背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

平山亨さんを偲ぶ

2013年08月06日 18時01分59秒 | 雑記
 7月31日に亡くなった平山亨(とおる)さんのことを書く。
 平山さんからお聞きした話はたくさんあるが、テープに録音もせず、また、それについて文章も書いていただかなかったので、私が記憶しているだけである。本当に惜しいことをしたと思っている。今は平山さんのご冥福をお祈りするばかりなのだが、四、五年前に聞いた話で、ともかく覚えていることを書き残しておきたいと思う。
 平山さんに初めてお会いしたのは、5年前の2008年7月、北千住の天空劇場で催された無声映画鑑賞会だった。第600回の記念上映会で、「生誕110年 伊藤大輔、内田吐夢、そして大河内傳次郎」と題して、『人生劇場』と『御誂治郎吉格子』(弁士は澤登翠さん)を上映したホールのそのロビーであった。脚本家の石森史郎さんに平山亨さんを紹介され、上映終了後、北千住の蕎麦屋で夕食をいっしょに食べ、そのあと、喫茶店で1時間半ほどいろいろなことを話した。あの時は、平山さんがまだ左半身(右半身だったか?)が不自由で、一人で歩くのが困難だったので、漫画研究家の本間正幸さんが付き添っていた。天空劇場から駅前の商店街まで一歩一歩ゆっくり歩いた。平山さんは、脳出血で倒れて、リハビリして復活したとおっしゃっていた。 
 私はその頃、中村錦之助の映画ファンの会を立ち上げたばかりで、2009年の十三回忌を前に「錦之助映画祭り」を企画中だった。私が平山さんに興味を覚え、平山さんのお話をいろいろ伺ったのは、「仮面ライダー」のことではなく、ほとんどが東映京都時代のことである。おそらく平山亨さんというと、「仮面ライダー」の生みの親の一人として有名で、ライダーファンからいろいろ質問攻めにあっていたようだし、その辺の話は多くの人がインタビューし、書き残しているかと思う。私は仮面ライダーの世代ではなく、ファンでもないので、私の質問はもっぱら、平山さんの助監督時代(つまり無名時代というか、下積み時代)のことに集中した。平山さんは、私のことを多分ずいぶん昔のことを訊くヤツだなと思ったにちがいなく、また「仮面ライダー」の話は平山さんも話し飽きていたと思うので、東映京都時代のことを楽しく話してくれたのだろう。
 平山さんとは初対面のあと、狭山のご自宅へ二、三度電話して、かなり長話をした。なにしろ平山さんという方は大変な話好きで、話し出したら止まらない。一回電話すると、最低一時間は話す。その後、私が「錦之助映画祭り」に際して「一心錦之助」という記念本を編集する頃に、平山さんの自宅へ電話すると、何度かけても不通になった。あれは確か、2009年の1月だった。実は、平山さんには記念本に文章を書いてもらうようお願いしてあり、平山さんも快諾していた。それが当のご本人が行方不明である。また入院でもなさったのだろうか、万が一のことがなければ……と心配していた。
 平山さんと再会したのは、2009年の秋だった。調べてみると、10月24日(土)。西日暮里に出来た戸野広浩司記念劇場の開館セレモニーでのことだった。戸野広浩司というのは、テレビ番組「快傑ライオン丸」(1972年)でタイガージョー役を演じて一躍人気者になり、同年25歳で事故死した若手俳優である。私はそんなこともよく知らないまま、石森史郎さんとダテ企画の伊達さんの両方から誘われて、行くことになったのだが、そこに主賓として平山さんが見えていた。その時、平山さんが新狭山の駅の近くのマンションに引っ越したことを知ったのだった。開館公演が終って、私は西日暮里の鮨屋へ平山さんを誘って、二人だけで二時間ほど話した。帰り際に大雨が降ってきて、平山さんを見送ったのを覚えている。
 
