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愛のカタチ 場所と人にまつわる物語  

愛の百態

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる

風布異聞

2022-07-18 11:06:20 | 場所の記憶

 風布と書いて「ふうぷ」と読む。この聞きなれない地名が秩父山中にあるということを知る人は少ないであろう。
 風布は現在地番でいうと埼玉県大里郡寄居町と秩父郡長瀞町にまたがって所在する集落で、今なお交通不便な山峽の地にある。
 地形的にいうと、そこは、秩父山中を北に流れ下った荒川が長瀞あたりで東に大きく向きを変え、さらに、下流の寄居町方面に流れ下ることによってできた、弧状の山域のちょうど中ほどに位置している。
 地図を眺めて見ても、その地がかなりの山奥で、地形も入り組んだ峻険な地であることが分かる。村の南端には釜伏山が控え、そこを源とする風布川が村落の東側を北流している。そして、川は七つの支流を集めながら荒川に注いでいる。 
 この風布川の水源に「日本(やまと)水大神」なる水神さまが祀られている。言い伝えによると、その昔、日本武尊が東征のおり、この地に立ち寄り、戦勝を祈願して、岸壁に剣を刺したところ、そこから冷たい水がこんこんとわき出たという。以来、ここの水は霊水とあがめられ、不老長寿、子授け、また、ある時は、旱魃時の雨乞いのもらい水として尊ばれてきた。
 風布は落人伝説が生きる場所でもある。
 かつて、寄居町のはずれには小田原北条氏が居を構えた鉢形城があった。が、その城は戦国の動乱のなかで落城し、その時、この城に立て籠もっていた武将たちが、一族郎党を引き連れて山中に逃れたという。いま風布を訪れると、家の祖先が北条氏の落人であったと語る村人が多い。しかも、彼らはそのことを誇り高く語る。
 史実によれば、鉢形城の落城はつぎのようなものであったという。
 鉢形城の歴史は古く、すでに平安時代の末期にはここに砦が築かれていた。平将門も利用したと伝えられる天然の要害は、のちに、地元の豪族であり、この地域を支配していた山内上杉家が所有することになった。
 実際に居城していたのは、山内上杉氏の家老職であった藤田康邦という武将であったが、その康邦が永禄年間に、その頃、小田原北条氏の頭領であった北条氏康の子の氏邦を養子に迎えることになった。
 以後、鉢形城は藤田康邦の養子になった北条氏邦が居城することになり、小田原北条氏の所有になる。その後、城は大改修され北関東の要としてふさわしい城に生まれ変わるのである。 
 鉢形城は、荒川がつくる扇状地の扇頂部にあたる場所に築かれた平山城であった。そこはちょうど河岸段丘の上にあたり、急直下する数十メートルもの段丘崖が天然の防壁をなしていた。
 その頃の鉢形領は、男衾(おぶすま)、秩父、榛沢(はんざわ)、那珂、児玉、賀美五郡の武蔵国北西部の広い地域に及んでいたといい、それはちょうど、荒川の中・上流流域から神流川(かんながわ)にわたる広い範囲であった。 
 鉢形城は、また、高松城(皆野)、天神山城(長瀞)、用土城(寄居)、八幡山城(児玉)などの幾つもの支城をもっていた。これから見ても、この城がいかに重要視された城であったかがうかがえる。
 時は戦国の力関係が目間苦しく変貌する時代である。北条氏はある時は武田信玄と同盟し、上杉謙信に対抗することがあったかと思えば、また、ある時は、謙信と組んで、信玄に敵対してもいる。
 やがて天下統一の機運が強まるなか、豊臣秀吉の北条氏討伐がおこなわれる。天正十八年(1590)六月十四日、東海道と中山道の両面から四万五千の兵をもって攻め入った豊臣軍は、鉢形城に立て籠もる北条軍三千五百を壊滅させる。大軍を前にして一カ月あまりの間、北条軍はよく戦ったが、ついに城は落城。この時、多くの北条氏の敗残兵が秩父の山中に身を潜めたという。
 今でこそ風布は山中に孤立したようにあるが、江戸時代、そこは寄居と秩父地方を結ぶ秩父甲州往還のほとりにある地として、さまざまな情報がもたらされ、都会文化の流入があった。
 その往還は、寄居から荒川をわたると、西に山中をたどり、途中、釜伏峠を通過する。釜伏峠は標高五八二メートルの釜伏山のふもとにある峠で、山中を登りつめた道は、ここに至ると以後なだらかな尾根道に変わる。街道はこのあと下り道になり、さらに西行して長瀞あたりでふたたび荒川をわたり、西谷(にしやつ)と呼ばれる秩父の西部地域に入る。
 江戸期になり、風布村は忍藩(おしはん)に属することになった。
 寛政四年(1792)の記録によると、田一町六反余、畑五二町余、屋敷九反余とあり、家の数八〇、人数三二六、馬二九、水車一、猟銃鉄砲を所持する者十三とある。
