ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

午前中は通所リハビリ。㋂最後。

2016年03月28日 | 日記
○7時10分起床、起床時室温13℃。夜中3時に目覚めて以降、寝付かれず。夢に英語とフランス語が登場した。書きことばで。久しぶりにパリ・コミューンの議事録を紐解いたせいか。
○ゴミ出し。歩みはそう重くは感じられないが、左脚膝が「蝶番がさび付いたような感じ」でぎしぎしと動くような覚え。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ。今日は3月の最後の日。昨年の4月7日から通い始めて1年。宿泊の小旅行と風邪で休んだほかは元気に、明るく通うことができました。
 いつものようにコーヒー淹れから始まった。自転車漕ぎ30分、6キロ半近くの走行距離。その後全身マッサージ、平行棒のところで少し歩行訓練、あたたか姫、再び歩行訓練、そして皆さんとご一緒の脚機能訓練たいそう、整え体操。
 終わったところで、通所仲間のご婦人Kさんから、折り紙作品(添付写真)を頂戴した。「ありがとうございます。これで、折り紙の宝物を2つ、いただいたことになります。」とお礼を申し上げたら、にこにこと笑みを浮かべてくださった。


○2時から、ケアマネージャさんをコアにして、通所施設〔粋生倶楽部増尾〕、福祉器具貸出機関,それにわが家族で、4月からの支援の具体方針について検討をしていただいた。これまで通り、週2回〔月、土〕、通所デイサーヴィスを受ける
○介護用品で貸出を受けているのは立ち上がりバー。布団から起きて立ち上がるとき、エイやっ!というやり方ができないばかりか、自力で起き上がるのさえ困難であった昨年の今頃であった。そのため立ち上がり補助のために使用している。今では、使わなくても起き上がることができるときもあるが、基本的には無ければ少し困る。たったそれだけの利用に止めているのではなく、実利的利用では、バーとバーの空間に朝食用のシリアル食品を保管する空間としているし、非常用の乾電池も置いている。
 午後の話し合いの時に、立ち上がりバーの利用についてが話題になったので、歩行訓練の支えにバーを利用している、と言ったら、皆さん驚いた顔をされた。要は、施設利用で熱心に機能訓練をしていても、家に帰ったら何もしない方がほとんど、ということらしい。ケアマネージャーさんに💮をたくさんいただいたのだが、自宅でも機能回復訓練しなきゃ、年齢的には体力がどんどん後退していくのだから、せめて後退のスピードを遅らせなきゃだめだと思っているから、と申し上げた。
 ただ、「腕や足をもいでしまいたいような身体苦痛に襲われるときがたまにありますが、そのようなときには、このバーで首を吊る人がいることが理解できます。」とつぶやいてしまった。申し訳ないと思いつつ、精神状況がつねに健康であるわけではない、ということもお伝えしたかった。


○【パリ・コミューン②】
 フランス時間1871年3月28日午後9時、パリ市民の選挙によって選出されたパリ市議会議員がオテル・ド・ヴィルの議事堂に結集し、初の市議会が開催された。歴史的な記念日となる。
 市議会議員の定数(被選出者数)はパリ全20区90名。ただし、フランス各議会は複数の議会議員の兼職可を原則としていたので、被選出者数は83名であった。内、獄中にある者もいる。
 重複区選出議員は実数で5名。彼らがトータルで12議席を獲得している。それぞれが何らかの形で、職人・労働者、主として新興労働者階級を組織・結集しようとした社会主義運動のリーダーを務める者であり、組織的な投票行動がなされていた。ほとんどがナポレオン三世の下命によるパリ大改造によって誕生した新しい区内に居住する民衆たちが下支えをしていた。これまでのほとんどの「パリ・コミューン」論は、こうした事情を主論とするものであった。つまり、パリ・コミューンは新興の賃金労働者による革命的行動であった、と。
 ちなみに、5名の重複区議員と被選出区は、ヴァルラン(6区、12区、17区)、トゥルスクリューズ(11区、19区)、テズ(12区、18区)、クレマン(15区、17区、18区)、ブランキ―(18区、20区)である。なお、クレマンとは、あの「サクランボの実る頃」のJ.-B. クレマンである。
 1850年代以前のパリを旧パリとしてこの選挙結果を見ると、明らかに、旧パリを支える人々と新興パリを支える人との意識や行動に大きな落差がある。旧パリを支えていた人は、主として、徒弟制度(下級職人が職人親方と衣食を供にする職業-生活様式)によっており、新興パリを支えた人たちは、主として、賃金労働者しかも機械的労働によっている人たちだった。
 その点を踏まえて「パリ・コミューン」をとらえなければならない、というのが、拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2016年)の叙述の基本姿勢である。
 さて、この日の出席者実数は59名。非常に低い出席率だと言える。低い出席率はこの日だけに限らなかったのだが、それは、議員間の「パリ・コミューン」そのものの性格(本質)認識、とりわけ、フランス共和国政府と自治体としての首都パリとの関係認識の差異という問題が、底流に横たわっていたからである。
 政府直轄から離れて、パリが、自治共同体としての首都であることは、国家的な認識にはなっていたが、政府は、プロイセンとの戦い(普仏戦争)の渦中にあることを理由にして、パリの自治的自立を認めていなかった、という問題に対する認識の問題、と言えばよいか。
 とにかく政府直轄から離れるべきだ、という主張が合意点であったとしても、政府と対立してまでそうあるべきかどうかということについては、議論が多々為される。
 パリ・コミューン議会内では、これは「国会議員とパリ市議会議員との兼職」の問題として議論され、兼職禁止の流れが太くなっていく。「国会議員」の辞職を表明する者もおれば、「パリ市議会議員」の辞職を表明する者もいる。議会初日から、議会に対して辞表を提出する、という光景が見られたのである。
 深夜12時に第一回議会は閉会。閉会時に、全員起立し、「フランス共和国万歳!ラ・コミュヌ・ド・パリ(パリ市)万歳!」を全員で唱和している。