その1・その2・ その3・ その4・その5・その6 |
再来週,以前した調査の内容を報告する機会が設けられた。調査対象だった永田川への長いこと訪ねていない。永田川のイメージを報告前に思い出す意味でも,このテーマで記事を書いてみたい。
※ その1より続き。
谷山駅より少し宇宿方で線路が永田川を渡る。
(2005年4月16日撮影)
桜島もビルの向こう側に見える。
東谷山側の川原には次のような碑がある。
(2009年2月5日撮影)
清見寺跡と刻まれている。
その横に波ノ平刀匠と書かれている。清見寺と刀匠が何らかの関わりがあったのだろう。
川沿いではないが,魚見の麓に波ノ平刀匠の遺跡が残っている。
(2008年12月29日撮影)
小屋のようなものの中から水が湧いている。
案内板によると,平安時代末に橋口正国刀匠が大和国から薩摩へ移り住んだのがはじまりで,明治初期まで900年間64代まで続いたそうだ。また,波ノ平地区は,砂鉄・木炭・水の資源に恵まれており,正国が大和へ向かう船旅で,暴風雨に遭い,自ら打った刀を海に投じたところ,荒れ狂った海がおさまったことにちなみ波平と名乗ったのだという。
先ほどの碑から少し上流方へ行くと丁度谷山駅の裏側に堰があり,その上が橋になっている。橋より下流は最初の写真のように水量は少ないが,上流部は水量が大幅に増えている。
(2008年11月4日撮影)
堰の脇には魚の通り道として魚道が設けられている。
(2008年11月4日撮影)
少し上流に行くと,古そうな温泉の後ろに森が見えて神社があった。3月に訪問した時には温泉が壊されていて,川沿いからは森でしか存在を確認できなかった神社が直接見えるようになっていた。
新永田橋付近から下流方を見る。
(2005年3月8日撮影)
桜島を永田川の向こうに見ることができるのを知った時は驚いた。
今度は上流側を見てみる。
(2009年2月5日撮影)
川はまっすぐと流れている。
しかし,ここは1970年代前半に工事が行われるまでは,川が蛇行していた。
その名残もいくつか見られる。
一つは向川原という地名だ。地形図以外でも,公民館や橋の名前として確認できる。
他にももともとは河道だったのではと思われる用水路も見られる。
(2009年2月5日撮影)
道路の色の違う部分に暗渠化した用水路があると思われる。
(2009年2月5日撮影)
もともと蛇行していた部分の北側の岸には田の神と思われる像がある。
(2008年12月9日撮影)
真方の付近で旧蛇行部分は終わる。下流の方を見てみる。
(2009年2月5日撮影)
現在は写真の左側に向かっているが,はるか昔の流れはここからまっすぐ流れていたという文献もある。(人から頂いた資料で出典は確認したが不明)今の永田川の河口よりもはるか南に当時の河口はあったようだ。
真方のすぐ上流で,支流の滝之下川と分かれている。
(2009年2月5日撮影)
滝之下川は指宿スカイラインの谷山インターの方へ続いていく。
分岐点のコンクリート上には碑が建てられている。
分岐の少し上流部から環流丘陵と呼ばれる小山のようなものがいくつか見られるようになる。
(2008年12月29日)
ややわかりにくいかもしれないが,ふれあいスポーツランドから永田川流域を撮影し写真。
(2009年2月5日撮影)
橋の向こうに2つ緑の山のようなものが見えるのが先述の丘陵だ。
手前の丘陵である白山には登ることができる。
入口。
(2008年12月30日撮影)
川とは反対側に入口がある。丘陵は上には神社がある。
(2008年12月30日撮影)
入口付近の案内板によるとシラヤマノヒメ,キクリヒメ,イザナギノミコトが祭神であると言われ,中村の鎮守の神(山土神)であると記されている。
白山の上流側には谷山北公民館が2007年に新たに建てられた。
(2008年11月30日撮影)
ここで支流の山之田川と分かれている。
ここからも桜ヶ丘越しに桜島が望める。
(2008年11月30日撮影)
(その3へ続く。)
良い勉強になった!