
高村光太郎の最晩年
太平洋戦争に突入し、昭和20年9月2日に、洋上のミズーリ艦艇において、
日本側全権大使の重光葵外相が終戦のサインをしたその日で、
よく、司馬遼太郎は「魔法の森の二十年」と表現していた。
大政翼賛会などが出来、国会において全員一致し戦争突入を決議したのは、
何だったのか。無論アメリカなどによる石油の禁輸制裁策が巨大なマグマとしてあるだろう。
運命論にしたくはないが、ご維新以来の西洋に追いつけ追い越せ政策が中心だったろう。
戦後原発による電力増強が国家発展の最も重要施策として、
原発神話が吹聴され、いつしか又ぞろ巨大な化け物になった。
「魔法の森の二十年」と、「原発神話の四十年」は何処か似ていないか。
原子力の最も困ることは一旦設置すれば、核燃料は決してなくならないことである。
この大震災で毎日東電の発表があるが、今や見たくもない。コロコロ変るからだ。
現場所長の吉田昌郎氏の言動だけは本物である。
「道程」や「智恵子抄」で知られる高村光太郎の全文を読みたくなったのは、
3;11以降、何日間か、原発近くでウロウロし何も出来ない無力な私を感じたからである。
筑摩書房刊「高村光太郎全集」を読破しようと、夜は燈火で、昼はどこででも読み通した。
すると、戦争加担者扱いをされ、戦後失意のうちに
花巻の奥・山口に移り住んだ老彫刻家の実像が鮮やかに蘇ってきた。
ちょうどこの三月終わりの時、渡辺えり作劇の「月にぬれた手」の芝居があった。
渡辺さんに問い合わせ、光太郎の晩年をどのように表現したかったのか、
私は現地被災地に飛んだりして忙しかったので、無念かなその演劇を観れなかったが、
渡辺さんからのお返事は早川書房刊の雑誌「悲劇喜劇」5月号に出るというものであった。
それが群集劇らしく、年老いた光太郎の、真の心情を想像することが出来なかった。

智恵子裸像 後姿のスケッチ
智恵子が、昭和13年10月5日、ゼームス坂病院にて粟粒性結核により没す。
享年52歳、医師・看護士を除いて、今はの際に立ち会ったのは光太郎ただ一人。
以前にも書いたが、三陸地方リポートを書くために旅に出た昭和6年8月から一ヶ月。
智恵子も文章を寄稿したり粘土いじりをしたりして安定的な精神で大正時代を乗り越える。
昭和始め頃から光太郎は木彫小品を数多く手掛け評判となる。石榴・鯰・桃・文鳥など。
最初に彫刻の小品を智恵子に見せ、智恵子は懐中にそれを忍ばせ、千駄木の、
アトリエ付近の駒込林町を嬉々として、飛び跳ね喜んだという有名な話が残っている。
ロダン評伝を多く出版するが、「私の北極星は彼(ロダン)と別な天空に現れる」とし、
実際はロダンと違う個性を感じつつ、ロマン・ロランに傾倒し、その会などを発足させた。
昭和5年、山形に住む詩人の真壁仁宛てに、次の書状を送る。
「小生は現実生活をまともに生活し、正しく観察し、確かに記録する堅忍の努力が
すべての基礎を成すものと思っております。製作は先ずドキュメントから始まります。
小生の仕事は一面正直な人間記録をつくるところにあります」と、その後を暗示している。
この前年智恵子の実家「花霞」酒造蔵が破綻し、智恵子と実家とトラブル続きとなる。
昭和7年智恵子が眠りから覚めない。二階にある彼女の画室には睡眠剤が残されていた。
発見が早かったので、一命はとりとめた。その時真新しいキャンバスが立てかけられてあり、
光太郎への愛と感謝と、養父光雲に対して謝罪の言葉が綴られた遺書が残されていた。
この、分裂症的な行動や精神構造は誰にも理解不能でありたいもので、
芸術的葛藤や実家をめぐる心労も重なったのかも知れないが、一組の男女が、
人工の権威に陥ることなく、人間らしく生きることを願った二人に襲ったものは、
窮乏であり、俗声の四囲から満ちてきたのはいうまでもないことなのだろう。
飽くなき芸術精進、きしむ内部、然も選ばれた生を二人は逃げなかったのである。
その後精神的異常を来たした智恵子が48歳になった時、光太郎は智恵子を入籍させた。
