背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『十三人の刺客』

2013年08月24日 05時59分21秒 | 日本映画


 リメイク版『十三人の刺客』(監督三池崇史)をDVDで観た。
 工藤栄一監督、池上金男(池宮彰一郎)脚本の『十三人の刺客』はこれまで三、四度見ているので、どうしても比較してしまう。オリジナル版はまた見たいと思うが、正直言って、リメイク版は一度見れば十分で、二度見たいとは思わなかった。リメイク版は現代風にアレンジしているが、残酷さとクライマックスの殺陣場面の長さと迫力を際立たせているだけで、感動とはおよそ程遠い映画になっていた。こういう作品はサムライ物のアクション映画と呼んだ方が良いのだろう。アメリカ人の監督でも作れるようなサムライ物で、本質的にはオリジナル版の『十三人の刺客』よりもハリウッド映画の『ラストサムライ』の方に近いように感じた。つまり、アメリカ人が描くサムライであって、日本人(戦前派ないし戦中派)が描く侍ないし武士ではない。
 リメイク版には時代劇のエッセンスが稀薄で、感じられなかった。武士が死ぬということへの美意識が欠如しているうえに、大義名分や忠誠心も描けていない。いや、作り手にそういったものを描こうという意図がなかったと言えるだろう。ストーリーは原作をなぞっているが、三池崇史という若い監督の関心はバイオレンス(暴力)とホラーにあるとしか思えない。前半のおどろおどろしさはとくに醜悪で、明石藩の暴君の残虐ぶりを執拗に描きすぎていた。手足を切り落とされた肉塊のような女を登場させる場面など、グロテスク極まりない。この暴君に嫁を手ごめにされ、息子まで殺されてしまった尾張藩の家老牧野のやり場のない無念さと命がけの報復こそ、『十三人の刺客』の前半の要所なのだが、リメイク版では残虐さを強調するあまり、この一番大切な場面がボケてしまった。それに、家老牧野を演じたのはオリジナル版では月形龍之介で、リメイク版は松本幸四郎だったが、月形の類稀な名演に比べ、幸四郎のあの重みのなさは何なのだろう。明石藩の行列を食い止め、暴君の前に立ちはだかる場面は見せ場のはずだが、気迫も何も伝わってこない。演出にも問題があったのだろう。幸四郎は『天地明察』にも出演していたが、こうした時代劇に出演する必要はないとしか思えない。老中役の平幹二朗も頼りなかったが、倉永左平太役の松方弘樹もわざとらしく、主役の役所広司が予想以上に良かったからこの映画が観られたものの、あとの俳優はテレビ時代劇のレベルにすぎない。
 今の邦画界で、昔のような時代劇を作れと言っても、監督もスタッフも役者も揃わない現代では無理な話なのかもしれない。時代劇が観たければ、戦前から昭和30年代終わりまでの時代劇を再見して満足するしかないのだろう。