 平山亨さんは、東大文学部美学美術史学科を卒業後、昭和29年(1954年)に東映に入社した。大学学科とも私の大先輩である。生まれは昭和4年で東京出身(実際には名古屋生まれらしい)と聞いたが、お父さんが鉄道省に務めていたので、あちこち転居したようだ。成蹊高校から東大に入ったとのこと。
 平山さんが入社した頃の東映は、製作部に東大出身者がほとんどいなかった頃で、昭和28年正月に『ひめゆりの塔』が大ヒットしたものの映画会社としてはまだ二流だった。昭和29年からは少年向きの東映娯楽版が始まり、東映も発展を目指して新入社員を多数募集。平山さんは子供の頃からチャンバラ映画が好きで、講談社の少年倶楽部を愛読していたこともあって、東映に入社すると、時代劇の東映京都を希望し、助監督部に配属される。
 そこで、最初に製作にかかわったのが『笛吹童子』(三部作)だった。監督は萩原遼、チーフ助監督は小沢茂弘で、平山さんはサードかフォースの監督助手だった。一番下の、ほとんど使いっぱしりのような身分で、平山さんの話では目が回るほど忙しかったという。
 『笛吹童子』の大ヒット以降、東映の大躍進が始まるわけだが、平山さんの長い助監督時代もここからスタートする。錦ちゃん(中村錦之助)、千代ちゃん(東千代之介)、扇ちゃん(伏見扇太郎)、そして大友柳太朗主演の童子物や少年向き娯楽版などの製作に平山さんも参加。平山さんが東映の大御所・松田定次監督に師事するようになったのはそれからしばらく経ってからのことで、松田定次、松村昌治、そしてその下に平山亨という師弟関係が出来上がる。松村昌治氏が監督に昇進したのは昭和31年の『日輪太郎』からで、彼は中山文夫の名で松田監督作品の脚本も手がけるようになる。沢島忠氏が助監督時代、その下の助監督が平山さんということも多かったようだ。沢島監督の第一作『忍術御前試合』では、最初平山さんが助監督として手伝ったそうだが、途中で迷惑をかけ交替したという。
 平山さんが結婚したのは昭和32年で、お相手は松村昌治監督の妹さん(奥さんの妹さん?)だった。まだ、監督になれるかどうかも分からない頃に結婚したのだから、大決断だった。結局、9年半の助監督時代があり、その間、サード、セカンド、チーフ助監督と昇格して全部で百数十本の作品に関わったようだ。松田定次監督作品のほかにもいろいろな監督の手伝いをしたとのことだが、内田吐夢監督の『逆襲獄門砦』(昭和31年)にも助監督(サードかセカンド)で就いたと言っておられた。雪の中のロケ地(どこだったか場所は忘れてしまった)で撮影が大変だったそうだ。
 平山さんが監督に昇進するのは昭和38年9月で、『銭形平次捕物控』(里見浩太郎主演 同年10月公開)がデビュー作である。この映画にはお静役で入江若葉さんが出演している。湯殿か何かのシーンで若葉さんを脱がせようとしてイヤな思いをさせてしまったと平山さんが言っていた。監督作品は、この『銭形平次捕物控』と『三匹の浪人』(近衛十四郎主演、昭和39年2月公開)の二本だけで、それからまた助監督に逆戻りして、今井正監督の『仇討』(昭和39年11月公開)を手伝っている。この時は、今井監督の演出がなかなか決まらず、錦ちゃんが何度も演技をさせられるので腹を立て、平山さんが二人の間にはさまって苦労したという。
 その後、もう一本、『壁の中の野郎ども』(渡辺文雄主演)という映画を平山さんは監督するが、この作品はおクラ入りで、公開されなかった。平山さんの話では、この映画は実録物の現代劇で、牢獄の中の囚人を描いたヤクザ映画のハシリのような作品だったらしい。プロデューサーの中村有隣氏がこの作品が未公開になった責任を取って左遷されたとのこと。平山さんも間もなく東映東京に異動になる。それからテレビ番組の企画を担当するようになり、こうして平山さんの人生が転機を迎え、パッと大きく花咲くわけである。

