地震もそうらしいのだが、この地震の記録は残念ながらほとんど残されていない。

はじめに「津波てんでんこ」という本を紹介したが、この「てんでんこ」という言葉は、「てんでばらばらに」という意味だそうだ。では「津波てんでんこ」というのは、津波が来た時は、家族や友人のことは一切構わずに、一刻も早く逃げなさいという教えなのだそうだ。 多くの災害では親は子を助けたり子が親を助けたりするのだが、津波の時はそのような行動をとると共倒れになるケースが多い。地域単位で犠牲を最小限にするためには、一人ひとりが「てんでんこ」になって少しでも高い所に逃げることによって、共倒れの悲劇を防ぐことがベストの選択になると言う昔からの言い伝えなのだ。

時事ドットコムニュースに、この「てんでんこ」の考え方で釜石市の小学生が高台に登って助かったとの3/11付けの時事通信社の記事が掲載されている。
https://www.jiji.com/jc/d4?p=flo100-jlp10703948&d=d4_quake


今回の東日本大震災で多くの犠牲者が出たが、もしマグニチュードが同程度でありながら震度が3程度の「津波地震」であったとしたら、どれだけの人々が高台に逃げようとするだろうかと考えるとぞっとする。



津波の画像を何度かテレビで見たが、津波のスピードはかなり早く、津波に気付いてから高台に登るのでは間に合いそうにない。

地震予知が正確にできる時代が来れば話は簡単だが、当面そのような時代が来そうにない。ならばせめて、海面や海中や海底のどこが適切かよくわからないが、海にいくつかのセンサーを設置して、津波の発生をとそのエネルギーや津波速度等を測定して、どの程度の津波がいつ頃どこに到達するかを正確に予想することが出来ないものだろうか。それが出来れば、多くの人の命を救うことが出来るのではないか。

次のURLを読むと、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に「大津浪記念碑」が建てられているそうだ。

写真の記念碑にはこう書かれている。

「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に 家を建てるな。
 明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来ては全滅し、生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。」
http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-1606.html 

明治29年、昭和8年の大津波の生存者が後世のためにこのような石碑を建てたにもかかわらず、津波を知らない世代がこの場所より下に家を建てていく。そして今回もまた大災害が繰り返されてしまったのだ。

これからは被災地の復興がわが国の課題となるが、今度こそはこの石碑を建てた先人の警鐘を受け止めて住民が安心して暮らせるよう、高台に学校や役場や住宅を建てて海の近くに低地は公園のほか農業用地、太陽光発電プラント、漁業関係者がいざという時に避難可能な高層の津波シェルターなどを配置するなどの再興プランをしっかりと立てて、今後もし津波が来ても、それが津波地震による津波であったとしても、後の世代がこのような悲惨な結果にならないように智恵を絞ることが、この怖ろしい津波を体験した世代の責務だと思う。
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BLOGariコメント

 津波てんでんこは先人の知恵でしょう。高知の海岸にも各地に津波の慰霊碑や、到達点の碑があります。

 私がヨットで活動している香南市夜須でも、20メートルの高さに津波が来たという神社があります。江戸時代のことだそうでした。

 津波は難しいです。昨年などチリの地震の時に、津波警報が出るのが昼であると聞いていたので、午前中は海で遊べると思いぎ装してました。アホーです。

 結局9時半に津波警報が出ましたので慌ててぎ装解除したぐらいです、いかに自分が「おろかであったと思います。

 でも今回あの映像を焼き付けておけば、津波の怖さが皆わかったことでしょうから。

 でも揺れが小さいのに大津波が来ることは怖いです。対策のたてようがありません。
 
 
リアス式海岸や遠浅の海岸は津波に弱いと言われますが、高知県で20mの高さの津波の記録があるとは知りませんでした。江戸時代というと前々回の記事で書いた安政南海地震なのでしょうか。

私も、今回地震の映像を見て、想像していたよりも津波がはるかに怖いものであることを思い知りました。
また、揺れが小さくともとんでもない津波が生じることがあるということも、今回調べて初めて知りました。こんな津波を逃れるためには、人間の感覚や直感だけでは限界があります。

素人のくせに偉そうなことを書いてしまいましたが、地震の予測はできなくとも、地震が起こってからの津波の予測はもっと正確に出せるのではないかと以前から思っていました。それが出来れば、適切に避難命令が出せて津波の被害を最小限にできるはずです。若い地震学者や物理学者らにチャレンジしてほしいものです。

 高知県や徳島県の海沿いの市町村には、かつての南海地震での大津波の形跡を示す碑やいましめる碑が多くあります。図書館で「歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて 石碑・古文書に残る津波の恐怖」(毎日新聞高知支局・2002年刊)を読みました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-f3d0.html

