皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

「大東亜戦争」と「太平洋戦争」

2018-03-14 21:28:12 | 日記
昭和16年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃と日本政府の宣戦布告で始まった戦争は、同12日に「大東亜戦争」と呼ぶ事に閣議決定しました。



そしてその戦争目的は「東アジアの安定と日本の自存自衛」の為です。

ですから日本は戦闘には敗れましたが、「戦争目的」は達成しており、その意味においては「戦勝国」と言えます。

いやいや、それはいくらなんでも過大解釈し過ぎ・・!!!なんて言われる方もいらっしゃるかもしれません。

(20世紀初頭のアジア・・日韓併合以降、満州国建国以前)


でもあの戦争で日本軍がアジアの白人の植民地支配を終わらせ、その後、多くの独立国が誕生する事になりました。

戦争前はアジアに広大な植民地を有していたイギリス、オランダが16世紀以降、世界の海に進出し植民地獲得を始める以前の元の島国に戻ってしまい、戦闘に勝ったはずのアメリカさえ多くの植民地を失ってしまいました。

白人は日本と戦ってしまった為に今まで築き上げてきた植民地支配を全て失ってしまったのです。

逆に言えば、日本と戦争さえしなければあの広大な植民地を失う事はなかったのです。

「零戦は撃墜され、戦艦大和は撃沈され、勇猛果敢な日本兵は大地に倒れ、日本は焦土と化した!! そして世界地図から植民地が消えた!!!」
という事です。




【そしてまた見落としていけない事は、実際に戦争を行った全ての国が領土を狭め、戦争に参加していなかった(どさくさ紛れで参加)共産圏が何故だか領土を拡大してしまっているという事。】




では何故、その「大東亜戦争」と閣議決定した戦争が現在「太平洋戦争」と呼ばれ、その戦争自体の意味も

・一部の軍国主義者が植民地獲得のために戦争を始める。
・国民を犠牲にして自分達の野望を達成しようとする。
・残虐行為を繰り返しアジアに迷惑を掛ける。
・ナチスを組んで世界征服を企む。
・自由と平和を愛する民主主義の国アメリカの正義の力の前に屈服し、日本は新しい時代を迎える。

という「大東亜戦争」を始めた時とは全く正反対の自虐史観になってしまっているのか。


それはGHQが日本占領政策で「大東亜戦争」という言葉を禁止にして「太平洋戦争」と呼ぶ事にさせ、昭和20年12月8日から全国紙において連続10回に渡り「太平洋戦争史」という名前のGHQの戦争史観を掲載宣伝し、それがそっくりそのまま日本の学校の歴史の教科書に引き継がれていったからです。

(昭和20年12月8日の朝日新聞)


そして、物資、資源の乏しい状態の日本政府に国民に大量のラジオを供給するように指示を出し、ご丁寧に翌日12月9日からは「真相はかうだ」というラジオ放送で同じ内容の番組さえ始めGHQの戦争史観を日本人に刷り込み、それが現在に至っているのです。
(これがまた狡猾なやり方で、いかにも日本人が日本人の意思でやっているかのように見せかけ、GHQは全く関係ないように偽装していました。だってポツダム宣言の中で言論、報道の自由は保障されていましたし、そうしないと意味が無いですから。またこのようなやり方はアメリカ国内自体からも、それはポツダム宣言の内容に抵触する!!という意見もありました。)




その12月8日から10回連続で掲載された「太平洋戦争史」は以下のような「前文」から始まります。




『日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だに白日の下に曝されてをらず、時のたつのに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことになろう。
これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜および非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱ひ等であるがこれらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう。この真実の「管制」は1925年(大正14年)治安維持法が議会を通過した瞬間に始まつたものである。この法律が国民の言論圧迫を目的として約20年にわたり益々その苛酷の度を増し政治犯人がいかに非道なる取扱いを受け人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。
1930年(昭和5年)の初頭日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてその頃漸く擡頭しつつあつた軍閥の専制的政策に反対した政府の高官の暗殺とによつて一大転換期を劃したのであつた。
1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)の間に所謂「危険思想」の抱懐者、主張者、実行者といふ「嫌疑」で検挙されたものの数は5万9千を越えるに至つた。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成せられ、国民に対し、その指導者の言に盲従することと一切の批判を許さぬことを教へられることとなつた。
この時期が軍国主義の上昇期であつたことは重要な意義を持つものである。1936年(昭和11年)2月二千四百名以上の陸軍軍人は叛乱を起し、斎藤内府、高橋蔵相、渡辺教育総監を暗殺し時の侍従長鈴木貫太郎大将に重傷を負はしめた。軍国主義者の支配力が増大するに伴ひ検閲の法規を強化し、言論の自由を剥奪するための新しい法律が制定された。そしてこの制度こそは支那事変より聯合国との戦争遂行中継続された。
日米、日英戦争の初期においては日本の勝利は比較的国民の反駁を受けずに宣伝することが出来たが、戦局が進み軍部の地位が次第に維持し得なくなつてくるにつれて当局の公表は全く真実から遠いものに変わつて行つた。日本が多くの戦線において敗退しその海軍が最早存在しなくなつてからも、その真実の情勢は決して公表されなかつた。最近においても天皇御自身が仰せられてゐる通り日本が警告なしに真珠湾を攻撃したことは陛下御自身の御意思ではなかつたのだ。憲兵はこの情報が国民に知らされることを極力防止したのだ。
聯合国最高司令官は1945年(昭和20年)十月五日治安維持法の撤廃を命令し、新聞に対するこの制度を破壊する方法をとり戦争に関する完全な情報を日本国民に与へるやう布告した。今や日本国民が今次戦争の完全なる歴史を知る事は絶対に必要である。日本国民はこれによつて如何にして敗れたか、又何故に軍国主義によつてかかる悲惨な目に遭わねばならぬかを理解することが出来よう。これによつてのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識を気力を持ち得るのである。かかる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件を取扱つた特別記事を提供するものである。』





またこれは朝日新聞だけではなく、
(読売新聞、昭和20年12月8日)

その他の全国紙も同じです。


そしてこの様な事がいくら占領政策とはいえGHQ単独の力で出来るかというと、それは不可能です。
つまりこれに協力した日本人が、日本人を裏切った日本人がいたという事です。

そしてその事で、「日本人を裏切った日本人」が国の要職に就くようになり、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、GHQの占領政策が終わり、日本が再び独立国として立ち上がったものの、その「日本人を裏切った日本人」達が国の要職の中にいて、日本人を裏切った事、国を売った事について一言も話す事もなく現在に至っているのです。

日本人でありながら日本人を裏切り、その事で現在の地位、生活を築いている者。

それを「敗戦利得者」と呼びます。

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