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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  夏のパスタと、「愛と胃袋」

2011年07月17日 | 文学・絵画等芸術関連

アーティチョークの花 花胞と花芯を茹でガーリックとエキストラヴァージンオイルで食

花は直径10~15センチあり 花弁が黒ずんだら収穫 今日は10個ほど

 

 

 

夏のパスタ、「愛と胃袋」

 

 

テレビで大河ドラマが毎年放映されているが、今度の「江~姫君たちの戦国」は、

全く面白くない。視聴率が低いようでも、毎週日曜日の夕方6時、当家では観る習慣。

田淵久美子さんの脚本だが、「篤姫」を書いた同じ御仁とは到底思えず、大変残念に思う。

乙女チックな漫画的部分に、どうしても我慢ならないだからだ。

尤も「篤姫」は宮尾登美子氏の原作で、脚本だけが田淵久美子氏であったが、

今回は原作・脚本ともに、田淵久美子氏。原作者が違うとかくも違うものか。

誰でも知っている逸話が多く、あれだけの時代でも一向に緊迫感がない。ふぅ~~!

唯一救われるのは宮澤りえの存在感だけ。上野樹里は内面の演技が出来ていない。

 

NHKは悪いと思ったのか、直後に司馬遼太郎原作の「新撰組血風録」をひき続き放映した。

土方歳三役の永井大や近藤勇役の宅間孝行や沖田総司役の辻本祐樹など、

豪華出演陣の魅力がたっぷりで、緊迫感の連続、素晴らしい映像美も。

殺陣も今まで見たことがない斬新なド迫力。剣士たちのラストファイトが胸に詰まった。

そうして今夜から、「江」の後に直ぐ、琉球王朝を描いた「テンペスト」が始まる。

仲間由紀恵、谷原章介、塚本高史、高岡早紀、GACKT、若村麻由美など、

超豪華俳優陣であり、敵役になる高岡早紀の演技が見もので楽しみだ。

それと「ちゅらさん」以来、脇役として出てくる平良とみさんに出逢えるのも楽しみで、

古来イザイホーの神を持つ琉球王朝の独立自尊の精神と対外外交の高潔さが、

きっとこのドラマを盛り上げてくれるだろう、17世紀嶋津藩より制定されるまで、

琉球人は実に高潔であり平和主義の人々であったのだ。

その琉球魂が太平洋戦争で、日本国の盾となり、今まだ本国から冷遇されている。

 

猫のしっぽ カエルの手」は既にVOL61を数え、ベニシアさんの影響は少なくないだろう。

イタリア・トスカーナの山暮らし」も、同じシリーズに入っていて、現在二話放映された。

両方ともコンセプトは同じで、フィレンツェ郊外の山暮らしの様子は如何にも快適だ。

バッポとマンマとユキちゃんとが出てくるが、マンマは日本人女性・奥村千穂さんで、

面白いことに、イタリア語でエッセイを綴って放映されている。ベニシアさんでは、

「季節のハーブレシピ」や「春夏秋冬 ベニシアのエッセイ」や、何度もアンコール放送も、

本国やアイルランド紀行もあり、ベニシアさんだけで多分100回は超えているだろう。

ベニシアさんの英語は分かり易く、上品な英語が実に快適で、語り手の山崎樹範、

音楽担当は川上ミネさんで、すべてが皆本当に心地いい。多分影響が凄いだろう。

 

いつだったか、「愛と胃袋」というタイトルで、四人の直木賞女性作家の即興小説の、

競作にあたる作劇があった。出版物にはその四人の方々の共同著作本があった。

チーズと塩と豆と」(集英社刊)で、この本が先か、BSプレミアム放送が先か、

どきっとするようなタイトルはテレビでの実験が先だったかもと想像する。

井上荒野がピエモンテ州に行き、山の中のひっそりとした名店を訪ねる。

森絵都は北フランスのブルターニュ地方で遭遇する料理と出会う。

角田光代はスペイン・バスク地方を訪ね、驚愕の尼僧の菓子に出会う。

江國香織はポルトガル東部のアレンティージョに行き、田舎のホテルを訪ねる。

共通語は各地の食文化と、愛憎劇のフィクションの競作である。

各氏みなそれぞれの個性があり、とっても興味深く面白かった。

井上荒野は確かな筆、森絵都は想像力旺盛、角田光代は構成力がいい、江國香織は

書き慣れている様子がありありで、人それぞれ好き嫌いがあるのだろうが、

私の場合、江國香織を除いた三人の今後の創作に大いに期待が持てた。

最早ちゃんと食えている江國香織さんには失礼だが!

