小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬は誰に殺されたのか 2 〈暗殺の時刻〉

2005-11-07 21:04:10 | 小説
 上洛していた土佐藩士の寺村左膳の日記がある。その日、彼は仲間と芝居見物を楽しんだ。生まれてはじめて四条の小屋で歌舞伎を見たという。その帰り道で、暗殺の一報を聞いている。彼の11月15日付けの日記は第一級の同時代史料である。
「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたと書いている。
「夜五時」は「五ツ時」で、「五比」は「五ツ頃」のことと解釈されている。(蛇足ながら石川清之助は中岡慎太郎の変名である)
 さて、この時代、江戸では夜の芝居は早くから禁止されていた。たとえば正徳4年の法令では「狂言暮へかかり、あかりを立て候儀堅く無用に致し七ツ半時分に仕舞候様致すべく候事」とある。防火上の配慮から舞台でロウソクやカンテラの照明を使うことを禁じたのである。だから、昼興行だった。七ツ半に終われということは、冬場なら午後4時過ぎには終われ、要するに日が暮れたら終われということだ。
 幕末の京都では江戸とは事情が違っていたとはいえ、寺村左膳は朝早くから芝居を見たと前段に書いており、昼興行を見ての帰路に龍馬暗殺の報に接しているのだ。歌舞伎の上演時間そのものは今も昔もさほどの変わりはない。すると芝居の終わった「夜五時」という表現は、ほとんど現在の時刻表現とみなされてもおかしくないほどだ。
 龍馬が暗殺された時刻は日暮れて間もない頃、宵の口だったのである。

注:寺村左膳は土佐藩主の建白書を携え、徳川慶喜に大政奉還を勧告するため上京していた。土佐藩の要人である。「寺村左膳道成日記」の原本は高知の佐川町立青山文庫が所蔵している。余計なことだが、銘酒司牡丹の醸造元のあるのが、佐川町である。

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