 村の生業は、主に農業、養蚕で、農閑期には男は炭焼き、女は機織りに従事した。村人は山峽に肩を寄せあうように集落をつくり、厳しい環境のなかで、つましい日々を過ごしていた。そうすることで、村落共同体を守りつづけてきたといえる。
 それを裏付けるものとして、この地に伝わる数々の民俗行事をあげることができる。
 例えば、長瀞町に属する蕪木、大鉢形、阿弥陀ケ谷耕地に伝わる、正月と盆の十六日に行われる回り念仏はその好例であろう。
 村人が庭先や村の小祠の前に集まり、太鼓や鐘を叩きながら、輪になって念仏を唱え、大数珠を互いに回してゆくという行事である。
 この行事は、そもそもは落ち武者の祖先を供養するためのものとされるが、それ以上に、日頃、共同体に支えられて生きているということ、互いの関係性の確認をするための行事であることは明らかである。こうした行事をとおして、村人たちは自らの共同体意識を高めあってきたのである。  
 村に伝わる数々の民俗行事は、また、彼らが、さまざまなかたちで、神々とのつながりを強く意識した生活を営んできたことをあらわしてもいる。
 神の宿る地として、そのシンボル的な存在になっているのが風布村の南方に控える釜伏山である。この山には村の産土神を祀る社(奥宮)が鎮座している。風布の民人にとって、そこは土地霊が宿る場所である。また、山のふもとの釜伏峠に近い場所には里宮とも言える釜山神社を祀っている。
 じつは、この神社は、明治初年の神仏分離によって、一時期、さらに麓の姥宮神社に合祀されたことがあった。にもかかわらず、村人の釜山神社に対する信仰は絶えることはなかった。のちになって再興され、今日に至っているのもそれを裏付けている。
 明治十七年十月三十一日、この風布村に異変が起こった。夜八時頃であった。釜伏山中で突如、一発の銃声が鳴り響いたのである。それはある行動を促す合図だった。以前からひそかに企てられていた動きが表面に躍り出たのである。
 風布村の蜂起はこうしてはじまったのである。だが、この動きはいちはやく警察に察知された。寄居警察署長名による次のような第一報がすでに浦和の警察本署にもたらされていたのである。
 「秩父郡風布村金尾村の困民等鳶道具を携へ、小鹿野地方へ向け押し出す模様あり。早く出張あれ。 明治十七年十月三十一日付 午后二時五分」
 その蜂起は高利貸を征伐するための行動だった。負債返済据え置きの農民の要求は、これまでも、ことごとく無視されつづけてきた。それに対する怒りが爆発したのである。
 高利貸を征伐するという行動は、当時、明治政府が推し進めようとしていた富国強兵政策に異議を唱えることを意味した。高利貸こそが明治政府の政策実行者であり、村の共同体を破壊する張本人である、という認識がそこにはあった。 
 風布村は江戸期以来、養蚕を生業にする農民が多かった。その養蚕により作り出される生糸の値段が、その頃、政府が進めていたデフレ政策によって大暴落していたのである。
 生糸の価格の下落は農民の借金を増大させ、農民を身代限り(今日でいう破産)の状況に追い込むことになった。この状況は風布村ばかりではなく、秩父一円の山村に共通していた。追い詰められた秩父の農民がいっせいに蜂起したのは十一月一日のことである。下吉田村(現吉田町)にある椋神社が集結の場所だった。世に言う秩父事件である。
 これに呼応して風布村の農民もいち早く行動に移っていた。荒川を越えた西谷にある椋神社に集合するには、前日の三十一日に風布を立たねばならなかった。八九戸の村からは五八人が参加した。その数は他の村と比較しても決して少ない数ではなかった。
 ここに後日譚が残っている。
 蜂起前日の十月三十一日、先発隊を指揮して山を下り、荒川に沿う下田野村で捕らえられた耕地オルグ大野福次郎という農民についてである。
 福次郎はのちに軽懲役七年半という刑を科せられるのだが、明治二十二年十月の大日本帝国憲法発布で恩赦になり出獄。病人のような状態で家にもどり、その後は、ほとんど寝たきりの日々であったという。だが、その彼が子供たちに言い含めたことがあった。畑仕事は、まず、蜂起で命を落とした家の仕事を手伝えと。そして、自分の家の畑仕事は夜、月明かりの中で行うように、と命じたという。
 その彼が、明治二七年四月十七日に行われた釜山神社の大祭に総代として祭りを取り仕切ることになった。
 体力が少し回復したのだろうか。福次郎は以前から熱心な氏人のひとりだった。彼にとっては、長い間、切望していた祭礼への参加であったろう。  
 ところが、祭典が執り行われているさなか、突然、福次郎の様態が急変、帰らぬ人となってしまったのである。
 この福次郎の死は、村の共同体を守るべく立ち上がり、時の政府に反抗し、その後、苛酷な人生を生きぬいたすえに、ふるさとの神に抱かれて従容と死んでいったひとりの男の死であったと、村人たちには受け止められたのである。     完
 







