冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

大奥 進典侍編その③

2007年12月23日 | 大奥(進×瀬那)
女子はその胎内で子を育み、十月十日の後にこの世へと送り出す。が、
男の身で同性の“つま”となった者の場合、その住まいの庭先に、“夫”
と契りを交わした翌日、明らかに周囲の他の植物とは異なった、神秘的
雰囲気を漂わせる、小さな若芽が発芽したかと思うと(逆に言えばその、
※琅汗(ろうかん)を思わせる独特の緑色をした芽が地上に頭を擡げて
こない場合、それは媾合の未完成、乃至は不完全を意味する訳である)、
それは驚異的な速さで成長し、あっという間に一本の木となる。

そして女子の場合と違い、この時代の医術では未だ詳しい経緯は分か
らぬものの、ある日突然、その木は実を結ぶ。結実して十月十日の後、
“母”がその実に手を触れるとその瞬間、それは“母”の手に落ちてくる
のだ。それから一刻後に“母”が再びその実に手を触れると、鳥の雛の
ように内側より外皮を己が手で破りながら、人間の赤子がこの世に生ま
れ出でてくる。

“庭先に”と言うくらいであるからして、長屋住まいの庶民や、国民の大
半を占める貧しい農民たちが男同士で祝言を挙げることは、皆無と言っ
てよかった。何しろ同性を“つま”とするには、大層な手間隙と金がかか
ったので──古式に則った多くの繁雑な行事をすべて終わらせたところ
で初めて、男同士での生殖が可能となるのは、これまた、この世界この
時代の人智の及ばぬ範囲であった。しかし奇妙なことに、女子と女子と
の交わりからは何故か子が生まれず、よって女子の同性婚は認められ
ていなかった──、男同士の同性婚が可能なのは将軍家・大名家・禁
中並びに一部公家、妻帯が認められている宗派の寺社、豪商、庄屋と
いった、限られた富裕層のみであった。

当然のことながら、富裕層の“奥方”が、供連れも無しに出歩くなど、滅
多なことでは有り得ず、高位の武家・公家・皇室の人間であればそれは
尚更のことだった。“彼ら”は外出時には馬でなく、同じ階級の婦人たち
のように輿、または駕籠に乗り、或いはやはり彼女ら同様、外出の機会
そのものが少なかった。

それは唐土以西の国々の人間が知れば腰を抜かし、両目が飛び出で、
開いた口が塞がらなくなるであろうほど仰天するに違い無い生態、並び
に慣習・文化だったが、江戸幕府初期に発布・施行された厳格な鎖国
令により、正式に国が閉じられ、“黄金の国ジパング”の国情が、世界
の国々の大部分に知られなくなってゆく中にあって、通商や、新将軍の
襲職など、幕府の慶事に際して祝賀の意を伝えるため、時折派遣され
ていた通信使などによって、細々と、しかし古代や中世に比べればずっ
と平和的且つ良好な国交関係を、幕府創設の頃より保ち続けていた韓
(から)と中華には、今でこそかつてほどでは無いが、この二国の一部
地域には未だ、男と男の同性婚制度が残っており(そもそもこの特異な
婚姻形態は彼らより伝えられたものであった)、日韓中の三国間に於い
ては現在、日ノ本では男同士の同性婚が著しく発展し、またそれによっ
て結ばれた“めおと”の割合も三国中、最も多い、しかしだから何だと言
うのか、取り立てて話題にするほどのことでもあるまいにとまるで、息を
するのは生者として当然のことではないかと考えるのと、ほぼ同じ感覚
で以って、平然とこの事実を受け止めていた。

よって、韓・中華に於いてさえ、殆ど話題らしい話題にもならなかったこの
話は、陸路と海路を旅するそれらの国々の商人たちなどの口から東洋各
国に伝えられても、距離の隔たりも有ってか、与太話・御伽噺の類としか
受け取られなかったという。