「もし智恵さんより先に私が逝ったら、智恵さんが困るだろう」との配慮であったし、
互いに世俗的には疎い所為で、それまで智恵子の生年月日を光太郎は知らなかった。
智恵子48歳の時で、実に上野・精養軒で結婚式を挙げてから二十年の歳月が経っていた。
光太郎は僅か三歳しか違っていないことに初めて気づく。

福島・安達太良山の散策
光太郎は智恵子の看護をしながら、ホイットマンやセザンヌを訳し熱烈に惚れ込む。
更に三陸旅行の際、宮沢賢治は花巻に立ち寄るはずの光太郎を心待ちにしていたらしい。
昭和元年、宮沢賢治は光太郎のアトリエを訪ねているが、この8年後、昭和8年9月21日に、
花巻の実家で、賢治肺結核のために若くして死す。
短い間であったが、賢治と光太郎の詩魂は濃蜜に交感していたのである。
東京から代表として葬儀に行く草野心平に旅費を都合したのは、
他でもない光太郎自身であった。相次ぐ親友の死、死を目前とした時、◎さんを生かす会
などと言って仲間を集い、同じ芸術家同士を助けていた。
賢治の死の翌年、「宮沢賢治の会」を光太郎が立ち上げ、新見南吉や巽聖歌や尾崎喜八や
無論草野心平など、「賢治友の会」を開き、実弟清六氏上京の折は歓迎小会などを開いた。

智恵子の裸婦像 十和田湖にある「乙女の祈り」の原型スケッチ
戦争中確かに多くの戦争賛歌の詩を光太郎は書いた。でも誰もがそうであった。
だが詩篇は書くものの、大衆運動を光太郎はただ一度もしていないのである。
その殆どが雑誌「家の光」発表されたのが中心であったが、その雑誌を小生は知らない。
昭和13年智恵子が先に逝ってから、智恵子のいないアトリエで独居生活。
昭和15年、戦争が避け難いことであるならば、「今こそ文化は人を支え、人を養う。
非目前的な美は人を救う。皮相な題材主義を捨てて、戦時にこそ一輪の花を描き、
一匹の蝉を彫る勇気を持とう」、そう決意し、まるで智恵子との空白を埋めるが如く、
戦争の詩を書き綴るのだが、一方では己の書いた詩に一言も弁明しないと断言している。
ただ戦後も時折、智恵子との深い絆を思わせる愛の詩も書いていた。
光太郎自身も死の予感に怯えながら、作品の一部や智恵子の切り絵など真壁仁に託す。
昭和20年4月13日、大空襲により、智恵子との思い出が詰まったアトリエが大炎上。
僅かに持ち出したのは、彫刻刀と砥石と詩稿一束だけ、茫然と佇む光太郎。
愈々花巻移住を決意する。5月15日、朝から上野駅頭に並び、夕方乗車。
16日、小雨降る花巻駅に着き、宮沢清六(賢治実弟)に迎えられる。ところが8月10日、
花巻への大空襲により、賢治の実家も被災し、その後市内各地を転々とする。
10月10日、松庵寺で、父・光雲と智恵子の法要をする。智恵子の詩が再び現れる。
17日、稗貫群大田村山口の小屋に移り、農耕自炊の生活に入る。
移住は終戦前から分教場の教師佐藤勝治の手引きで計画されていた。
小屋は花巻営林署のものだったが、払い下げを受け、移築し村民が協力して建てた。
ここに、いつかは日本で最高の文化を持つ村落にしようと村民と語り明かした。
12月8日、日本共産党は神田共立講堂で戦争犯罪人追及人民大会を開催し、
そのリストの中に、光太郎の名も記されていた。何と軽薄なことだろう。
中旬には零下13度、積雪三尺、生涯で最も鮮烈な冬を迎えた。時に63歳。
私もこの山荘に何度も訪れた。今はこの小屋に保存のためか鞘堂が建てられている。
印象的なのは右側の離れた処にトイレがあり、扉に「光」と彫り込んであったことだ。
冬には吹雪が夜具にも積もり、夏には蝮がざわざわ居る。寒冷多湿な酸性土壌。
たった三畝の畑で、じゃが芋や唐土や隠元などを作り、独居自炊の天然生息である。
貧しいけれど信仰の厚い村落の人に恵まれ、多彩な風土に同化する。
畳三畳の小さな小屋にいて、光太郎をして沈思に向かわせたものは、
近代日本の宿命と重なる自らの踏み跡の点検であったろう。