 10年ほど前の出版物でしたが、先人のいましめを軽視せず、きちんと検証しなkればいけないとつくづく思いました。

 福島原発は先人の戒めを軽視した結果の大事故となったのです。
 
 
 香南市夜須町の神社に残る津波の慰霊碑へ行きました。3年半前に行ったようでした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2320.html

 この種の碑は高知県の各地にあるようです。
 
 
三陸海岸だけでなく高知にも同様な石碑があるとは知りませんでした。

大津波を経験し九死に一生を得た名もなき人々が、被災して多くの資産を失いながら、後世の人々に警鐘を鳴らすために私財を費やして建てた石碑の意味をもっと噛みしめないといけませんね。

そのうえで、津波の怖さを次の世代にきちんと伝えていくことと、津波が来ても少ない被害で済む町づくりを推進していくことが重要だと思います。
 
 
 技術者というか科学者であるヨット仲間の先輩は、福島第1発電所の罹災の報道に、即座に「これはチャイナ.シンドロームになるよ。」と言われました。

 結果はそのとうりに。しかもスリーマイルやチェルノブイリは原子炉が1つの罹災でしたが、「福島第1原子力発電所は、GE製の性能のよくない原子炉が狭い敷地に並んでいる。1つの原子炉のトラブルが6倍になるわけで、設計思想が間違っていますね。」

「しかも津波の予想を異常に低く見ていた。これは技術者として失格。なんか絶対に津波は来ないという根拠のない自信にとらわれていたのでしょう。それだけで失格。」

「地下に電源を設置するのもおかしい。そうであれば防水処置はできたはず。原子炉自体は地震では安全に停止したのだから。それはいいが、冷却装置が破損すれば原子炉が危機に成るシナリオは原発設計者や運転者にはなかったようですね。完全な技術的な欠陥以外何者ではない。」

「ロボットをドイツから借りるそうだが、原子炉作業は危険なので開発してなかったことが信じられない。下請け、孫受けの原発労働者を安く雇用できるので、開発を怠っただろうね。怠慢以外ないね」といわれました。

 彼によれば「想定外」ということはありえない。大津波が仮に来ても冷却装置が破損しない工夫は可能であったはず。技術的な失敗を隠すための言い逃れに過ぎない。」といわれました。

 「1000年に1度の地震や津波」に日本の原子力発電所は耐えられるのか?検証を至急すべきでしょう。検証の結果耐震補強が無理であれば、原子炉を廃棄していくしかありません。

 思い上がった技術屋が昔の人たちの「言い伝え」を一笑に付し「原子力発電は120%安全」と強弁した結果が、今の悲惨な事態を招きました。本当に許されないことです。
 
 
中部大学武田教授がテレビでわかりやすく説明しています。
はじめから原子力発電所が安全性に万全を期して建設されているわけではないことは浜岡原発の立地を見れば明らかですし、今回のケースでも事故が起こった場合のことをそもそも想定していないことがよくわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=gW8pfbLzbas&feature=related
 
 
武田教授の説明わかりやすかったです。さっそくわたしの個人ブログにも貼り付けました。

 わたしのヨット仲間で、元国立大学教授の人がいます。専門は原子力ではありませんが、武田教授とほとんど同じ事を言われていました。

 科学者に「想定外」なんてことはありえないと。昔の古文書に大津波の記録があるならば、当然それを「想定した施設の設計をするのが科学者だろうにと。変な自信と思いあがりがあったんだろうね・と。

 しばやんさんが言われるように、昔の人が津波の記録を後世に残し、戒めとしたのに、現在の私達がないがしろにすればいけないのです。
 
 
今回のことで恐らく政府は、ほとんど東電に責任をかぶせるのでしょうが、想定津波2mレベルでの設計を許可した国の責任が一番重たいはずです。

武田教授の説明を聞いて、原子力発電推進派の無責任体質に腹が立ち、いくら日本の技術が優秀でも、こんな連中に原子力の許認可や推進を任せるわけにはいかないという気持ちになりました。

この連中の思考の原点はつまるところ自己保身で、自分に責任が及ばないように逃げることばかり考えている。
連中を全員福島に強制的に居住でもさせなければ本気で現地住民の安全性の確保を考えてくれそうにありません。
 
 
 関西は福井県にたくさん原子力発電がありますね。あそこは地震の巣。直下型地震の発生地域になります。

 今後日本では原子力発電は震度7で、30メートルの大津波でも耐えられる条件でなければ、稼働を許可しないようにしないといけないでしょう。でもそれでも100%安全ではありません。