加えて、日ノ本を実地に見聞出来た西洋人の数が、あまりに限られて
いたということもあった。

かつて日ノ本に切支丹の教えをもたらした西班牙(いすぱにや)・葡萄
牙(ぽるとがる)など南蛮よりの宣教者・パドレ(padre)、即ち伴天連(ば
てれん)たちも、ジパングの人々の特異な生活について──その中で
も、彼らの奉ずる唯一にして絶対の神、及びその御子の教えに大いに
反する一部階層の特殊な婚姻形態に関する記述は、他のどの話題よ
りも多くの頁を割いて、詳細に記されていたらしい──数多くの資料を
母国、並びにローマ教皇庁へ送ったが、彼らの多くはジパングの権力
者たちの心変わりによる処刑・追放・強制的棄教を経て、国許へ無事
に帰ること能わず(あたわず)、ほんの一握りの生還者たちが、上司た
ちの前で神の御名にかけて嘘偽りを申さぬと誓った上で行なった目撃
証言も、「乱心者めが、異国の邪教にかぶれ、かの地の悪魔に魂を売
り渡したか!?」と、改めて火刑などに処せされ、後世、真実が判明す
る時には既に、興味深い資料はすべて、“異端者たち”と共に火中へ
投ぜられたか、或いは散逸し、それを書いた者たちも、彼らの報告を目
と耳にした者たちも等しく全員、彼ら言うところの“神の国”に旅立つか、
若しくは生前に犯した罪の重さに応じて煉獄で浄罪の大火に焼かれる
ため、地の底へ下るかして、どちらにしてもこの世から姿を消していた。
ちなみに誰が昇天し、誰が今も浄めの焔の熱さに苦悶しているかはそ
れこそ、“神のみぞ知る”ところである。

そしてまた、宗教関係者以外でジパングを訪れた西洋人たちも、長期
に渡る船旅の様々な過酷さ故に命を落としたり、或いは当人の意志で
母国へは二度と戻らず、異国──人によっては第二の故郷となってい
たのかもしれないが──の故郷の土と化すことを選んだりするなどして、
どうであれ母国の土を再度踏んだ人間は少なかった。

西洋諸国の中では唯一、長崎の出島に商館を構えることを許され、一
年に一度は江戸へ上って、当代の将軍より謁を賜っていた※阿蘭陀カ
ピタンも、行動の自由を完全に制限されていて、長崎の町方の様子す
ら滅多に目にする機会を与えられず、故にカピタン始め、彼の部下に当
たる阿蘭陀商館員たちも、彼らがしばし暮らした小さな島国の、不思議
な婚姻事情に関しては、定住を決めた者たちでさえ、妻としてあてがわ
れたのがすべて女子であったこともあり──同性を求めるオランダ商館
員はいなかったし、いたとしても異人の“つま”になりたがる日ノ本の男
を見つけ出すのは至難の業、子どもを持ちたがるようであればそれ即ち
祝言、日蘭双方の関係者共に物入りとなっていたであろうし、生まれた
子はやはり、その一生を出島から出ること無く、ひっそりと終えていたこ
とだろう。結局、すべては想像と心配の域を出なかったが──、衝撃の
事実の欠片たりとも、知る術を持たなかった。

逆に、これまた奇妙な縁(えにし)に導かれ、日ノ本から海を越え、山を
越え、異国の地へ渡った、腰も身分も軽い人々はまず言葉の壁にぶち
当たり、また自分たちにとっての常識──同性婚は上流階級の特権な
のだ──にさして疑問を抱くことが無かったが故に、婚姻にまつわる故
国の複雑なしきたりの数々について説明することなど、殆ど無かった(し
たらしたで、土地の人々からホラ吹き呼ばわりされた)。

故国で負った何らかの心の傷を忘れて心機一転、誰も自分とその過去
を知る者のいない異国で、真っさらな生活と人生のやり直しを望んだ者
も多かったし、また別のある者たちは訪れた、或いは根を下ろした国で
の後援者・保護者がその地域の宗教界の最高指導者、乃至は最高権
力者などであったがため、交わすことの出来た言葉自体が少な過ぎた。