 

それとよく観るのはBSで放映される「新日本風土記」と「極上美の饗宴」などである。

映画は観る暇がないが、今晩放送される「雨月物語」を観て、明朝3時45分キックオフの

なでしこJAPANの奮闘を観ることにしよう。

 

その前にやっと収穫したアーティチョークを使い、

我が妻に、イルグラーノから取り寄せた冷製パスタ(ピエモンテ風)を作ってあげよう。

イタリアでも冷やし蕎麦や冷麺のような食べ方があるのである。

 

そう言えば妻の実家から蟷螂山の粽を送って戴いた。裏には可愛いカマキリのマーク。

スサノオが弟の蘇民将来の厚遇を受け、子孫末代まで厄除の約束をした印で、

粽は一年間玄関に下げておくが、八坂神社で粽を求めるとはっきり「蘇民将来之子孫也」と

書かれてある。今日は山鉾巡航の日、盛大に行われたことだろう。

 

同じく東北六県では各地の祭りが仙台に一同に集結した。

青森のネブタ、盛岡のさんさ踊り、秋田の竿灯、仙台の七夕、山形の花笠、福島のわらじ祭、

東北六魂祭りは仙台・勾当台公園広場で、昨日と今日、大熱狂の中で挙行されるだろう。

亡くなりし多くのトモガラの更なる鎮魂を祈りて。

 

さてっと、我が家のブースで、そろそろ料理に取り掛かるとするか。

家族の笑顔を見るほど、幸福なことはない。

 

愛用の「イル グラーノ」の生パスタ

 


   不娶 寡欲 画道専一 ~高島野十郎の最晩年~

2011年06月26日 | 文学・絵画等芸術関連

高島野十郎 自画像

 

 

 

不娶 寡欲 画道専一

 

 ~高島野十郎の最晩年~

 

 

私は、素敵にお年を召された女性を多く存じているが、男性の晩年にも深い興味を持つ。

発災以降、どうしようもなく忙しくなった私なのだが、是非もなく高村光太郎を読みたかった。

3:11以降、私は高村光太郎全集を二度読了した。

女性の老いと違って、男性の晩年には特別な意味合いがあるように思う。

それまで歩いた果てしのない苛烈な旅路を見るからである。

智恵子を亡くし、失意のうちに、昭和20年4月13日東京大空襲、

智恵子との思い出や、父の作品と対峙した思い出のアトリエを消失している。

そのことは「消失作品おぼえ書き~アトリエにて 9・10」として残っているが、

よく言われる父・光雲との確執など何処にもなく微塵もないが、

父の作品と己の作品をなくした哀しさに溢れる貴重な愛惜の文献である。

その後宮沢清六氏を頼って花巻へ。

苛烈な環境で、独居。真冬は頬被りをして寝ないと吹雪が入って眠れなかった。

父、ロダン、萩原守衛、その後の智恵子抄など、独居七年、旺盛に書き記している。

何が戦犯だろう。宮本三郎も、サトウハチローも藤田嗣治も山田耕筰も戦犯か。

高村光太郎全集26巻には平均的日本人以外のことは何も感じられない。

明治・大正・昭和と駆け抜けた一介の日本人そのままである。

深い精神性以外、そこにはあり得ない。

 

処で主家の床の間に、時々飾ってある高島野十郎の「蝋燭」の焔の絵は、

何一つ語ってくれない。言い訳めいた文章を殆ど残さなかったが、黙って鑑賞すると、

この高い精神性の絵は尋常ではない。これら焔の連作は柏市増尾の片田舎で描かれた

最晩年の絵だ。うっかりすると、観る者の魂をさえ、すっかり奪ってしまわれかねない。

絵以外殆ど残さなかった高島野十郎は、絵だけで充分であったのだろう。

光太郎と一緒で、明治・大正・昭和を駆け抜けた一市民に違いない。

 

高島野十郎 最晩年の連作「蝋燭」

 

 私は、高島が最晩年を過ごした柏市増尾という場所に行ってみた。

近所の方に伺うと、そりゃあ昭和35年だったものだから、何もなかったけれど、

今は高島さんの住居跡もなくなり、新興住宅地になっているという。

付近に、毎年カタクリの花が群生して咲く場所を教わり、

そこにじっと佇み、野十郎の生き様を夢想する。幽かに孤高の画家の香りが。

 

