団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

常盤平団地の54年 24 広島平和記念資料館 

2019-02-17 16:08:04 | 夫婦

二人して広島へ来たなら必ず訪れると決めていたのが、この資料館です。

何故か観覧券と言う3文字が個人的に引っ掛かるのです。観覧と言う文字のニュアンスを私が勝手に作り上げているせいなのでしょうが・・

 ともあれ誰でも広島を訪れた際は見なければならない場所だと思いました。

館内では「近くの国民学校(現在の小学校)一二年生の生徒400名教師10名の尊い命が、あの原子爆弾で一瞬の内に消えてしまった・・・」と、・・・中年の案内員の説明を聞きながら、被爆直後の広島爆心地付近の光景をジッと見つめている内に・・私は涙を堪え切れなくなり思わずその場を離れて歩き出しました・・妻はジッと案内員の説明に耳を傾けてジッと何かを考えている様子でしたが・・・

その当時4年生だった私も栄養失調で集団疎開先の群馬県草津町から焼け野原の東京へ連れ戻されて8月15日を迎えました。

その9日前に広島に原爆が落ち、何か特別な爆弾だと大人が話して呉れた・・

そのあと長崎に又同じ爆弾が落とされたと聞いた時も、その被害がどんなものか想像すら出来ませんでした。

8月15日、間もなく近所の畳屋さんの裏で、直立不動の大人達の背中の向こうからラジオの音が微かに聞こえて来たのですが・・何も分からない内に、不意に大人達がばらばらとその場を散り始め・・顔見知りの大人の一人から「負けたんだ!負けたんだ!・・」と・・焼け野原の高田馬場で終戦の日の事はハッキリと思い浮かぶのですが・・

私達がバラックで生活して毎日を必死で生きていたその間にも、広島では、長崎では、多くの人が死の恐怖と闘い慄き苦しんでいたのですね・・亡くなった多くの人々に改めて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

あの爆心地中心付近を映したパネル写真が、私に戦争の悲惨さをを改めて心に刻み付けています・・

館内を一周して入り口付近で家族と合流した時に・・我に返り、今現在84才も長く生きられるとはと思いました・・

妻と、家族と、旅行が出来ている自分の幸せを噛みしめている私、そこに私がいる実感・・

終戦後、5人兄弟の次男だった私が、いつも一人母親について行ったサツマイモの買出し・・

当時配給のオキナワ(菊芋)やイバラギ?号、農林1号より、買出し先で担いで帰った埼玉のお芋は遥かに旨かった記憶が有りますが・・

それでも終戦後に主食として食べていたサツマイモです・・

空腹を満たす程は食べられなかったオキナワ、イバラギ、農林・・当時は感謝して食べてた筈です・・

そして母親が配給で来た、少ない小麦粉を使って小さく角に刻んだサツマイモを混ぜて、蒸した小麦饅頭・・時にはお芋に火が通って無くてガリガリしてたけど・・今思えば・・ご馳走でした。母は男5人を飢えさせない為に必死だったと思います・・

その小麦粉もアメリカからの援助物資だったのかも知れません。ララ物資援助と言って、色々なものが日本に送られてきました。中には家畜の飼料とか言われた赤カボチャのような美味しくない送り物も有ったけれどもコンビーフ、ソーセージ、バタピーナッツの缶詰等々皆、口に入れた私はアメリカでは「こんな旨いものを食べていたのか・・」と・・

戦争が終わって・・「原爆は戦争を一刻も早く終結させるには致し方ない手段だった」と言うのも、ある意味真実なのかも知れません。

あれから何十年、今では世界中の食料、食品が私達の食卓を潤しています。

 ケンタも然り、 ケンタ、焼きおにぎり、サツマイモ

皆仲良く・・トランプさんも自分の国の事だけ考えないで・・又余計なところへ脱線してしまいました。

暮に買って来た紅あずま芋を蒸して呉れた妻も、終戦当時は茨城県勝田市(今はひたちなか市)で農家では無かった家族は食べるものに苦労していて今は亡き姉と台所で食べるものが無くて向き合って・・ひもじさに泣いたと言う話をします・・何回でも聞いて「そうか・・そうか・・」お互い苦労をしているんだと・・

 若しかして、私達が他人様に一見仲良く見られているとしたら、お互い幼い頃の貧困生活が基になっているのかも知れません・・ゴチソウサマ

 

 

 


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