又一方では村落の人々に、食生活の改善と、日本の美について語っている。
この後の詩篇は「暗愚小伝」として結実するが、昭和23年の65歳ごろから、
血痰や喀血をするようになる。山林に夢みたものは必ずしも成就せず、
苛烈な自然と、既に崩壊に瀕した肉体。重い人間関係と、この天成の彫刻家の内心を
蝕む地獄絵図のような人体飢餓。そんな中であるがままの美を触知する「無機」の
世界観が形を取り始める。山居七年は彫刻の環境にはなかったけれど、
それを補うように書技が進み、多くの名書作品が生まれた。その上旺盛な創作意欲が湧き、
昭和24年には小屋にも電燈が燈り、「印象主義の思想と芸術」など、大いに多作であった。
特に宮沢賢治との、死後の交流も深い。賢治子供会をやったり、賢治の詩碑に揮毫したり、
山口小学校ではサンタクロースに扮したり、山形で智恵子の切り絵展をやったり、
近在でも旺盛な講演活動は見逃せない。
戦争については多くは発言していないが、元々私には離群性があり、
極北の星座の中心には智恵子と二人だけの世界でしかなかったと告白している。
昭和27年3月、70歳を超えた光太郎に、佐藤春夫の丁重な書簡を携えて来たのが、
谷口吉郎と藤島宇内。彼らから、初めて青森県十和田国立公園功労者顕彰記念碑として
彫像の依頼を受ける。6月佐藤春夫、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎を従え、
十和田湖を視察。恐らく詩・「裸形」で明らかなように、智恵子の面影をこの世に残す
最後のチャンスと予感したに違いない。記念碑のために裸婦像製作を決意した。
10月12日、裸婦像制作のために帰京。大勢の知人に迎えられる。
13日、中野桃園町にある新制作派の画家・中村利雄のアトリエに入り自炊生活を始める。
かつてイサム・ノグチが使ったこともあるアトリエは好都合であったようだ。
この時も、詩作や彫刻や文芸評論や書画など、多彩に活動し、
数多くの展示会や高名な友人知人との付き合いもあった。NHKテレビにも出た。
昭和28年6月、71歳で裸婦像の原型が完成、同年10月十和田湖前ヶ浜休屋にて、
「乙女の祈り」が序幕される。光太郎も天然自然の天空に永遠に立つ智恵子を見詰める。
昭和31年、光太郎74歳、肺結核と診断されボロボロになった光太郎は4月1日、
激しく雪が舞い散る朝、大量の喀血をし、アトリエで没す。肉親の誰もが間に合わなかった。
筑摩書房から出版される予定のゲラに、「That’s the endか」と記されていた。
浅草から移転された駒込・染井霊園に、智恵子と光太郎は仲良く眠っている。
かくして光太郎の忌日を「連翹忌(れんぎょうき)」と称す。

山口で たった三畝の畑の中で
智恵子の出現は光太郎の不良性を突然奪って以来、光太郎は美大の教授の椅子を
蹴っ飛ばしてまで、智恵子との共同生活を選び、自ら信じる道を驀進した。
父・光雲との確執はやがて父の偉大さを発見することになる。幼い光太郎は
お酉様の熊手飾りで生計を立てていた光雲を、始めは軽蔑したようだが、
あらゆる小さな手仕事も手早にこなし、光雲には覚悟があったのだ。それを観ていた。
一家九人の子の生計を立てた。時代の彫刻は彫り物師と呼ばれ、根付や小物まで制作し、
大家族を支えた。その御仁が楠公銅像や西郷隆盛像を作り、当時の彫塑界を席捲した。
パリで荻原碌山と共に、ロダンと出逢った光太郎は帰国後、余程歯がゆかったに違いない。
でも智恵子と一緒になった後、光太郎は彫刻に翻訳に評論に詩作にやむことがなかった。
そして父の偉大さを知った。膨大な光太郎の著作を読むにつけ、全くブレていないのである。
私は光太郎を北斗の星と見立て、まだまだ勉強する余地と必要がありそうである。
この非常事態に、ポピュリズムをベースにし何も中身がない政府に危惧を感じざるを得ない。
サミットで、総理の失言がないことを祈りたいものだ。
(光太郎の続編を再び書きたい)