久留米の富裕な家に生まれ、東京帝大農業部水産学科を首席で卒業し、

帝大から銀時計を贈られたが、それを辞退、主任教授からの金時計だけは受けた。

その時は既に画業に専念したかったのだろう。これという師もなく基礎もない画家に。

二三年助手を務めた後、野十郎は帝大を辞し、恐らく放浪の旅に出ていたのだろう。

そして郷里・久留米に帰り、二度ほど個展を開いたようだが、

政局・時局には一切関わりを持たなかった。そして描く絵は写実の絵のみ。

戦前や戦争中はどうした心理状態でいたのだろうか、全く判然としない。

だが「無一物 無尽蔵」といった風貌で、きっと無欲であったに違いない。

 

戦後昭和4年から8年間、野十郎は欧州へ旅立つ。

ミレー、ダ・ヴィンチ、デユーラーなどを観た僅かな消息がある。

北米経由で、戦前のドイツ・フランス・イタリアなどで、主にルネッサンス時代の絵画に

ぞっこんであったようだ。そこで更なる高みを目指す精神性を自分なりに獲得。

よく第一次戦争などのゴタゴタした欧州を旅したものである。

そこが如何にも、骨格の太い野十郎らしい。

 

帰国後、郷里久留米を中心に盛んに個展などによって発表するが、

戦後昭和23年、再び上京し、北青山などに住み着く。

東京五輪で、アパートを道路拡張などで追われ、各地を転々と余儀なくされる。

東北、秩父、小豆島、奈良、京都などを転々と放浪し、昭和35年に柏に住み着くことに。

古希を迎えていた野十郎は独居生活。その貧乏暮らしをものともせず、

最晩年の15年の殆どを、「蝋燭」の焔(ほむら)を描いて過ごしている。

そして昭和50年、野十郎の命の焔が燃え尽きようとする時に、

齢88歳の老姉が、85歳の弟を看取ったと言われている。

田中農協病院を経て、野田市にある特別介護老人ホームで死去。

野田市にて葬儀あり、市川市霊園の中、野十郎は五輪塔で静かに眠っている。

生前真言宗を愛し、空海の秘密曼陀羅十住心論」を座右の銘としたようだ。

即ち、「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば

落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として

生まれる前の裸になる事、その事である」と、深い写実の精神性を示唆している。

遺稿には、「花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり」と、

「ノート」最終頁に綴られていたと言われている。

 

私は市川霊園の野十郎のお墓を詣で、五輪塔に手を合わせると、

「不娶 寡欲 画道専一」(妻帯せず 我欲なく 画業一意専心」と、

書かれた野十郎の直筆を見た。野十郎は生前、それほど評価が上がらなかったが、

没後次第に野十郎の画業に、派手なスポットライトが当たっているように思う。

尚主家に来た蝋燭の絵は昭和48年頃届いたと聞いている。

 

「雨 法隆寺塔」

 

この作品は盗難にあい、4年間床下に放置されていた 処が修復された時、

裏面いっぱいにワニスが縫ってあり、画面は完璧であって

当時 絵の具の質感など無視した象徴画に流れて行く中、

かくも絵の具の本質を見事に追求した画家はいなかったと最大限評価された

 

今どき、何故野十郎か、人の上に立ち、宰相になれる器の人は

野十郎以上のピュアさと我欲のなさと骨格の太い国家観が必要であると思えたからである

菅総理よ、貴殿の最後の仕事は「税と社会保障の一体改革」のみ しっかり果たせ!

 

又本日の日曜美術館で「思い出を蘇せる画家 諏訪敦」の番組に深く感銘を受けた。

写実と言ってもただ写し取るものではないことが分かった 野十郎に一脈通じていたかも

 


  高村光太郎の最晩年

2011年05月26日 | 文学・絵画等芸術関連

 

 

 

高村光太郎の最晩年

 

 

太平洋戦争に突入し、昭和20年9月2日に、洋上のミズーリ艦艇において、

日本側全権大使の重光葵外相が終戦のサインをしたその日で、

よく、司馬遼太郎は「魔法の森の二十年」と表現していた。

大政翼賛会などが出来、国会において全員一致し戦争突入を決議したのは、

何だったのか。無論アメリカなどによる石油の禁輸制裁策が巨大なマグマとしてあるだろう。

運命論にしたくはないが、ご維新以来の西洋に追いつけ追い越せ政策が中心だったろう。

 

戦後原発による電力増強が国家発展の最も重要施策として、

原発神話が吹聴され、いつしか又ぞろ巨大な化け物になった。

「魔法の森の二十年」と、「原発神話の四十年」は何処か似ていないか。

原子力の最も困ることは一旦設置すれば、核燃料は決してなくならないことである。

この大震災で毎日東電の発表があるが、今や見たくもない。コロコロ変るからだ。

現場所長の吉田昌郎氏の言動だけは本物である。

 

