やもお(寡男)である熊平は一男二女の子持ちである。妻が亡くなってからというもの大酒飲みのぐうたらな父親になった。三人の子供を抱える大変さに押しつぶされたのである。長女のおきちはまだ十歳だったが、二人の下の兄弟の母親がわりになって家事にあたっていた。ある日のことだった。父が呑んだくれて行き倒れになり、それが原因で数日後、息をひきとるという災難にあった。ところが、災難はそれで終わらなかった。こんどは父親があちこちに借りまくっていた借金がかさんでいることが判明、取立てが押し寄せた。周囲の人間がいろいろ手助けをしようとするが、おきちはきっぱりと言い放つ。「親の借金は子の借金ですから」と。尋常の働きでは返せない借金を帰すために、おきちは岡場所で働くことを決断する。そしてその日。「女衒の安蔵が来て、手に風呂敷包みを持つおきちが家を出て行くのを、人々が見送った。みなさん、おせわさまでした。おきちが一人前の大人のように言った。だが、言い終わると同時におきちは手で顔を覆って激しく泣き出した。・・やっと十の子供にもどったおきちを見たように思いながら、みんなは安心して泣き、口ぐちに元気でねと言った」 「本所しぐれ町物語」より
・裏店は静まり返って、どの家も、軒も黒々と寝静まっていた。おきちは木戸をあけて裏店を抜け出すと、表通りに出た。そして一丁目の方に向かって歩き出した。思ったとおり空は曇っていたが、どこかに月がのぼっているらしく町はぼんやりと明るかった
・表通りに出ると、遠く林町に近いあたりに、一丁目の自身番の灯がぽつりと見えるほかは、灯影と言うものがない町が、ふたたび恐怖をはこんで来たが、おきちはこらえて町家の軒下に眼をくばりながら、出来るだけゆっくりと歩いて行った。
小説の舞台:深川 地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:弥勒寺
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