幾何学的な丘 山頭火はこんな丘を歩いただろうか
山頭火を歩いて
明治十五年(1882)山口県防府市に生まれ、昭和十五年(1940)、五十七歳で亡くなった俳人・種田山頭火は、自宅井戸に身投げし失った母親を生涯思い続け、「ほんとうの自分を作り上げること」、「あれこれ厄介をかけないで、ころりと死ぬこと」が、真実の願望であった。その生活は無一物の乞食であり、いつも死を考えながら、死を押さえ込むための活力として、放浪し、膨大な俳句を創った。どうしようもなく惨めで凄まじい生き様から生まれた俳句は、何とも自由で、さびしくて、かなしい。今回の大震災で亡くなりし多くの友人たちに、本文をお届けしたい。
歩かない日はさみしい
飲まない日はさみしい
作らない日はさみしい
ひとりでゐることはさみしいけれど
ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない
防府 生誕の地で
[生家跡]
山頭火が生まれたのは現在の防府市八王寺町2丁目、防府天満宮から徒歩十分くらいのところにある。種田家の屋敷は三方を田んぼに囲まれ、納屋・土蔵・母屋が並んでいたとのことである。
今も種田家はあるが、当時の屋敷は残っていない。生家跡には句碑が建っていた。
うまれた家はあとかたもないほうたる
生家跡近くの種田又助商店には、山頭火のうしろ姿のレリーフが、入った立派な句碑が建っている。
分け入っても分け入っても青い山
[山頭火の小道]
山頭火が小学生の時に通った道は、山頭火の小径と呼ばれて親しまれている。生家跡から「志ほみ羹」(塩味羹)の双月堂付近までの路地は、どこかなつかしい感じがする路地である。また民家の塀などに山頭火の句が張られているのも楽しい。山頭火の小径の東の端付近にある双月堂の茶室入口には、
あめふるふるさとははだしであるく
の句碑がある。
[種田酒造跡]
明治三十九年、父竹治郎は長男正一(山頭火)名義で、防府市郊外の酒造場を買い取り、酒造業をはじめる。暖冬のため、酒が腐敗したことが原因で破産に追いこまれたのは、大正五年山頭火三十四歳の時であった。
その後山頭火は妻子とともに防府を後にし、妻の実家がある熊本に移り住んで、古書店「雅楽多」を開業する。熊本・大道新舘のかっての酒造場の前の県道沿いに、山頭火自筆の句碑が立っている。
酔うてこほろぎと寝てゐたよ
[護国寺門前]
山頭火十七回忌の昭和三十一年十月十一日、山頭火を顕彰するために護国寺に墓が建てられた。自然石に彫られた素朴で趣きのある山頭火のお墓だ。
境内には7基ほどの句碑がある。門前には、
風の中おのれを責めつつ歩く
山門を入ってすぐの所に、
てふてふうらからおもてへひらひら
[防府駅前]
JR防府駅前、山頭火がこの駅で乗り降りしていた頃とは風景が全く様変わりしたことであろう。
てんじんぐち、つまり防府天満宮のある北口へ降り、駅前広場の左手に歩くと山頭火の銅像が建っている。
笠をかぶり、右手に鉢、左手に杖を持った行乞姿で、台座には、
ふるさと水をのみふるさとの水をあび
と刻まれている。
防府市内には、山頭火の句碑がたくさん建っている。山頭火ゆかりの地に建っているものもあれば、ゆかりの全くない所に建っているものもある。駅の観光案内所で、句碑めぐりの地図を手に入れてから散策をはじめるべきだろうか。
漂白の始まり 熊本・味取観音堂
大正十三年に出家した山頭火は、翌大正十四年に曹洞宗瑞泉寺の味取(みとり)観音堂の堂守となり、このときに、
松はみな枝垂れて南無観世音
という句を詠んだ。堂守は長続きせず、一年二か月で観音堂を去り流転の旅に出た。大正十五年、山頭火四十四歳、これが漂泊のはじまりであった。味取観音堂への少しゆがんで、磨り減っていた。両側には幾つもの石仏が安置されている。山頭火もこの石段を何度も何度も上り下りしたことであろう。
[小豆島]
昭和三年(1928)七月、山頭火は尾崎放哉の墓参のために小豆島に渡り、小豆島で五泊している。山頭火は、土庄の酒屋で買った一升瓶を放哉の墓前に供えたと言う。
放哉と山頭火は、荻原井泉水門下の「層雲」の同人であったが、生前に会ったことはない。放哉が小豆島で亡くなったのは大正十五年、山頭火の放浪の旅がはじまったのも同じ年で、放哉の終わりのときは、山頭火の始まりの時であったとも言える。