「道程」や「智恵子抄」で知られる高村光太郎の全文を読みたくなったのは、

3;11以降、何日間か、原発近くでウロウロし何も出来ない無力な私を感じたからである。

筑摩書房刊「高村光太郎全集」を読破しようと、夜は燈火で、昼はどこででも読み通した。

すると、戦争加担者扱いをされ、戦後失意のうちに

花巻の奥・山口に移り住んだ老彫刻家の実像が鮮やかに蘇ってきた。

ちょうどこの三月終わりの時、渡辺えり作劇の「月にぬれた手」の芝居があった。

渡辺さんに問い合わせ、光太郎の晩年をどのように表現したかったのか、

私は現地被災地に飛んだりして忙しかったので、無念かなその演劇を観れなかったが、

渡辺さんからのお返事は早川書房刊の雑誌「悲劇喜劇」5月号に出るというものであった。

それが群集劇らしく、年老いた光太郎の、真の心情を想像することが出来なかった。

 

 

智恵子裸像 後姿のスケッチ

 

智恵子が、昭和13年10月5日、ゼームス坂病院にて粟粒性結核により没す。

享年52歳、医師・看護士を除いて、今はの際に立ち会ったのは光太郎ただ一人。

 

以前にも書いたが、三陸地方リポートを書くために旅に出た昭和6年8月から一ヶ月。

智恵子も文章を寄稿したり粘土いじりをしたりして安定的な精神で大正時代を乗り越える。

昭和始め頃から光太郎は木彫小品を数多く手掛け評判となる。石榴・鯰・桃・文鳥など。

最初に彫刻の小品を智恵子に見せ、智恵子は懐中にそれを忍ばせ、千駄木の、

アトリエ付近の駒込林町を嬉々として、飛び跳ね喜んだという有名な話が残っている。

ロダン評伝を多く出版するが、「私の北極星は彼(ロダン)と別な天空に現れる」とし、

実際はロダンと違う個性を感じつつ、ロマン・ロランに傾倒し、その会などを発足させた。

昭和5年、山形に住む詩人の真壁仁宛てに、次の書状を送る。

「小生は現実生活をまともに生活し、正しく観察し、確かに記録する堅忍の努力が

すべての基礎を成すものと思っております。製作は先ずドキュメントから始まります。

小生の仕事は一面正直な人間記録をつくるところにあります」と、その後を暗示している。

この前年智恵子の実家「花霞」酒造蔵が破綻し、智恵子と実家とトラブル続きとなる。

昭和7年智恵子が眠りから覚めない。二階にある彼女の画室には睡眠剤が残されていた。

発見が早かったので、一命はとりとめた。その時真新しいキャンバスが立てかけられてあり、

光太郎への愛と感謝と、養父光雲に対して謝罪の言葉が綴られた遺書が残されていた。

この、分裂症的な行動や精神構造は誰にも理解不能でありたいもので、

芸術的葛藤や実家をめぐる心労も重なったのかも知れないが、一組の男女が、

人工の権威に陥ることなく、人間らしく生きることを願った二人に襲ったものは、

窮乏であり、俗声の四囲から満ちてきたのはいうまでもないことなのだろう。

飽くなき芸術精進、きしむ内部、然も選ばれた生を二人は逃げなかったのである。

その後精神的異常を来たした智恵子が48歳になった時、光太郎は智恵子を入籍させた。

「もし智恵さんより先に私が逝ったら、智恵さんが困るだろう」との配慮であったし、

互いに世俗的には疎い所為で、それまで智恵子の生年月日を光太郎は知らなかった。

智恵子48歳の時で、実に上野・精養軒で結婚式を挙げてから二十年の歳月が経っていた。

光太郎は僅か三歳しか違っていないことに初めて気づく。

 

福島・安達太良山の散策

 

光太郎は智恵子の看護をしながら、ホイットマンやセザンヌを訳し熱烈に惚れ込む。

更に三陸旅行の際、宮沢賢治は花巻に立ち寄るはずの光太郎を心待ちにしていたらしい。

昭和元年、宮沢賢治は光太郎のアトリエを訪ねているが、この8年後、昭和8年9月21日に、

花巻の実家で、賢治肺結核のために若くして死す。

短い間であったが、賢治と光太郎の詩魂は濃蜜に交感していたのである。

東京から代表として葬儀に行く草野心平に旅費を都合したのは、

他でもない光太郎自身であった。相次ぐ親友の死、死を目前とした時、◎さんを生かす会

などと言って仲間を集い、同じ芸術家同士を助けていた。

賢治の死の翌年、「宮沢賢治の会」を光太郎が立ち上げ、新見南吉や巽聖歌や尾崎喜八や

無論草野心平など、「賢治友の会」を開き、実弟清六氏上京の折は歓迎小会などを開いた。

 

