団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

常盤平団地の53年129 布製のグローブ

2018-11-18 11:24:18 | 日記

校庭でグランドで元気な子供達がサッカー、野球にと、楽しそうです。

「いいな~皆がボール一つづつ持って‥これからサッカーやるの?でもゲームの時はボールは一つあれば出来るんだね~・・」

「こちらは野球チームだね、赤いヘルメットは各自一つづつか良いな~」

「君達、自分の用品は大事にしてね・・」君たちのお父さんお母さんが買ってくれた高級な用品だもんね・・

84歳の爺は子供の頃を思い出しました。当時は終戦後で、先ず流行ったのが男の子は皆が野球でした。女の子は何をしたしょうか?女の子の団体競技って無かったんじゃ・・女の子の運動会の服装が眩しくて眩しくて横目でチラチラだったな~・・

学童疎開から帰った頃は、ボク等4年生になっていたな~

戦後空襲で焼野原になった東京の山手高田馬場に私の母校戸塚第三小学校はありました。

バラバラだった同級生がボツボツ集まってバラックの家からバラック建ての小学校へ通うようになった頃は、アメリカ進駐軍の影響で放課後は草野球だったかな~、野球ったってグローブは家の誰かのお手製で皮じゃなくて有り合せの布製の小さい、でも5本指が入れば当時は立派なグローブ・・直ぐボロボロになっちゃって・・僕なんかそれも無くて二つ上の兄の作ったグローブが羨ましくて、でも兄は滅多に僕にそれを貸してもくれなかった・・でも外野は素手でもOKだったから下手な僕はいつもホームベースから遠い外野だったな~・・

子供達は野っパラに五六人も集まれば直ぐに野球の練習を始めたよ・・3角ベースの野球なら5人もいればOKだからね・・両方で10人もいなければ相手に一人貸してくれたもんだ・・グローブやミット等攻守交代の度に貸し合ったりしてね・・

野球は9人でやるのは6大学とかプロ野球のチームだけだと思っていたんだ・・だから3角ベースの野球さ・・ホームベース板は、なんか誰かがブリキ板で作って歪な5角形の奴で・・1塁から3塁いや2塁か?・・それでも誰か詳しいのがいて「塁間が何メートルが正しい」なんて・・

少しづつ人数が殖えて4角ベースで野球が出来る頃は、今度は場所探しで大変だったな~・・同級生の友達に場所探しの旨いのがいて、その子の親は金持ちで野球の道具もシッカリと用意してきて・・と言ってもと矢張り布製のグローブだったけれど、ゴツゴツした新しいゴム製の健康ボール(軟式)もいつも持っていたし、長さの違うバットも2本持っていて、これは助かったね・・

ウエーティングサークルを棒切れで書いて、生意気にそこでバットの素振りなんかしちゃってね、兄弟の多かった僕には同級生に道具を借りる事に、何の拘りも無かったように思うよ、相手のチームは矢張り何処かの少年たちが集まったチームで毎週のように日曜日に何処かの校庭とか、広場とかで野球の試合をやったもんだ・・

或る日の事、試合前の練習中(な~に練習ったって代わり番コに打席でバッティング練習をするんだが、1回空振りすると、そいつの練習はオワリ)・・だからバット持ってる時間も短くて・・

そこへ一人の大人(今考えると20歳位の薄い髭を生やしたメガネ男だったと思う)が寄ってきて、金持ちのキャプテンに何か話しかけている。見るとユニホームも胸に何処かのネームが入っているし、グローブも使い込んだ革製だし、バットを抱えて、足元を見るとスパイクを履いているんだな~・・

キャプテンと小さな声で話していたが、やがてその大人の男はスゴスゴと原っぱの向こうへ去って行ったのさ・・

キャプテンに「如何したの?」って聞いたら「ウン・・こちらのチームに今日だけ参加したいとさ・・お金が、小遣い銭が欲しいらしい・・幾らだとは訊かなかったけど・・入れれば誰かが出られなくなるし、そんな野球ゴロみたいなのはお断りさ・・」流石キャプテンだと思ったね・・

然しその大人の人だって、きっと野球がしたかったのだと思うよ・・今だったら少年野球のコーチとして、子供達の指導をしてたかも知れないね・・

 常盤平団地、黄昏の野球場

学童疎開も一緒で、毎年戸三(戸塚第三小学校)の同窓会では幹事もしてくれていたS君が亡くなったと電話があった時は本当に辛かったな~・・本当に辛かった・・・

 

 


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