嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

町の今昔 永峰大工さん宅の青石塔婆 長島喜平 1973年

2009年03月23日 | 嵐山町郷土史片々

   嵐山町郷土史片々13 永峰大工さん宅の青石塔婆
 菅谷から千手堂へ通ずる県道の南側に永峰音吉さんという大工さんの家がある。
 その入口に近年移された青石塔婆(あおいしとうば)が建っている。
 青石塔婆のことは、別称板碑ともいい、これは墓でないことを、はっきりおことわりしておく。
 こん日では、盆の供養や故人の回向(えこう)をしたしるしに、板で作った塔婆をたてる。
 青石塔婆(板碑)も、この板の塔婆と趣旨は同じで、供養したしるしに建てたもので、現今の塔婆は板のため、長い年月には耐えられないが、石の塔婆は、約八〇〇年もたった今日まで残っている。
 供養して塔を建てるのに二通りあって、一つは死者のため追善供養(ついぜんくよう)と、もう一つは、生存中、自分の来世のため極楽往生する様建てる逆修供養(ぎゃくしゅうくよう)の二つがある。板碑には、このことが刻んである。
 塔婆のことを梵語(ぼんご。サンスクリット語)でスチューバといい、今寺院等に残る三重塔、五重塔なども、この塔婆と同じことで、ただこうしたものは、財力や勢力のあったものが、建立したものである。
 青石塔婆に使用した石は、緑色なので青石といい、一名下里石、秩父石などと呼ぶが、緑泥片岩(りょくでいへんがん)というのが正しい。
 槻川(つきがわ)沿いの小川町下里(しもざと)付近や、荒川沿いの長瀞付近から、多く産出するので、下里石、秩父石などという。
 この石は、板状にはがれるのでこうした塔婆に利用されたり、比企西部一帯では、墓石に利用しているが、近頃は切り出されて、建築の装飾用材として鉄平石と共にその需要が大きい。
 昔は槻川や荒川を利用して各地に運ばれ、関東一円に青石塔婆の分布は及んでいる。(なお古くは古墳にも利用されている)
 永峰さんの処の青石塔婆は、高一七〇センチ、上方巾四〇センチ下方巾四六センチで、下方がやや広巾である。普通は上下とも殆んど同じ巾である。
 この板碑は、両面に刻まれている。と言うのは、後世再び利用して板碑の裏面に刻んだものである。
 一般には、現在北向きになっている方が塔婆であるが、ここへ移した時、文字のはっきりした方を南向きにしたため、北向きの方は、生垣の樫木にさえぎられて見にくい。私は、むしろ北向きの面を見えるようにしたかった。
 北向面は、既に文字は風化摩滅しているが、種子(上部の梵字)の刻み方からして、足利時代(約五百年前)のものと思われるが、誰が、何時、なんのために造立したか不明である。
 この北向の面は出来ないで、南向の面の写真を揚げる。
 南向の面は、この板碑の裏面を利用したのもで、これもまた供養したことを刻みつけたものと考えてよいだろう。
 その供養というのは、ここでは経文の書写である。
 明和五年(1768)今より約二百年前、永峰家の先祖と思はれる遠山十三代の玄峰というものが、夕乗軒という庵に住み七十六才の時、大乗妙典の経文を全部書き写したということを刻みつけたものである。
 経文を書写した供養の記念碑ともいうべきもので、これも塔婆と考えてよいだろう。
 こうした書写供養塔や一万巻読誦供養塔は、江戸時代に、割合大きな石をもって寺院の境内や辻の近くの路傍に造立され、現在も各地に残っているので、気をつけて見ていただきたい。
 こうした書写や経文読誦の碑が残るのは、現在のような太平ムードの中に、なにか不安な生活に心のよりどころを求めたものか、また一方、混沌とした時代に、そうした信仰だけにたよって生きたか江戸時代民衆生活を考えるのに、庚申講や観音講などの調査とともに見のがすことが出来ない。
 さて、この板碑であるが、永峰さんが遠山からここへ住居を移した時、この板碑も移し、はじめて人目にふれるようになった。
 もとは遠山の家の裏山にあったとか、今後は町の文化財として、大切に保存すべきものであろうと私は思う。  (筆者は埼玉県立川越工業高校教頭)
     『嵐山町報道』228号 1973年(昭和48)4月15日


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