栃本・・・天空の里・秩父最奥の村

2022-07-02 11:02:11 | 場所の記憶
                
山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥処に位置する栃本をあげることができそうである。
 満々と水をたたえる秩父湖を左手に眺めながら、国道140号線をさらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。そこが栃本の集落である。
 現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。
 それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は強烈だった。その特異な景観に思わず息をのんだものだ。平坦地がなく、尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちる斜面ばかりの地である。それを目にした時に私は軽い目眩のようなものに襲われた。
 その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。 
 かつてその地には関所(今も建物が残る)が置かれ、旅人のための宿が用意されていたということが嘘のように思える。最盛期旅人が往きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたといい栃本の賑わいはかなりのものだったらしい。それが今は、忘れられたように、ひっそりと息づく、ただの山村に変わり果てている。
 往時、栃本は、中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある交通の要衝であった。   
 今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、賑わった頃は、栗の柾目板を葺いた旅籠が幾棟も並んでいたという。
 旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。 
 とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本〜雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。   
 この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手方向に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると、十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。
 いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。
 この街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代にさかのぼる。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。
 この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく、三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道としても栄えた。
 さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。
 秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから、塩山に送られたという。そして帰りは、馬の背に甲州の米が積まれたのである。
ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。
 記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄十二年には、信玄が小田原北条を攻めるために、この街道を使って秩父に侵入している。 
 時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19(1614)年になって、関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来,関所は、幕藩体制の防備の拠点という、重要な役割をになうことになる。
 幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割を重視したためであった。実際、この職務にあたった大村氏は、明治2年に関所が廃止になるまで、十代、250年という長きにわたって、その任についている。栃本の関所が、中山道の松井田、東海道の箱根の関とともに関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。
 当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の役宅も兼ねていた。
 現在見る建物は、天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で外観は木造平屋建て、切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。
 関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられた。
 この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永20年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。
建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授
 実は、この関所の重要性は、そこが交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。
 江戸幕府はこの地域の原生林から採れる材木に当初から目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は「東国第一の御宝山」と称されていたところであった。
 その規模は、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。
 幕府がここに関所を設けた真の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。
 ところで、奥秩父の原生林と呼ばれるこの地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。 
 こうした豊富な樹木を、幕府はけられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、村人たちは、この山から伐れた材木を一定の目的に限ってなら使える権利を認められていた。 
 伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。
 明治になり御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。
 元禄3年((1690)の記録によれば、村の人口は千八百余り。村人は、斜面の耕地を利用して、主に、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などを生産し、あとは、幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てていた、とある。
 耕作といえば、この地には、土地の人が「さかさっぽり」と呼ぶ、独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕す際に、斜面の上から下に順次鍬を入れてゆくという方法である。 
 常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定感がつくれないものである。それを、逆に、上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。
 実際、下から上に移動しながら、土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地であるのだから。
 そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したのである。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一、農作業に時間がかかる。腰は曲がるし、膝に力が入るという具合で、並の労働量ではないのである。
 それにしても、栃本の風景は、そこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもって迫ってくる。
 斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている耕地は全て畑で、他に焼畑も行われていたが、薄地のため不作が多く、猪・鹿・猿などによる被害も多いという。こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さが想像される。
 そういえば、街道脇に一本の形のいい橡の古木が陽に輝いて、この地のランドマークのように立っているのを目撃した。
その存在感ある橡の木は、あたも、栃本の歴史を見守ってきた生き証人でもあるかのように葉を広げ、深い谷を見下ろしていた。
 今も栃本は「天空の村」と呼ぶにふさわしい、秩父最奥の耕地なのである。