 今回の事故では、テロリストに格好の材料を提供しました。原子炉がいかに丈夫でも、冷却水と電源を断てば原子炉はメルトダウンすることがわかりましたから。ミサイルで攻撃しなくても簡単に破壊できます。 

 地震・津波・テロには原子力発電所は弱いと思いました。
 
 
福井県よりも浜岡の方が危険という人もいますが、どちらも海から近く、海抜の低い位置に重要施設が設置されているという点は同じです。

大きな津波であっても、水深が深い位置で操業していた漁船が被害に合わないケースが多いように、深い海では高さ30mの波と遭遇するわけではありません。
三陸海岸で津波被害が多いのは、つまるところリアス式海岸の地形であることと関係があります。
今回の津波で被害の大きかったところは、陸に深く入り込んだ入り江でのような地形のところや、海の深さが急激に深くなるような場所がほとんどですね。

ですからそのような危険な地形でなければ、必ずしも30mの津波までの想定が必要なわけではないと思いますが、炉だけでなく非常用電源や冷却装置などはすべて安全な高さに設置されていることが必要ですね。
非常用電源の移設が望ましいと考えられる発電所は早目に工事をお願いしたいところです。

それができなければ、通産省の天下り役員は全員原発の近くに住ませれば効果てきめんだと思います。
 
 
現実論でいくと原子力発電をただちにすべて廃炉にすることはできないことでしょう。でも存続させるためには、1000年に1度の大地震と津波に耐えられる補強ができるところはとりあえず残し、無理なところは廃炉にする。          
 原子力安全委員会が権限がないのが問題。厚生労働省や環境省からも人員を出し、委員長に共産党の国会議員である吉井英勝氏(京大工学部原子核工学卒)の人を任命することをしないといけないでしょうね。

 吉井氏の話はとてもわかりやすい。原子力といっても「湯川秀樹博士にあこがれていた」という人だけに、冷静沈着に話されるのでとても落ち着いて話が聞けます。

 何を言っているのかいまだにわからない原子力学者をTVに出さないでほしい。
 
 
廃炉は簡単ではないですね。廃炉してからも安全になるまで、何十年も管理する必要がありますし莫大なコストがかかります。
そもそも原子力発電所は将来廃炉を検討されるような場所に作ってはいけないものであったにもかかわらず、危険な場所にいっぱい作ってしまいました。しかも、需要地とは関係のない場所に作ってしまうというのは一番危険な発想です。東北の方はほんとうにお気の毒です。

もし、東電が千葉県や茨城県に発電所を作る場合なら、万が一の場合は首都圏にまで影響が及びます。その時はガチガチの安全対策を施さなければ作れないでしょう。それと同じ思いで、福島の原発を作るべきだったのです。地域住民と運命を共同にする覚悟なしでは、どんなメンバーでも信用されないでしょう。

危険な場所から遠く離れた安全地帯でいくら議論がされても地元の人は信用できないでしょう。保安院も、安全委員会も原子力施設の中にでも作って、メンバーも地元民と共に住むくらいの覚悟がなければ、前に進まないような気がします。

東日本大震災直前まで、TVや新聞媒体を活用した電力会社や電気事業連合会の宣伝量は物凄いものでした。

 有名タレントや評論家(勝間和代など)を動員し、「原子力は環境にやさしく安全」「オール電化住宅は環境にやさしい」「経済のことを考えたら原子力発電でしょう・」と夜遅くのTV番組などほとんどこの種のCMでした。

 福島第1原子力発電所の大事故は未だに収拾のめどさえたちませんが、タレントも評論家も姿が見えなくなりました。歯切れの悪かった民放TV局も最近はようやく原発災害問題を本気で取り上げるようになりました。

 先人の諌めや教訓を無視した開発がいかに被害をもたらしたのか。あまりにも大きな犠牲でした。

 他人事ではなく、南海地震を迎えなければならない高知市に住むわたしなどどうすればよいのか思案中です。
 
 
高知市に限らず、東京も大阪も、低地に住宅が密集しています。日本の都市の多くは津波を想定せずに開発が進められていると言っていいでしょう。

かといって、今の大都市に設備投資して津波に強い町に変えることはほとんど不可能です。できることは、津波が来た時に、どの場所なら避難可能かを予め知ることと、20分以内にその場所に逃げることしかできません。避難場所は自然の高台だげではなく、ビルの4~5階以上のスペースや屋上を含むことになると思います。

収容可能なスペースがどれだけ存在し、それを近隣住民と近隣の勤務者とどう配分するかを予め決めることが必要な地域もあるかもしれませんね。