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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン「第二の誕生」への直接の誘因

2018年08月18日 | 研究余話
 「7月革命」が成し遂げられ立憲王フィリップが王座に就いた日、パリ市庁舎ならびにパリ市内に、次のようなポスターが張り出された。

「約束された子たち、汝らに栄光あれ!汝らに過去はない。だが、英雄的な献身と共に、汝らは、秩序、すなわち生み出さねばならない組織を、無視している。というのも、汝らは、一方で戦い、破壊しながら、その一方では、未だ、団結し、創ることができないでいる。封建制度は、やがて、あらゆる生得的特権が例外なく破壊された時に、死ぬだろう。そして誰もがその能力に応じて位置づけられ、その労働に応じて報いられるだろう・・・。」

 すでに共和主義の立場にあることを宣言していたサン=シモン教の、二人の「至高の父親」バザールとアンファンタンの共同声明であった。闇雲に路上で戦っていた時は、セガンは、現状打破を強く念じていた。だが、打破したその次を明確に見定めていたわけではない。が、ポスターにはそれが示されている…。

映画 The Return of the Native  日本語訳本「帰郷」トーマス・ハーディ作

セガンの「第二の誕生」への気づきのあった時のこと

2018年08月17日 | 研究余話
 エリート街道ひた走り人間が、突如として、その道とは別の道を選んでいる。具体的には、グランドゼコール予科〈特級コレージュ〉サン・ルイ校での就学の痕(18歳児は明確に記録確認できる)に続いて1830年11月に法学部に学籍登録をしている、ということだ。信頼されていたフランスの研究ではこれが1832年とされていたから(ぼくが知りえた時は2003年夏)、予科の課程終了を待って法学部に進んだと思っていた。グランドゼコールに行って高級専門職(例えば軍人)に就くのではなく、法律関係者になる決意をした、ということなのだろうと考えた。しかし、2005年3月に法学部在籍を示す学籍簿に触れた時、法学部登録は1830年11月であることを知った。先の論は破綻する。これは何なんだろう。少し考えを深めて2005年5月に活字化した。清水先生のお祝いの会(2005年7月2日)の基調レポート用に「セガンの秘密」というタイトルにまとめた一つの視点とした。清水先生の怖ろしいほどの剣幕にあうことになるとは、夢にも思っていなかった。それ以来ぼくは、心の中に秘めながら、言葉化することをためらい続けたのだった。

セガン論公刊事情が内容 ちょっと感傷的リアリズム

2018年08月16日 | 研究余話
 ぼくのセガンに関する最初の単著の原稿表題は
「孤立から社会化へ~白痴教育の開拓者エデゥアール・セガンの半生」
 である。「自立」論を意識していた。セガンと白痴の子どもたちのそれ。
 研究の入門期からしばしば衝突をしていたHS先生が原稿をお読みになり、出版の意義があると、版元となる新日本出版社の編集者に持ち込んでくださった。2週間ほど時を置いて、「出版の意義がある」と編集者の判断がなされると同時に、いろんな条件が付けられた。

1.作者はまったく知られていないので、作者名での商品にはならない、と、販売方からクレームがつくだろう。 ぼく「仰せの通りですね。」
2、どの領域に売り込むかという戦略から言って、障害児教育領域がターゲットでしょう。 ぼく「はあ・・・」
3.タイトルの主題と副題を入れ替えたいですね。 ぼく「はあ・・・」
4.白痴は差別用語ですから、使用するには問題があります。知的障害としてください。 ぼく「等号で結びつく概念ではないと思いますが。専門用語として使用することも好ましくないのですか?」
5.その通りです。 ぼく「じゃあ、「知的障害」に<イディオ>とルビを振ることができませんか?「知的障害」という概念からは「孤立」が想起できませんが、白痴のヨーロッパ語idiotはもともと「孤立した人」という意味から出発していますので。」 答え「ルビを振ることは可能です」