智恵子の裸婦像 十和田湖にある「乙女の祈り」の原型スケッチ

 

 

戦争中確かに多くの戦争賛歌の詩を光太郎は書いた。でも誰もがそうであった。

だが詩篇は書くものの、大衆運動を光太郎はただ一度もしていないのである。

その殆どが雑誌「家の光」発表されたのが中心であったが、その雑誌を小生は知らない。

昭和13年智恵子が先に逝ってから、智恵子のいないアトリエで独居生活。

昭和15年、戦争が避け難いことであるならば、「今こそ文化は人を支え、人を養う。

非目前的な美は人を救う。皮相な題材主義を捨てて、戦時にこそ一輪の花を描き、

一匹の蝉を彫る勇気を持とう」、そう決意し、まるで智恵子との空白を埋めるが如く、

戦争の詩を書き綴るのだが、一方では己の書いた詩に一言も弁明しないと断言している。

ただ戦後も時折、智恵子との深い絆を思わせる愛の詩も書いていた。

光太郎自身も死の予感に怯えながら、作品の一部や智恵子の切り絵など真壁仁に託す。

昭和20年4月13日、大空襲により、智恵子との思い出が詰まったアトリエが大炎上。

僅かに持ち出したのは、彫刻刀と砥石と詩稿一束だけ、茫然と佇む光太郎。

 

愈々花巻移住を決意する。5月15日、朝から上野駅頭に並び、夕方乗車。

16日、小雨降る花巻駅に着き、宮沢清六(賢治実弟)に迎えられる。ところが8月10日、

花巻への大空襲により、賢治の実家も被災し、その後市内各地を転々とする。

10月10日、松庵寺で、父・光雲と智恵子の法要をする。智恵子の詩が再び現れる。

17日、稗貫群大田村山口の小屋に移り、農耕自炊の生活に入る。

移住は終戦前から分教場の教師佐藤勝治の手引きで計画されていた。

小屋は花巻営林署のものだったが、払い下げを受け、移築し村民が協力して建てた。

ここに、いつかは日本で最高の文化を持つ村落にしようと村民と語り明かした。

12月8日、日本共産党は神田共立講堂で戦争犯罪人追及人民大会を開催し、

そのリストの中に、光太郎の名も記されていた。何と軽薄なことだろう。

中旬には零下13度、積雪三尺、生涯で最も鮮烈な冬を迎えた。時に63歳。

 

私もこの山荘に何度も訪れた。今はこの小屋に保存のためか鞘堂が建てられている。

印象的なのは右側の離れた処にトイレがあり、扉に「光」と彫り込んであったことだ。

冬には吹雪が夜具にも積もり、夏には蝮がざわざわ居る。寒冷多湿な酸性土壌。

たった三畝の畑で、じゃが芋や唐土や隠元などを作り、独居自炊の天然生息である。

貧しいけれど信仰の厚い村落の人に恵まれ、多彩な風土に同化する。

畳三畳の小さな小屋にいて、光太郎をして沈思に向かわせたものは、

近代日本の宿命と重なる自らの踏み跡の点検であったろう。

又一方では村落の人々に、食生活の改善と、日本の美について語っている。

この後の詩篇は「暗愚小伝」として結実するが、昭和23年の65歳ごろから、

血痰や喀血をするようになる。山林に夢みたものは必ずしも成就せず、

苛烈な自然と、既に崩壊に瀕した肉体。重い人間関係と、この天成の彫刻家の内心を

蝕む地獄絵図のような人体飢餓。そんな中であるがままの美を触知する「無機」の

世界観が形を取り始める。山居七年は彫刻の環境にはなかったけれど、

それを補うように書技が進み、多くの名書作品が生まれた。その上旺盛な創作意欲が湧き、

昭和24年には小屋にも電燈が燈り、「印象主義の思想と芸術」など、大いに多作であった。

特に宮沢賢治との、死後の交流も深い。賢治子供会をやったり、賢治の詩碑に揮毫したり、

山口小学校ではサンタクロースに扮したり、山形で智恵子の切り絵展をやったり、

近在でも旺盛な講演活動は見逃せない。

 