         

ニコライ堂

2022-06-16 11:13:22 | 場所の記憶
 お茶の水界隈にあるランドマークといえばまず、駿河台の台地上にあるニコライ堂をあげることができよう。駿河台下からJRお茶の水駅へ向かうゆったりした坂道を上って行くと、左手に緑色がかったドームを目にする。
 周囲の近代的な建物の間からひっそりと姿を覗かせている円屋根。そのさまは、東京の猥雑な町並みに絶妙に溶けあって気品ある美しさをたたえている。
 ニコライ堂の正式の名は、「日本ハリスト正正教会教団東京復活大聖堂」という。
 ニコライ堂の名で呼ばれているのは、この寺院の初代主教がニコライというミンスク(現・ベラルーシの首都)生まれのロシア人であったためである。
 建物の建立は明治24(1891)年。設計はロシア人美術家シチュルポフ、英国人コンドルがそれを修正し完成させたものだ。
 コンドルはロンドンで設計を学び、明治10年来日、その後東京に建築事務所を開設、日本の洋風建築に多大な影響を与えた人物だ。彼の作品にはこのほかにも、今は痕跡すらないが鹿鳴館がある。
 ニコライ堂に近づいて見ると分かるが、建物は煉瓦造りで、シンボルの中央ドームは高さ38m、正面はギリシア十字形をしたビザンチン様式からなる。この正堂のわきに尖頭状の鐘楼がそえられている。
 狭い敷地にこぢんまりと立つ建物ではあるが、じつに存在感がある。
 聖堂内に足を踏み入れると、中央奥に聖壇がしつらえてあるのが目にとまる。聖壇は真ん中に宝座、その左右に祭壇が配置されていて、異国臭と厳粛さに満ちあふれている。
 聖壇の左右には聖画(イコン)が分厚い煉瓦積みの壁に掲げられている。そして、鉄のサッシがはめ込まれた窓からは外の明かりが流れこみ、聖堂内に光と影の絶妙な空間をつくりだしている。
        * * * 
 僧侶の頭を彷彿とさせる円屋根をもつニコライ堂を眺めていると、思いは、はるか北の国に馳せる。
 それはロシアの大地である。若い頃、仕事で冬のモスクワを訪れたことがあった。真っ白な銀世界を背景にして見た、幾つかのロシア正教会の異国情緒あふれるたたずまいが、今でも脳裏に焼きついている。
 それはまた、感銘深く心に刻まれたロシア映画の幾つかの場面とも結びついて、より一層、神秘的な建造物として私の記憶にこびりついている。
 銀世界のなかに佇む聖堂のイメージとしては、もうひとつ、函館のハリストス正教会を忘れることができない。
 あれはちょうど数年前の雪の降りしきる2月のことだった。雪の世界にひたりたいという思いに駆られて、わざわざ函館を訪れたことがあった。 
 幾つもの坂を登ったり、下ったりしながら、町の中を地図も持たずに歩き回った。それはまさしく、あてもないさ迷いであった。それだけに、予期せぬところで、ハリストス正教会に出会った時は、雪の中に楚々と立つ、気品あふれる貴夫人にでも出会った思いがして、一瞬はっとさせられた。深く積もった雪を踏みしめながら、建物の全体が視野におさめられる場所を探し、そこに立って、まじまじと眺め見たものである。    
       * * *
 幕末の一時期、函館のハリストス正教会の建つ地にロシアの領事館が置かれていたことがある。
 そして、その領事館付きの伝道師として赴任したのがニコライ大主教であった。万延2(1861)年のことである。
 当時、日本は開国か攘夷かで、国論が二分していた。
 幕府は、開国やむなしの考えで、安政元年(1854)日米和親条約を結び、次いで、ロシアとも日露和親条約を締結。それによって函館、下田、長崎の開港を認めたのである。函館にロシアの領事館が置かれたのも、そうした変動の時代であった。
 その後、ニコライは日本全国を北から伝道を開始し、東京のお茶の水に拠点を築いた。それがニコライ堂であった。
 ちなみに、函館のロシア領事館跡にハリストス正教会が建てられたのは大正5(1916)年。お茶の水のニコライ堂が造られてから25年後のことである。時あたかも、ロシア革命の前の年であった。