[南郷庵(なんごうあん) 現在の尾崎放哉記念館]に筆者立ち寄る
土庄町西光寺の南郷庵跡地に、放哉が書き残したものを手がかりに1994年に尾崎放哉記念館として復元された。展示物も充実していて、放哉の書簡などを中心に、山頭火の書も数点ある。山頭火がおとずれたのは放哉の死の三年後、当時、南郷庵はまだあったのだろうか。小豆島は島四国八十八ヵ所。墓地近くには遍路道標。放哉の句も残されていた。「墓のうらに廻る せきをしてもひとり一日物云はず蝶の影さす 入れ物がない両手でうける つくづく淋しい我が影よ動かして見る」
放哉の墓標の後ろに、西光寺の五重塔が見える。山頭火はこの墓前で、酒でも飲みながら過ごしたのであろうか。春の山のうしろから烟(けむり)が出だした(放哉最後の句が刻まれている)
[国東半島]
山頭火が国東半島へやって来たのは昭和四年(1929)十一月下旬。阿蘇から英彦山へ拝登。中津の俳友宅に立ち寄り、宇佐神宮へ参拝した後、国東半島の天念寺や両子寺をたずねた。そして、阿弥陀寺や安国寺に投宿したと伝えられている。
■阿弥陀寺(国見町)
阿弥陀寺の石段下に立つ真新しい句碑。
こんな山水でまいまいがまうてゐる
「まいまい」とはミズスマシのこと。
阿弥陀寺入り口付近に地蔵尊像が立っていた。
■安国寺(国東町)
茅葺屋根の山門に仁王像がある。また山門前に山頭火の句碑がぽつねんと立っていた。
日暮れて耕す人の影濃し
[日奈久]
■昭和五年九月十日 晴、二百廿日、行程三里、
日奈久温泉織屋宿。午前中八代町行乞、午後は重い足
ひずり日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん
夫婦と再び一緒になった。
方々の友へ久し振りに音信する。その中に、
「 ……私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅に出ました。歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます。温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよく、海もよい。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)」
山頭火が宿泊した織屋が現存し、その近くの「憩いの広場」には山頭火の記念碑が立っていた。
■ 昭和五年十月十一日 晴れ 滞在
午前中行乞、午後は休養す 此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである。
■ 昭和五年十月十二日 晴れ 休養
入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と活動写真見物、あんまりいろいろと考へさせられるから。
■ 昭和五年十月十三日 曇り 時雨 佐敷町川端屋
八時出発 二見まで歩く、一里ばかり、九時の汽車で佐敷へ。三時間行乞、やっと食べるだけいただいた。此の宿もよい。爺さん婆さん息子さんみんな親切だった。
通常こんな漂白の旅である。日奈久を出て二見が近づくと、右手に八代海が見えてくる。山頭火も二見までの約4キロの道を、海を見ながら歩いたことだろう。汽車は、次の駅上田浦の先まで海岸をかすめるように走り、肥後田浦へ向かって海から離れる。山頭火は佐敷から東へ歩き、球磨川沿いを人吉へ向かった。八代海の夕暮れ(上田浦~肥後二見)、今も昔も天草の島影は全く変わっていない。佐敷城址から眺めた佐敷の町屋は今もゆったりと流れていて、素晴らしい。佐敷川対岸が人吉に抜ける道であろうか。
[日南海岸]
■昭和五年九月三十日 秋晴申分なし。
青島を見物した。檳榔樹が何となく弱々しく、そして浜万年青がいかにも生々してゐたのが印象として残ってゐる。島の井戸ーー青島神社境内ーーの水を飲んだが、塩気らしいものが感じられなかった。その水の味も亦忘れえぬものである。
久しぶりに海を見た、果てもない大洋のかなたから押しよせて砕ける白い波を眺めるのも悪くなかった。(宮崎の宿では、毎夜波音が枕にまでひびいた。私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するやうになってゐる)