戦争については多くは発言していないが、元々私には離群性があり、

極北の星座の中心には智恵子と二人だけの世界でしかなかったと告白している。

昭和27年3月、70歳を超えた光太郎に、佐藤春夫の丁重な書簡を携えて来たのが、

谷口吉郎と藤島宇内。彼らから、初めて青森県十和田国立公園功労者顕彰記念碑として

彫像の依頼を受ける。6月佐藤春夫、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎を従え、

十和田湖を視察。恐らく詩・「裸形」で明らかなように、智恵子の面影をこの世に残す

最後のチャンスと予感したに違いない。記念碑のために裸婦像製作を決意した。

10月12日、裸婦像制作のために帰京。大勢の知人に迎えられる。

13日、中野桃園町にある新制作派の画家・中村利雄のアトリエに入り自炊生活を始める。

かつてイサム・ノグチが使ったこともあるアトリエは好都合であったようだ。

この時も、詩作や彫刻や文芸評論や書画など、多彩に活動し、

数多くの展示会や高名な友人知人との付き合いもあった。NHKテレビにも出た。

昭和28年6月、71歳で裸婦像の原型が完成、同年10月十和田湖前ヶ浜休屋にて、

「乙女の祈り」が序幕される。光太郎も天然自然の天空に永遠に立つ智恵子を見詰める。

 

昭和31年、光太郎74歳、肺結核と診断されボロボロになった光太郎は4月1日、

激しく雪が舞い散る朝、大量の喀血をし、アトリエで没す。肉親の誰もが間に合わなかった。

筑摩書房から出版される予定のゲラに、「That’s the endか」と記されていた。

浅草から移転された駒込・染井霊園に、智恵子と光太郎は仲良く眠っている。

かくして光太郎の忌日を「連翹忌(れんぎょうき)」と称す。

 

山口で たった三畝の畑の中で

 

智恵子の出現は光太郎の不良性を突然奪って以来、光太郎は美大の教授の椅子を

蹴っ飛ばしてまで、智恵子との共同生活を選び、自ら信じる道を驀進した。

父・光雲との確執はやがて父の偉大さを発見することになる。幼い光太郎は

お酉様の熊手飾りで生計を立てていた光雲を、始めは軽蔑したようだが、

あらゆる小さな手仕事も手早にこなし、光雲には覚悟があったのだ。それを観ていた。

一家九人の子の生計を立てた。時代の彫刻は彫り物師と呼ばれ、根付や小物まで制作し、

大家族を支えた。その御仁が楠公銅像や西郷隆盛像を作り、当時の彫塑界を席捲した。

パリで荻原碌山と共に、ロダンと出逢った光太郎は帰国後、余程歯がゆかったに違いない。

でも智恵子と一緒になった後、光太郎は彫刻に翻訳に評論に詩作にやむことがなかった。

そして父の偉大さを知った。膨大な光太郎の著作を読むにつけ、全くブレていないのである。

私は光太郎を北斗の星と見立て、まだまだ勉強する余地と必要がありそうである。

 

この非常事態に、ポピュリズムをベースにし何も中身がない政府に危惧を感じざるを得ない。

サミットで、総理の失言がないことを祈りたいものだ。

 

(光太郎の続編を再び書きたい) 

 


 金子みすヾの最期の一日

2007年06月21日 | 文学・絵画等芸術関連

 

 

 

金子みすヾの最期の一日

 

 

夫は結婚したばかりなのに 女狂いで 商売女から貰って来た病気を 

妻金子みすヾ(本名テル)にうつし 本人はさっさと治したが 

みすヾは 次第に重くなる病と必死に闘っていた 

一人娘のふさえに 愛情をたっぷり掛けながら

なりふり構わずに耐え 小さな本屋をやって ヘトヘトになる神経が続く

そうして漸く離婚したが 離婚後も 夫から執拗に娘を返せと書状が届いていた

みすヾは覚悟を決めた それまで書いた作品を三冊の手帳に清書した

『美しい町』『空のかあさま』『さみしい王女』と名付けて 

恩師西条八十氏と 本当は実の弟である正祐に遺した

「二人だけに分かって貰えればいい」と そして筆を絶った

 

だが可愛い娘のふさえの幼言葉を『南京豆』に書き写しながら

少しの時間も 娘のためだけに使かった

 

離婚に際し みすヾの条件はたった一つ ふさえを自分の手で育てたいと

一度条件を受け入れた夫からは 矢のような催促で ふさえを返せと

或る日いつもと違う文面が 「3月10日にふさえを連れにゆく」

親権は父親にしかない時代で 連れに来られたら渡すしかなかった

 