斯くしてやはり、極東の不可思議な小国の実情は、そちらから見て遥か
西方の諸外国には、正確に伝わらなかったのである。

だがしかし、真実が伝われば韓と中華以外の諸国からは、奇異と恐怖
の目で見られること間違い無しであったろう、男子と男子の結婚は、先
にも述べたような無数の手間隙、出費から、当の日ノ本にては、この上
無きお家の誉れと考えられていた。

しかも、“母”が世話する不思議な木に生を享けた子どもたちは、概して
美しく健康、且つ聡明であり、また善良な気質であった。男が“受胎”す
る確率は、健常な女子でさえ人によって皆、各々異なり、はっきりとしな
いそれの、十分の一以下と低かったにも拘らず、日ノ本に於ける同性婚
が長きに渡って廃れなかった一番の理由は、そこにあった。

同性を娶ることによって良き子孫に恵まれれば、彼らによってお家の繁
栄は末長く安泰、仏壇と墓前の香煙も絶やされぬとあって、筋目正しき
高貴な血統に連なる男たちや、彼らに身分でこそ及ばずとも、有り余る
富と蓄財の才を持つ男たちは、釣り合う相手を見つけられた場合、破産
する恐れが無く、そして愛する“女”が存在しない限り、或いはいたとし
ても家同士の釣り合いが取れない、若しくは自身の感情を押し殺すこと
が出来るというのであれば、迷わず同性を“つま”に選んだ。

が、ために生じた大小様々の悲劇の痛ましさもまた、限り無いものだっ
た。もっとも、老若男女問わず、当事者たちにとっては絶大なる不幸も、
所詮、他人の何とかは蜜の味とやらで、少なくともこの時代の演芸界に
とっては天からの恵みであったらしく、人々は自分に関係無い限り、現
世に於いては結ばれ得ぬ薄幸の恋人同士の心中物、或いは愛の情熱
の赴くがままに新天地へと駆け落ちする“二人”の物語に、こればかり
は身分に関係無く、等しく誰もがうっとりと、心地良い涙を流したのだっ
た。

と、いう訳で、当世日ノ本の実質的頂点に立ち、朝廷に代わって天下を
統べる公方さまが住まうこの江戸、その中心に位置する巨大な城の後
閣たるここ、大奥に、武家政権の次代を担う、健やかにして優秀な子孫
を、“少しでも多く作り出す”ため、運悪く男の室からの男児出生が無
かったとしてもそれはそれ、とにかく血筋を絶やさずにと、女子も男子も
双方、侍ることを許されていたのはむしろ、当然のことであった。

事実、歴代の将軍たちの中では少数派であったが、男を“母”とする者
たちの治世は概ね、豊かで平和なものであったと史書に記され、また、
後世から称賛されること、ひっきりなしであった。

さて、それでは長くなってしまったが、ある一人の、先代が気紛れに手
を付けた平凡な女子の、その腹から生まれた少年将軍の話に戻るとし
よう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我ながらよくもまあここまで、嘘八百どころか嘘五千(文字)近く並べ立
てたものですねぇ、香夜さん……(苦笑)。そりゃ本やネットでも調べ物
しましたし、脳内ミキサーでの攪拌は何十日にも及びましたけど、結局
は全部、捏造設定ですので、そこのところはどうか一つ夜露死苦お願い
申し上げますm(_ _)m>読者諸姉
あ、でも小野不○美先生にだけは特に念入りに謝っとこう……すみませ
ん、ごめんなさい……orz(←日本の方向を向いて)


語釈

琅玕…ビルマ(ミャンマー)産の最高級翡翠。

阿蘭陀カピタン…
長崎のオランダ商館長を指す言葉。オランダ語“kapitein”(=船長?
多分、英語で言うところの“captain”なのではないかと)から来た
言葉で、当て字は「甲比丹」、「甲必丹」など。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大奥 進典侍編その② | トップ | 大奥 進典侍編その④ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大奥(進×瀬那)」カテゴリの最新記事