 公刊著書標題は『知的障害<イディオ>教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』と定まった。これで、セガン自身の「自立論」というぼくの主張は完全に後退した。公刊なって、「何でお前が障害児教育なんだっ!」「ぼくもこの春から知的障害学級を受け持ちます」などなど、一番恐れていた反応が多かった。
 ただお一人、セガン研究の世界的秀逸氏が、ぼくの「セガン研究」の中に、それまでの生活綴方研究に向かう問題意識と方法とを見抜いてくださり、「だからこそ、セガン(のフランス時代の叙述)ができたのだ、障害児教育研究分野では成し遂げられなかったことだ。世界的な評価を受けるだろう」と、フランス教育学会誌で書評してくださった。
 何度吐いたかわからないほどの、史料探索の旅途中の血反吐、論理思考過程でのHS先生との軋轢による血反吐も、報いられた、と思った。

 今は、この書をリライト作業中。「セガン第二の誕生」との章を、迷わず明記している。

ひと騒ぎが終わって――

2018年08月15日 | 研究余話
 研究指導を求めた姿勢を一応見せた女子院生のセガン研究の課題って、いったい何だったんだろうなあ。

 フランス留学前に綴られたブログでは、知的障害教育史の学習でセガンを知り「セガンの著書を原書で読みたい!」と意気込んでいたけれど、原書から何を学びたかったのだろうなあ。
 セガンのフランス時代を代表する書物で、現在でも手に入るのは、1846年の700頁余の分厚い本。活字起こしで再版されている。教育書というより医学書、医学臨床例書。そして無規律に並ぶ時代文化生活教育事例、怨念がこもるかの強烈な言葉。自己経験を一般則であるとする悪癖もある。
 全頁翻訳はなされていないから、自力フランス語力と医学等専門用語、同時に時代文化論の理解がないと、そう簡単には読み通せないだろう。
 
 きっと読んでいないに違いない、などと思うのは失礼千万かもしれないけれど、名前がいくつも通称されているからキモイ、というだけで投げ出してしまった時期もあるから、セガンにかかわってきた者としての実感。
 面白そー、知的障害の発達の可能性を切り開くってどんなんだろう、という覗き込みだけでは太刀打ちできないだろうなあ、きっと。

研究継承なるか?(2)(3)

2018年08月14日 | 研究余話

 「熱意」とやらは信じないたちなので、いろいろと、おそらく「若手研究者」にとっては迷惑千万な条件と「関門」を、設け、パスしたら受諾する旨を返信した。

①発表するであろう関係論文の謝辞に川口の名を一切入れないこと。入れればそれだけで信用を無くす。
②以下添付した写真を数葉取り上げて、セガン研究にかかわらせて、簡潔に述べること。




③「歴史研究は先行する研究者の足跡を忠実に追いながら、重ね歩き、そのうえで、独自の道を開拓すること」。これは小生が学生時代に受けた叱責です。なぜ叱責を受けたか、わかる範囲で綴りなさい。


奴さん、真剣に頭を抱えているらしい。で、以下のように「まじめに」返信してきた。その要旨。

①は指導教授と相談のうえで先生のご要望というか、ご指摘にお答えしたいと思います。意外や、我らの世界は封建的というか、指導者絶対なので、ご理解ください。
②はほとんど分かりません。セガンの肖像画を使ったポスターのようなものは何となくわかります。
③「人の受け売りするな」「自分で調べることを柱とせよ」ということでしょうか。

ぼくの回答。
貴君が小生のセガン研究の成果の何物をも学んでいないことが露呈されましたね。②は幻戯書房から2014年に上梓した「セガン」論の中で紹介した原典コピーや絵画写真です。それぞれの意味については、是非、拙著で確かめてください。

追伸:一般論ですが、他人様の知恵をお借りする場合、その他人様がどういう知識を持ってきたか、いるかについては、おおざっぱにせよ、押さえてからにしましょう。
 おせっかいはこの辺で終わります。ご活躍を。

セガン研究の継承なるか?(1)

2018年08月13日 | 研究余話
またまたセガン話 今回は研究継承なるか?(1)

