再び野根山街道に向かう。
目的は前回引き返した四郎ヶ野峠の手前2.7キロ地点まで歩く事。
そして途中にあった「具同寺」の分岐に向かって進むことであった。
結果としてその分岐から「具同寺」方面に進む事は出来た。
分岐からのその方面に向かう杣道、いやいやもはや獣道とも言えるその地形を少しだけ進むと、本来の「道」に復帰し、その先は続いていた。
分岐付近から周辺で行わわれている「林業」の現場からの機械音が聞こえ、決してそこが現在決して誰も足を踏み入れる事のない地域ではない事!!は分かった。
しかしだからと言って、それが人間の行動範囲と同調する訳もなく、、、
そしてそもそも「具同寺」とは「寺」なのか、「地名」の事なのか、、、
ーーーーーーーー
改めて野根側から街道にむかう!(5月25日)
四郎ケ野峠は野根から少し北川村に入った場所にある
具同寺の分岐に向かう
花折峠
五代の崩(ずっと杖と思っていた件)
四郎ケ野峠から2.7キロ地点に約1時間で到着
ほぼ上り坂という事もあって歩行速度は時速2.7キロ
前回はここで米ヶ丘方面に引き返した
一里は約3.93キロ
そして目的地点に到着
ここまで2時間程だったので峠からの歩行速度は6.4キロ
また、段ノ谷から1.5キロの場所。
どうやらここは佐喜浜小学校段分校跡から登ってきた場所のようである。
四国森林管理局の資料
https://www.rinya.maff.go.jp/shikoku/policy/business/route_map/0906dannotani.html
看板の指す方向に向かう。
やがて、それが杣道と認識すべし跡は林業のワイヤーのある場所に繋がり
その先は完全に「道」
これが地図にある「破線」の「道」だろう。
ラベルの風化したオロナミンⅭが落ちていたり
リポビタンⅮが落ちていたり
また道は植林の間隔からそこを「道」と判断し進むべき区間もあったりするが
野根山街道と同格の「道」が存在
昭和の時代、ここは地元の多くの人々の知る場所だったのかもしれない
ネットが張られているが、それはほんのこの辺りだけ
軽く迂回すると道はその先に繋がっている
しかし正確な情報がない状況下では深入りは危険な、そんな場所である
具同寺は「場所」なのか「地域」なのか・・・・・
段ノ谷から具同寺分岐に進む次期作戦の発動を満たす条件が揃うまでは、まだ少々時間が掛かりそうだ。
ーーーーーーーーーー
峠に戻り、次の目的地に向かう
それは別役にある「池」だ
しかしそれは
実は「池」ではなく、またこの農業に利用する水源施設でもなく、地元の業社が砕石を掘削した跡との事だった。
しかもそれは明治大正昭和の時代の話ではなく「平成」の時代に入っての話だそうで、
武漢肺炎全盛の5月末期に初対面同士の地元の方とのノーマスクの会話が成立してしまった。
そしてまた、この掘削跡は雨が降れば半分ほど水が溜まるが決して満水になる事はなく、すぐに水が引くそうで、そのある地域の業者の作業跡が地形としてネットの地図に反映されているという事は、現在のネットの地理院地図のベースが平成初期に作られたという事、そして当時の地図の作成過程の一面を物語っている。
また道として記載されている線も、このような川底にコンクリを敷いた場所であったりして
ネットの地理院地図をそのまま鵜呑みにして行動すると予想外の展開になってしまう事も多いが、
だからこそお宝に辿り着く重要な記載であったりもする訳である。
ーーーーーーーーーーーーーー
また明治昭和の時代の地理院地図によると街道は四郎ケ野峠ではなく、この別役を通っているが、
それがその後の昭和の時代から四郎ケ野峠を通る事になっている。
ーーーーーーーーーーー
「野根山街道」、そこは定期的に「お殿様御一行」がお通りになられた道。
それ故、そこには多くの必需品が揃えられ、そろを支える物流が存在し、当然そこにはそれに携わる人々がいて、「仕事」があり「給料」が発生し、人々の「安定した」、そして「豊かな生活」があった。
目的は前回引き返した四郎ヶ野峠の手前2.7キロ地点まで歩く事。
そして途中にあった「具同寺」の分岐に向かって進むことであった。