みすヾは弱りゆく身体で 何が出来るのかを必死に考えた

幼い時代から 色々な死や別れを体験して来たが それは皆運命だから

でもふさえだけは違う ただ黙って見送ることは出来ない

みすヾは 夫の理不尽と大きな運命に 

全身全霊を持って抵抗するしかなかった

 

3月9日 みすヾは一人で写真館に行き 写真を撮った

帰りに櫻餅を買い 正祐などとの思い出の場所を遠回りし 家へ戻る

夕食後みすヾは ふさえをお風呂に入れた

自分は一緒に入らず たくさんの童謡を歌って聞かせた

櫻餅をみんなで美味しそうに食べた

 

やがてふさえは みすヾの母ミチと一緒に床に就く

二階の自室に上がろうとした時 ふさえの寝顔を見て動くことが出来なかった

階段の中ほどから「可愛い顔をして寝とるねぇ」 みすヾ最期の言葉であった

 

枕元に最期の姿を映した写真の預り証と

三通の遺書を遺して 多量の睡眠薬をあおった

 

一通は夫宛てで「あなたがふぅちゃんにしてあげられるのはお金であって 

心の糧ではない どうか私を育ててくれたように 母にふぅちゃんを預けて欲しい」

一通は母と叔父宛てに「くれぐれもふぅちゃんのことをよろしく」

「今夜の月のように 私の心も静かです」

そして最期の一通は 実の弟 他家へ養子に入った愛すべき正祐へ

「さらば 我らの選手 勇ましく往け」

 

昭和5年3月10日未明 金子みすヾは僅か26歳の生涯を閉じた

みすヾの命懸けの願い通り ふさえは母ミチのもとに残された

 

あの西条八十がもっと真剣であったならば 正祐が本来姉弟であることを

しっかり認識してくれたなら 夫は無体であるばかりだし 救いはなかったのか

性病を治しに 何故本人は行かなかったのか 

あれこれと 悔やんでも悔やみ切れないが 

我が亡き主人の『櫻忌』の法要の中に 

彼女の名がしっかりと刻み込まれている・・・・

 

母ミチ 本人みすヾ そして娘のふぅちゃん 母子三代に亘って

男運がなかったと言えばそれまでだが あんなに母みすヾのことを嫌ってしまった

娘のふぅちゃんでさえ 夫と離婚 子供と二人で歩く運命を選んでいる

 

金子みすヾが生まれた仙崎は 鯨の取れる港で 昔は大いに賑わっていたが

鯨法会をやるような信仰心の篤い土地柄であり みすヾは生来の優しさに

土地柄の優しさも加わって あの512篇のも珠玉の詩が生まれた

それなのに どこまでも運命とは過酷なのであろうか

 

 

                『露』

                     金子みすヾ 作

 

             誰にもいわずにおきましょう。

 

             朝のお庭のすみっこで、

             花がほろりと泣いたこと。

 

             もしも噂がひろがって

             蜂のお耳へはいったら、

 

             わるいことでもしたように、

             蜜をかえしに行くでしょう。

 

 

 

 

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櫻灯路『散ったお花のたましいは』  

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櫻灯路『散ったお花のたましいは ふぅちゃん篇』

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櫻灯路『花のたましい』 

 

口絵の写真は20歳頃のみすヾ 純粋無垢で綺麗な心の持ち主でした

 


 櫻桃忌 グッド・バイ

2007年06月19日 | 文学・絵画等芸術関連

 

 

 

櫻桃忌      グッド・バイ

 

 

本日三鷹・下連雀の禅林寺では 『櫻桃忌』が行われている

何も寺の行事ではなく 太宰が亡くなった時の翌年

井伏鱒二や亀井勝一郎や河盛好蔵らの友人多数によって

御寺の庫裏を借りて始められた追悼集会のことで

死後59年経った今でも 熱心なファンで御寺は溢れかえる

 

太宰治が愛人山崎富栄と玉川上水に入水し心中を図った

1948年(昭和23年)6月13日に二人で入水し 19日に川から引き上げられた

当時の玉川上水は 雨季は特に滔々と流れ 酷い流れで

『人恋川』とも呼ばれて 身投げ事件など 相当多かったようだ

 