 そのほかに、平山さんから伺った興味深い話を挙げておこう。
 テレビ番組の「仮面ライダー」が始まってしばらくした頃、恐れ多くも錦之助さんが悪役でも何でもいいから出演したいと言ってきたので、びっくり仰天したという。錦之助さんの息子が大のライダーファンで、「仮面ライダー」に出たらオヤジを偉いと認めてやるというので、出演依頼してきたらしいのだが、悪役は無理だし、錦之助さんの役を作るわけにもいかないので、平山さんが藤岡弘さんを連れて、藤沢の錦之助邸に伺って、謝ったそうだ。錦之助さんの息子は藤岡さんに会えて大喜びし、錦之助さんもオヤジの面子が保てて、満足した。
 「ゴレンジャー」は、歌舞伎の「白浪五人男」からヒントを得て作ったとのこと。
 
 平山さんと再会して間もなく、2009年11月の新文芸坐での錦之助映画祭り(パート2)には、平山さんが元子役の金子吉延さんを連れて、『宮本武蔵 巌流島の決斗』と『丹下左膳 飛燕居合斬り』を見に来てくださった。金子さんは、それぞれ伊織とチビ安の役をやっていて、金子さんが見たいというので、平山さんも付き合ってくれたのだった。打ち上げの会に、平山さんと金子さんを誘ったら、喜んで出席してくれ、錦ちゃんファンのみんなと歓談していたのをつい最近のことのように思い出す。
 その後、平山さんは、2010年夏、私が内田有作さんと新文芸坐で「内田吐夢の没後40年」を企画上映した時も、応援してくださった。同年11月、ラピュタ阿佐ヶ谷の「近衛十四郎特集」で平山さんが監督した『三匹の浪人』を上映した時に、平山さんといっしょに観た。幼い女の子が出て来るシーンでは平山さんが泣いていたのを覚えている。2010年12月、紀伊国屋ホールでの澤登翠さんの無声映画鑑賞会でお会いし、トンカツ屋へ行ってお話したのが、元気な平山さんと接した最後になった。
 2011年夏、新文芸坐での「昭和の仮面ライダー大集合」の上映会の時は、楽しみにしていた平山さんが病気で倒れてしまい、残念ながらいらっしゃれなかった。
 2011年12月には内田有作さんが亡くなり、2012年1月に中野サンプラザで行なわれた有作さんのお別れの会で、車椅子に乗った平山さんが見え、その時、握手したのが最後になった。
 
 平山亨さんは常に少年の純粋な心を持ち続けた人だった。少年の夢、冒険心、正義感、やさしさ、いたずらっぽさ……。平山さんは、子供たちが喜び、感動する作品の企画を絶えず考え、私が親しくさせていただいた晩年まで、いつも何か作りたいと言って、創作欲を燃やしていた。平山さんが企画について話す時のあの大きな目の輝きを私は決して忘れないだろう。