 めったに開かないメールボックスを開いたら、クズメールがたくさんの中に、1通だけ、「ご指導ください」とタイトルされていたのがあった。 ん? オラ、隠居の身でよー、茶飲み話相手なら歓迎だけんど・・・
 某大学の大学院前期博士課程在籍で障害児教育史をプロパーとしている、ついては、指導教授X先生から紹介を受け、セガンに詳しいお前にいろいろと指導を受けたい、たのんまっさ、という内容。言葉使いはバカていねいだが、ぼくには前記のように伝わる書き方だ。まあ、今どきの人だなー。こちらのことに思いをやる余裕も教養もない、要件のみ。
 さっそく、「セガンで大学で教えたこともなく、セガン研究の世間様からは斜視で見られているような小生ですので、貴君を指導申し上げるような力量がございません。あしからず。」と返信した。断念してくれればこれほどうれしいことはない。
 が、敵もサル者引っ掻く者、すぐさまリターンメールが届けられた。(続く)

(フランス)1848年普通選挙法 

2018年08月10日 | 研究余話
1848年(男子)普通選挙について
臨時政府は憲法制定国民議会を発足させるために、次のような政令を布告した。「男子普通直接選挙」を初めて成立させた歴史的な政令である。なお、政令の公布の日は1848年3月5日であるが、決定は3月2日である。
共和国の臨時政府は、
人民の利益に適い人民の命ずるところによって執行する権力を、できるだけ早く、確定政府の手に委ねることを望み、
  布告する:
第 1 条 憲法を発布する義務を負う国民議会に人民の代表者を選挙するために、来る4月9
日、カントン(小郡)の選挙集会が招集されることとする。
第 2 条 選挙は人口を基盤に応じてなされることとする 。
第 3 条 人民の代表者の総数は900。アルジェリアおよびフランス植民地を含むこととする。
第 4 条 代表者は別記一覧に配分された割合で各県に配分されることとする 。
第 5 条 選挙は直接かつ普通に行われることとする。
第 6 条 有権者は、21歳以上、コミューンに6か月以上居住しているフランス人で、市民権執行が司法上剥奪されていたり停止されていない者とする。
第 7 条 被選挙資格者は、25歳以上のフランス人で、市民権剥奪または停止のない者とする。
第 8 条 投票は無記名とすることとする。
第 9 条 すべての有権者はそれぞれのカントンの役場所在地で、列記投票によって、投票することとする。
 投票用紙には県で選ばれる代表者と同数の名前が記載されることとする。
 選挙開票はカントンの役場所在地で行われ、県で集計されることとする。
 2000票に届かない場合には、人民の代表者として選出され得ないこととする。
第10条 それぞれの人民の代表者は、会期中、一日当たり25フランの手当金を受け取ること
とする。
第11条 臨時政府の教書が本政令の執行細目を取り決めることとする。
第12条 憲法制定国民議会は4月20日に開かれることとする。
第13条 本政令は諸県に発送され、共和国のすべてのコミューンにて公示されまた掲示されることとする。
パリ、政府評議会において決定された、1848年3月5日。     (署名者略)

注記
有権者の原語はélecteurである。忠実に訳出するならば「男性有権者」ということになる。ただ、この時代にはまったく女性に権利付与が為されていないから、女性有権者を示すélectriceという単語はなかったと考えられる。