この日の夜、山頭火のところへ国勢調査員がやって来る。山頭火は、「先回は味取でうけた、次回の時には何処でうけるか、或ひは墓の下か、・・・」とこの日の日記に書いている。尚日記から二首、
波の音たえずしてふるさと遠し
白浪おしよせてくる虫の声
■昭和五年十月一日 曇。午後は雨。
九時から十時までそこらあたりを行乞する。それから一里半ほど内海まで歩く。峠を登ると大海に沿ふて波の音、波の音がたえず身心にしみいる。内海についたのは一時、二時間ばかり行乞する。
今日歩きつつつくづく思ったことである。ーー汽車があるのに、自動車があるのに、歩くのは、しかも草鞋をはいて歩くのは、何といふ時代おくれの不経済な骨折りだらう、(その実今日の道を自動車と自転車とは時々通ったが、歩く人には殆んど逢はなかった)然り而して、その馬鹿らしさを敢て行ふところに悧巧でない私の存在理由があるのだ。
泊めてくれない村のしぐれを歩く
蕎麦の花にも少年の日がなつかしい
■昭和五年十月六日 晴。
九時から三時まで行乞、久しぶりに日本酒を飲んだ、宮崎、鹿児島では焼酎ばかりだ、焼酎は安いけれど日本酒は高い、私の住める場所ぢゃない。
十五夜の明月も飲まないで宵からねた、酔っぱらった夢を見た、まだ飲み足らないのだらう。油津といふ町はこぢんまりとまとまった港町である。海はとろとろと碧い、山も悪くない、冬もあまり寒くない。人もよろしい。世間師のよく集るところだといふ。
小鳥いそがしく水浴びる朝日影
油津の堀川運河にかかる堀川橋は石積みで格別に美しい。山頭火も渡ったことだろうか。
■昭和五年十月七日 晴。
雨かと心配していたのに、すばらしいお天気である。そこここ行乞し、目井津へ。このあたりの海はまったく美しい。あまり高くない山、青く澄んで湛へた海、小さい島は南国情緒だ。吹く風も秋風だか春風だかわからないほどの朗らかさであった。
草の中に寝てゐたのか波の音
細田川河口や目井津港付近はいつ行っても美しい。山頭火もどうやらこの美しい小さな島影を見たようである。
虹の松原はこんな松林ではないが、玄界灘を背負う膨大な松はいつまでも風に揺れていた
≪本文について≫
ドナルド・キーンさんの文章の中で、日本人は好き嫌いで作家の文章を判断しがちだが、それは悪い意味で私小説的判断の証だと言っていた。そこからこのどうしようもない男・山頭火を読み返してみると、何とそこには豊穣な人間性があるではないか。生涯8万もの句を詠んだ男とは、私は時間がある限り、山頭火の歩いた道を辿り、山頭火の日記をたよりにしながら、吟唱された句を何度も読み返している。どこへ行っても最早山頭火が歩いた時代の風景はない。でも不思議に風というか匂いというか、その場所に立ってみると、そこはかとなく山頭火が感じられるから面白いものだと思っている。キーンさんが泣きながら英文で書いたという「正岡子規」を読み、久し振りに感動した。今後石川啄木を書くという。そう言えば私が若かりし折、啄木の「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」っていう歌を随分永い間、抱いていたような気がする。キーンさんから教えられながらも、近代俳句や近代短歌の世界を少しずつ読み進めて行こうと思う。尚山頭火終焉の地・松山まで、今後どれだけ旅をしたらいいのか分からないが、意欲満々であることだけは確かなようである。(硯水亭)
山頭火については私も記事にしたことがあれります。
二枚の絵は硯水亭さんのものですか。
巧いものですね。
一芸に秀でた人は「多芸」である。
では、また。
恥ずかしながら、両方とも私の絵です。上はパソコンのペイントで描いたものです。下は20号の油彩です。
現在は子供たちのために絵本づくりに夢中です。子供のための絵は風景画と違って、人物だったり、デフォルメだったり、比喩的だったり、結構難しいものですが、これも愛嬌でしょう。くじけずに描いて参りたいと存します。
先生の山頭火、読ませて戴きました。大嫌いなタイプの歌人でしたが、最近重要だと感じられるようになりました。多分先生のブログにお邪魔させて戴いているせいでしょう。いつも感謝申し上げております。今日も有難う御座いました!