太宰は特に好きな作家ではないが 但し捨て置けない作家である

『富嶽百景』や『津軽』や『晩年』などをよく読むからでもあるが

この男は底意地の悪い男などではないと確信があるからで 

三島由紀夫なら 固定された覗き窓から人間や社会を観ているようだが

太宰は人間を信じられないと繰り返し言いながら それでも信じてしまう

人の良さと弱さを併せ持った男で 何処か憎めないピュアな男だからであろうか

 

小説『グッド・バイ』が未完のまま最期の小説となっている

この世の皆さんにグッド・バイしているのではない

十人の女に一人一人別れを告げて行くと言う 割に明るい話であるが

最初の女が実はこの山崎富栄そっくりで 続きを書く意欲に溢れていたらしい

心中未遂事件を起こせば それで彼女は諦めてくれるであろうと

そう思って 決して死のうとはしていなかったと 友人・知人は語る

事実 太宰が引きづられた跡があったとも言われている

ところが山崎富栄は 意外にもしっかりしていた女だったので

本当に死んでしまったのだと言うのだが 真相は愈々定かではない

 

今日も全国の大勢のファンが 太宰の墓前に来ていると思われる

この遺体があがった19日は 奇しくも太宰治の誕生日でもあった

太宰治の生家である斜陽館では 津軽・金木の街をあげて 

1999年から『櫻桃忌』を取りやめ 

『太宰治誕生祭』にして湧いていると言う

 

巻頭の写真は 銀座「Lupin(ルパン)」の店内の映像である

このバー・カウンターで 足を上げて映っている有名な写真があり

今でもこのバーのどこか奥まった場所で ニカッとはにかんで笑いながら

太宰が未だ生きているような気がしてならない

 

 

 

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!1478.entry 『櫻灯路』 

太宰治の関連記事 『夾竹桃の花が咲き』

 


 映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

2007年05月21日 | 文学・絵画等芸術関連

 

 

 

映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 

 

 

今夜はお酒の接待がある日だったが 

こう言う時は部下に任せるものだよと言う

亡き主人の言いつけを守って すべて部下に任せ 

私はセキュリティの人を誘って 日比谷の映画街へ

映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を観た

 

オダギリジョーの圧倒的存在感や内田也哉子の素質の凄さ 

無論 オカン役の樹木希林の稀有な女優によって 恵まれた作品となった

無償の愛を尽くす母親の像は いつの時代になっても変わらなくいいものだ

 

だが待てよ 映画はオカンに焦点を当て過ぎて 病状だけ見せてやしないか?

テレビも時々観ていたが オカン役の倍賞美津子のパワーに負けてないだろうか

最近よくテレビでの劇と同じ原作の映画を観て つい比較してしまうことが多いが

あの『愛の流刑地』だってそうだった NHKでやった『蝉しぐれ』もそうだった

何処かテレビの方に負けていないだろうか ふとそんな風に思え 淋しかった

何時間も時間を掛けられるテレビがいいと言ったら それまでだが

 

原作は原作のよさがあり 映画やテレビには それぞれの良さがある

それでもどこか納得がいかないのは 何だろうか 映画が一頃より観客動員が

ハリウッドよりやっと競り勝ったことは とっても嬉しいことだが 何か淋しい

多分撮れる時間の所為ではなかろうか 映画には余りにも制限があるのだろう

どうか映画人の方々よ もう少しちゃんと撮ってもらいたいと言いたい

折角の配役も資金もスタッフも 皆どこか沈殿しているぞと言いたい

 

私が現在最も注目している日本人映画監督は 小泉尭史である

あの小五月蝿い黒澤明のもとで じっと永く下積みをした方だ

『雨あがる』から 『阿弥陀堂だより』 そして『博士の愛した数式』と言えば

あああの監督かとお分かりでありましょう 映画を知り尽くした創り方で

大筋小筋を 振り分けて きちんと考えられて創られている

今度どんな映画を観れるだろうかと あの監督を思う時 胸が躍る

 

小津安二郎・木下恵介・溝口健二・黒澤明など 不世出の映画監督を

我が国は多く輩出しているし 皆誇れる監督で 何度観てもいい作品ばかりだ

資金の面や色々な制約はあるだろう でもどうか最低でもテレビに負けては駄目だ

若手映画監督の中にも 素晴らしい監督が大勢いるではないかと

 

 

http://wwwz.fujitv.co.jp/tokyo-tower/index2.html テレビ版 東京タワー

http://www.tokyotower-movie.jp/ 映画版 東京タワー

http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!481.entry?_c=BlogPart  

あづさ弓で取り上げたテレビ版 東京タワー

http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!430.entry?_c=BlogPart

あづさ弓で取り上げた映画『愛の流刑地』