1848年2月革命とセガン

2018年08月09日 | 研究余話
 エデュアール・セガンが何らかの政治的活動に関与していたのではないか、ということは、セガン葬儀の席で披露されたL.P.ブロケットによる弔辞が嚆矢である 。ブロケットは人的関係性を取り上げて説明している。彼に続いて、ブルヌヴィルは、編集に携わったセガン著作書のフランス語翻訳版の「まえがき」のなかで、セガンの業績紹介を文献的に行い、「1848:政治的声明(1848 : Proclamation politique.)」との表題で、Séguinの署名入りポスターが存在することを紹介している。声明文は全文が、署名者はセガンを含む数名が、示されている。署名者は他にいることはetcの文字で理解できる 。次にポスター内容(本文)と、記されている署名者を記しておこう。
「不断の警戒、見識ある愛国心、断固とした犠牲的精神、それらは臨時政府を動かす感情であり、それらは共和政が求める感情である。そうした感情を持つが故に、よきすべての市民はなんと臨時政府を支援することか!
1830年の争奪戦の数々の記憶が激しい欲望を蘇らせた。その欲望は緊急に抑制されなければならない。すでに、悪賢い奴らは、大いに妄想あるいは術策をもって、ほとんど受けるに値しないにもかかわらず、任命された。奴らは宗教を利用して政府に取り入った。政府にそのことを明らかにしてやるには、今が絶好の時である。
臨時政府が悪い方へ悪い方へと転がっていくのを阻止するために、数多くの信頼できる市民は、澄み切った心で持ち続けてきた愛国心の助けを求める責を負った委員会を、選出した。献身的な市民は、かつてないほど緊密に同盟を結ぶ必要のあることが、分かるだろう。共和政の救済はそれらの同盟にこそよっているのだから。
このアピールは数多くのパリの愛国者のみでなく、全フランスの愛国者たちに発せられている。政府は、相も変わらず勝利の翌日に出没するこれらの猛禽どもの素性を明らかにしなければならないし、フランスが新しい専制君主政になり続けることから免れるようにしなければならない。これがアピールの内容だ。
市民ソブリエは加盟を受け付けるための代表に選ばれた。ソブリエは、ブランシュ通り25にある警察省の前人民代表である。」
ポスター標題は「共和政の防衛を信頼できる すべての愛国者に訴えるために設立された委員会」(以降、本稿では、単に「委員会」と略称することとする。)である。このポスターはどのような状況の中で出されたのだろうか。ブルヌヴィルが抜き出して添えた署名者は、バルべス、ルシェ、フェリックス・ピア、トレ、ヴラベル、A. ルルゥ、そして、エデュアール・セガン。ブルヌヴィㇽはセガンのみに肩書「文学者(homme de lettres)」を添えている。

再び、「ある日どこかで」英語字幕入り 左耳に音が入る心地よさ

セガン「亡命」説への挑戦(3)

2018年08月08日 | 研究余話
 セガンはナポレオンによる政治的抑圧から逃れるために「亡命」した、と言われた。1848年、1850年、1852年という年がその候補として記述されてきた。まだ、パスポートが「発掘」されていない時期なので、そのどれであってもおかしくない、そんな政治状況だ。
 私なりにあれこれ頭をこね回し、体をあちこち運び、もし「亡命」が本当だとしたら、このポスター書名の事実が有力であろう、と考えた。2004年ごろだ。そのポスターというのは、激しい共和主義の立場で、政治状況を糾弾する内意を持つものである。ポスター前文の発掘は私の身であるので、これは誇るべき業績だと思っている。「セガンの関係する組織のポスター発見!」とのタイトルで、2004年10月に発表した。あまり反応はなかったのが、今思っても悔しいのだけれど。
 カトリック勢力が政治権力と結びつき、国民教化を強めようとしている唖政治状況に対する強い警戒を呼び掛けるもので、後の調査で、サン=シモン教徒や台頭しつつあった社会主義勢力、自由主義者、民主主義者の集団の宣言ポスターである。自室、署名者の中には、ナポレオンによって国外追放の処分を受けたものも少なくなく、含まれていた。
 「このポスターこそ、セガン亡命説の支えになるだろう」と、発掘投書は考えた次第である。

セガン「亡命」説への挑戦(2)

2018年08月07日 | 研究余話

 ナポレオンIII世による弾圧を逃れて亡命、ということが事実だとすれば、1852年以降でなければならない。この辺り、あいまいに語られることもあることを知ったので、1848年に大統領になって以降、というように、時期を広めて、カラカラとしか鳴らない頭を抱えて、考えた。そして動いた。何かの本に、革命を一緒に戦った仲間を追撃・追放した、とルイ・ナポレオン評に書いてあったからだ。
 とすると、セガン先生、1848年革命に立ち上がっていたのか?革命なって、共和政政治の、ある種、旗持ちをしていたのか?その史料は、あるんかいな?
 フランス史など勉強したことがないから、がらんどうの頭でも理解できるようなフランス近代史の本から勉強するしかないな…。「本家、セガンは、どこ行った!」
 まあ、暇っちゃ暇だわさ…。  だんだん情けなくなるなぁ。(続)