結果としてその分岐から「具同寺」方面に進む事は出来た。
分岐からのその方面に向かう杣道、いやいやもはや獣道とも言えるその地形を少しだけ進むと、本来の「道」に復帰し、その先は続いていた。
分岐付近から周辺で行わわれている「林業」の現場からの機械音が聞こえ、決してそこが現在決して誰も足を踏み入れる事のない地域ではない事!!は分かった。
しかしだからと言って、それが人間の行動範囲と同調する訳もなく、、、
そしてそもそも「具同寺」とは「寺」なのか、「地名」の事なのか、、、
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改めて野根側から街道にむかう!(5月25日)
四郎ケ野峠は野根から少し北川村に入った場所にある
具同寺の分岐に向かう
花折峠
五代の崩(ずっと杖と思っていた件)
四郎ケ野峠から2.7キロ地点に約1時間で到着
ほぼ上り坂という事もあって歩行速度は時速2.7キロ
前回はここで米ヶ丘方面に引き返した
一里は約3.93キロ
そして目的地点に到着
ここまで2時間程だったので峠からの歩行速度は6.4キロ
また、段ノ谷から1.5キロの場所。
どうやらここは佐喜浜小学校段分校跡から登ってきた場所のようである。
四国森林管理局の資料
https://www.rinya.maff.go.jp/shikoku/policy/business/route_map/0906dannotani.html
看板の指す方向に向かう。
やがて、それが杣道と認識すべし跡は林業のワイヤーのある場所に繋がり
その先は完全に「道」
これが地図にある「破線」の「道」だろう。
ラベルの風化したオロナミンⅭが落ちていたり
リポビタンⅮが落ちていたり
また道は植林の間隔からそこを「道」と判断し進むべき区間もあったりするが
野根山街道と同格の「道」が存在
昭和の時代、ここは地元の多くの人々の知る場所だったのかもしれない
ネットが張られているが、それはほんのこの辺りだけ
軽く迂回すると道はその先に繋がっている
しかし正確な情報がない状況下では深入りは危険な、そんな場所である
具同寺は「場所」なのか「地域」なのか・・・・・
段ノ谷から具同寺分岐に進む次期作戦の発動を満たす条件が揃うまでは、まだ少々時間が掛かりそうだ。
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峠に戻り、次の目的地に向かう
それは別役にある「池」だ
しかしそれは
実は「池」ではなく、またこの農業に利用する水源施設でもなく、地元の業社が砕石を掘削した跡との事だった。
しかもそれは明治大正昭和の時代の話ではなく「平成」の時代に入っての話だそうで、
武漢肺炎全盛の5月末期に初対面同士の地元の方とのノーマスクの会話が成立してしまった。
そしてまた、この掘削跡は雨が降れば半分ほど水が溜まるが決して満水になる事はなく、すぐに水が引くそうで、そのある地域の業者の作業跡が地形としてネットの地図に反映されているという事は、現在のネットの地理院地図のベースが平成初期に作られたという事、そして当時の地図の作成過程の一面を物語っている。
また道として記載されている線も、このような川底にコンクリを敷いた場所であったりして
ネットの地理院地図をそのまま鵜呑みにして行動すると予想外の展開になってしまう事も多いが、
だからこそお宝に辿り着く重要な記載であったりもする訳である。
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また明治昭和の時代の地理院地図によると街道は四郎ケ野峠ではなく、この別役を通っているが、
それがその後の昭和の時代から四郎ケ野峠を通る事になっている。
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「野根山街道」、そこは定期的に「お殿様御一行」がお通りになられた道。
それ故、そこには多くの必需品が揃えられ、そろを支える物流が存在し、当然そこにはそれに携わる人々がいて、「仕事」があり「給料」が発生し、人々の「安定した」、そして「豊かな生活」があった。