映画『少年H』

2013年08月06日 05時23分55秒 | 日本映画


 8月5日(月)、午後3時半より日比谷の東宝本社の試写室で新作の『少年H』を見る。なかなか良い映画だった。原作は舞台美術家の妹尾河童の自伝小説(戦前から敗戦後まで)で、監督は降旗康男。つい最近、高倉健主演の映画『あなたへ』を撮ったばかりで、それに続く作品だ。降旗監督はその前に何年かブランクがあって、もう映画は撮らないのかと思っていたが、喜寿(77歳)を過ぎてからの連作である。降旗さんとは二度ほど、ほんのちょっとだけ話したことがあるが、物静かで寡黙な人だった。四年前と二年前で、一度目は、池袋の居酒屋で酔っ払っていたことしか覚えていない。二度目は、内田有作さんのお別れの会でお会いしたが、ちょうど『あなたへ』がアップして編集中の頃だった。デジタル映像の編集は全部若い人に任せているとおっしゃっていた。
 さて、『少年H』。Hとは、妹尾河童の本名の妹尾肇(はじめ)のイニシャルで、ヘンタイのHとは無関係。映画の初めに、母親が手編みの真っ赤なセーターに大きくHの文字を入れたものを主人公の妹尾少年に渡して着せるシーンがあり、前半は少年がずっとこのセーターを着て登場するのだが、それが大変印象的だった。この映画は、ひと言で言えば、戦争中の家族愛を描いたもので、ヒューマンな作品として成功作と評価して良いと思う。
 妹尾少年の父親は、神戸で洋服の仕立て屋をやっていて、クリスチャン。母親もクリスチャンで、両親ともしっかりとした考え方を持つ人として描かれている。父親は水谷豊、母親は元キャンディーズの伊藤蘭が演じていた。二人とも良かったが、しばらく見ないうちに、老けたなあ!水谷豊は私と同年齢。ランちゃんは、二つか三つ年下だと思うが、なんだか夏川静江みたいになってきたと思う。(私がこの映画の伊藤蘭を夏川静江のようだと言うのは、大変な褒め言葉で、夏川静江は戦前は大スター、戦後は主に母親役を務めた名女優で、私が尊敬する大女優の一人である)
 私はこの30年間ほどの芸能界についてかなり疎いので、映画を見終わって、パンフレットを読んで知ったのだが、水谷豊と伊藤蘭は実際にも夫婦だとのこと。二人が結婚したことは、そういえば聞いたような気もするが、もうすっかり忘れてしまっている。水谷豊の最初の奥さんはアメリカ人だったと思うが、その後離婚して、ランちゃんと再婚したようだ。確かテレビドラマで共演したアメリカ人で、そのドラマを私はずっと見ていた記憶があるが、内容もそのアメリカ人の顔もすっかり忘れてしまった。私の脳細胞もどんどん死滅して、記憶がずいぶん喪失したようで、物忘れが激しい。芸能人の顔だけ浮かんで、名前が出てこないことが度々ある。(一年ほど前に青山のレストランで女性の芸能人を見かけて、その名前が一週間出てこなかったことがある。藤原紀香だった)。伊藤蘭は、キャンディーズの「ランちゃん」時代、私は好きだった時期もある。今でもカラオケの持ち歌の一曲は、彼女の歌った「小さな悪魔」、いや違う、「私の悪魔」だったか?「小さな悪魔」は確かニール・セダカのヒット曲で、ランちゃんがキャンディーズ時代、スーちゃんを押しのけて、メインボーカルになった記念すべきヒット曲は?といった具合で、ネットを調べて、この続きを書くといった羽目になる。その結果、「やさしい悪魔」と判明。それから、ランちゃんがメインボーカルを務めた最初の大ヒット曲は「年下の男の子」で、これまた勘違いしたのは、私のカラオケの持ち歌は「やさしい悪魔」ではなく「年下の男の子」だった。思い出せば、あれは確か昭和48年か49年だったと思うが、キャンディーズが売り出したばかりの頃、東大の駒場祭に出演したことがあった。パニックになるほどの大変な騒ぎで、ミーハー的な連中を馬鹿にして私は見に行かなかったのだが、その時ファンになった東大生が大勢いたのを覚えている。キャンディーズは大学の学園祭を回って、大学生の間で圧倒的な人気を博したが、人気の中心はなんと言ってもランちゃんだった。
 『少年H』の話に戻ろう。主役の妹尾少年を演じた吉岡君という子役が非常に良かった。妹役の女の子もうまく、この二人に、水谷豊と伊藤蘭が父母役となって、愛情ある良き家族を構成して映画が展開していく。初めの20分で映画の世界に引きずり込まれ、あとはところどころ感心しながら、またいくつかの場面で描き方に疑問を感じながら、映画を見た。二時間をちょっと超える作品だったが、決して長いとは感じなかった。全体的な印象は、良い映画で、見て満足のいくものだった。
 最後に、感心したところと疑問を感じたところなどに触れておきたい。
 妹尾少年が決していじけず、終始しっかりした男の子として描かれているのが大変良かった。周りの友達の描き方も陰湿でなく、好感が持てた。父親と母親のわが子に対する接し方もよく描けていた。ちょっと教科書的、模範的すぎるような気もしたが、水谷豊が噛んで含めるようにゆっくりと話すのはいいのだが、もっと彼の個性を出して、元不良少年が社会的に更生したといった面が現れるように演技してほしかった。悟りきったようで、落ち着きすぎていたのが、逆に人間的な魅力をなくしてしまったと思う。父親にも時々ガキっぽさが出る場面があれば良かったのにと感じた。ランちゃんも同じで、自分のポリシーを持っているのは良いのだが、控え目に演じすぎていた。時にはもっと強い母親になっても良かったと思う。感情的に抑えすぎているのだ。家庭内では、もう少し喜怒哀楽が出るのが普通だし、あんな平穏な家庭も珍しいのではなかろうか。
 パンフを読むと、降旗監督は、水谷豊と伊藤蘭には演技上の注文を出さず、二人に任せたらしいが、二人の個性を引き出すように演出するのも監督の役目ではなかろうか。父と子の場面で疑問に思ったところが二箇所あった。空襲で焼け野原となったあとに、生死の分からなかった二人が全焼した家の跡地で再会するシーン。一人佇む妹尾少年に父親がゆっくり近づいていくのだが、あそこはわざとそのように演出したと思うのだが、どう見ても不自然。セリフも変だった。息子が生きているのを見て、駆け寄るべきであるし、妻の安否をすぐに尋ねるべきだろう。折れたフォークが出て来たり、焼けたミシンを見せたりするよりも、もっと重要なことをおろそかにしてはダメだ。もう一箇所は、敗戦後、妹尾少年が自信を失くした父親を難詰する場面。水谷豊がずっと黙っているのだが、どうもこのあたりの父親の描き方が中途半端だった。
 この映画を見て、疑問を感じたり、不満を覚えたのは、すべて脇役のからむエピソードの場面だった。うどん屋で働くおにいちゃんが赤狩りで検挙されたり、入隊した女形の役者が脱走して首吊り自殺したり、特高に連れて行かれた父親が拷問されたり、中学の軍事教官が二人出て来て妹尾少年への対応がまったく違ったり、すべて登場人物が類型的で、リアリティを感じなかった。警察官の演技はひどすぎる。あれじゃ、東映のヤクザ映画ではないか。
 この試写会のハガキは岸部一徳さんの事務所アンヌフの佐藤さんからいただいたのだが、一徳さんの役は近所のオジサンで、つまらない役だなあと思った。『上京ものがたり』は、印象的な良い役だったが、『少年H』の役は、妹尾一家とのからみもなく、外野にいる傍観者にすぎなかった。『天地明察』の役もひどかったが、顔見世だけで出演するのは惜しいし、考えものである。