亀戸事件ー偏見と差別の地でーその2

2022-03-20 22:46:37 | 場所の記憶
 彼らの虐殺の模様はつぎのようなものであった。
 虐殺は9月4日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。
 刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23歳、加藤高寿30歳、山岸実司21歳、近藤広造26歳、北島吉蔵20歳、鈴木直一24歳、吉村光治24歳、佐藤欣治35歳の8名、それに純労働組合の平沢計七34歳、中筋宇八25歳 の2人をくわえた計10名であった。
 南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく6人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町3519番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。9月3日、夜10時すぎのことであった。
 同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれも同時刻なのがきわめて計画的であることをうかがわせた。
 彼らの逮捕は当初から意図的であったために、その抹殺のされ方も計画的であった。ことさらの理由もないまま闇から闇へ、彼らは犬のように刺殺されていった。
「復も(また)も」というのは、実際は、この事件のあとで起こったのだが、世間に報道されたのが先であった大杉栄の虐殺事件のことを指している。そして、「軍の手によって」とある軍隊は近衛騎兵第十三連隊の田村春吉少尉とその部下の兵たちである。
 活動家10名を逮捕した警察は、当時、亀戸周辺の警備にあたっていた近衛連隊に彼らの処分をまかせた。警察と軍隊とが手をむすんでの虐殺行為である。
 虐殺は大震災の混乱のどさくさのなかでおこなわれたため、殺された日時も場所も現在では推定の域を出ない。しかし、周辺の状況、目撃談から総合すると、9月5日の早暁、亀戸警察署内の中庭で殺害がおこなわれたことが推定できる。
 そして、殺害後、遺体は直ちにその場で焼却されたと、新聞は報じた。しかし、焼却された場所については異説がある。近くの荒川(放水路)の河原に運ばれ、そこで焼却されたとも、大島八丁目の沼の多い原っぱで焼却されたともいわれている。実際、これらの場所から、後日焼却された死体が見つかっている。
 そもそも亀戸地区の地震被害は、他の箇所と比べると少なかった。にもかかわらず、忌まわしい虐殺行為が最も激しく、大量におこなわれたのである。
 伝えるところによると、この地区での虐殺行為の発端は、9月1日の午後であったという。それは、習志野から派遣された軍隊が、亀戸駅付近に避難していた罹災民のなかにまぎれていた、ひとりの朝鮮人を血祭りにあげたことからはじまった。しかも、その行為を目撃していた群集のなかから、期せずして万歳歓呼の声がわきあがったというのだ。
 この時期、朝鮮人来襲という流言飛語は、不安と恐怖にかられたこの地区の住民の心を完全にとらえていた。彼ら住民は自警団を組織し、見えぬ敵の来襲にそなえていたのである。
 攻撃は最良の防御でもあった。自分たちの周囲にいる朝鮮人を捕らえろ、という声が卒然として巻き起こったのである。その後は集団ヒステリーにも似た心理状態での虐殺の横行であった。
 亀戸地区を中心に大島町の各所でおこなわれた虐殺は悲惨をきわめた。軍隊と警察と自警団が連合して、朝鮮人及び中国人労働者、社会主義者を殺戮したのである。
 その土地のイメージといったものがある。
 亀戸地区が攻撃の対象になったのは、この地区が帯びていたイメージのためだった。
 亀戸地区が、外国人労働者、主に朝鮮人、中国人の多く住む場所であったことから、胡散臭い場所ととらえられていたことがその一つ。これは民族的偏見にもとづく差別的イメージというものである。二つめは、治安当局から、この地区が労働運動の拠点として、不逞の輩の集まる場所としてイメージされていたことがある。
 取り締まり当局は、これらふたつながらのイメージを、大震災の混乱に乗じて一挙に払拭すべく、虐殺行為に出たともいえる。それは「峻厳、人の肝を寒からしめる」ことを目的とした行為であった。
 当時、日本の大都市の周辺には沢山の朝鮮人が住んでいた。彼らのほとんどは、日本の植民地政策により母国の土地を奪われた農民であった。ある者は土木工事の飯場などに集団的に住みつき、ある者は工場労働者として働いていた。
 江東・南葛地区には、明治三十年代から多数の工場が誘致されていた。これらの工場は、いずれも職工数千人をこえる規模をもち、竪川や横十間川、今、スカイツリーが立つ北十間川沿いの運河に点在していた。
 工場群が川沿いにあったのは、原料および製品の運搬をすべて船運にたよっていたためである。そもそもこの地区に工場が多く集まるようになったのも“水運に恵まれた土地柄ゆえであった。
 ちなみに、大正11年の業種別工場分布をみてみると、亀戸地区だけでも化学工場六四、機械工場61、染色工場22を数えていた。いかにこの地区にたくさんの工場が集まっていたかが知れよう。朝鮮人などの外国人労働者の多くがこれら工場の労働者として働いていたのである。
 大正という時代は東京がモダン都市化してゆく時代であった。都市化の進行によって、都市のなかに暗闇が成立する。それは秘密めいた空間である。治安当局が、そうした空間を胡散臭い、禍々(まがまが)しい場所ととらえたのも自然の成り行きであった。
 そして、その闇の部分を、暴力をもって取り除こうとした。大震災の混乱に乗じておこなわれた虐殺行為は、そうした意図のもとで起きたのである。
 犠牲者たちはいずれも正式な死亡届けのないまま、戸籍から消されず、それゆえに墓もない状態であるという。
 現在、亀戸天神にほど近い浄心寺というこぢんまりした寺に「亀戸事件犠牲者之碑」がひっそりと立つばかりである。