 夕方の5時半過ぎに映画を見終わって、久しぶりに銀ブラをした。新しい歌舞伎座を外から眺める。壁が新しくなって、全体的に白っぽく見える。建物の構えは以前と変わっていない。取り壊して、まったく違った感じの建物になるかと思っていたので、期待はずれだった。もう客足も少なくなったらしいので、今度、中に入ってみようと思う。晴海通りをそのまま真っ直ぐ歩いて、松竹本社ビルを眺め、勝どき橋まで行って、隅田川の日暮れ時の景色を楽しむ。潮のにおいがする。橋の上から眺めると、下流の方にも上流の方にも両岸に高いビルが立ち並んでいて、新しい東京を実感する。私は、進化するモダンな東京も好きだ。築地の鮨屋街を散策する。まだ三、四十軒の鮨屋が営業しているが、どこも中を覗くと、客の数はまばらだった。回転寿司のような安っぽい鮨屋には結構客がいたが、老舗の高級そうな鮨屋はガラガラのようだ。
 築地においしい玉子焼き屋さんがあったのを思い出し、探してみたが見つからず。店の名前も忘れてしまったのだから、分かるわけがない。
 明大前のツタヤで邦画のDVDを4本借りる。ジャス喫茶マイルスへ寄って、1時間半ほどジャズ鑑賞。リー・モーガンの若い頃のアルバムをリクエスト。ほかにジョニー・グリフィン、シェリー・マン、サラ・ボーンなどを聴く。11時頃帰宅。