タイトル写真:浄心寺・赤門

亀戸事件ー偏見と差別の地でーその1

2022-03-11 10:44:37 | 場所の記憶
 大正12(1923)年9月1日、東京、横浜を中心にマグネチュード7・9の烈震が襲った。これにより首都壊滅という誰もが予想しなかった未曾有の事態が起きた。その混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をくわだてている」という流言飛語が飛び交い、忌まわしい虐殺行為がくりひろげられた。
 私は、その事実を知った時、そうした社会心理の発生は、この令和の現代でも無関係ではないな、と直感した。あの阪神大震災の際にも、どこからともなくそのような流言が起きたと聞く。現に、昨今、白昼堂々と、排外主義にかられて「朝鮮人を殺せ」というスローガンを掲げ、デモをする集団がいるほどである。
 流言は不特定多数の人間が住む大都市でこそ、その真価を発揮する。都市の不透明さが流言のひろがりを容易にする。そしてそれに惑わされる人々の恐怖心も増大する。流言は場所に定着せず、文字どおり流れ飛び、流言飛語となる。どこから発したかも確認できないまま、デマはデマを及び、人々はそれに惑わされ動き出すのである。
 関東大震災とよばれるその大地震は、昼餉の支度をしている、ちょうど正午頃に起きた。 
 それが被害を拡大することになった。各家庭で使っていた火が大火災の誘因となったのである。火はおりからの風に煽られ大旋風をともなって延べ三日間、40時間にわたって町を燃え尽くした。
 とくに東京の下町地区の被害は甚大であった。地盤の弱い土地柄のため、木造家屋の倒壊がめだち、その結果、各所で火災が発生した。大火災は9月3日、午後になってようやく鎮火したが、帝都の大半は文字通り焦土と化した。
 地震と火災による死者は東京市にかぎっても58000人、被害世帯数は全世帯の73%、350400世帯におよんだ。
罹災者が広場や公園、焼け残りの施設にあふれた。恐怖と飢餓がないまぜになって、市中の混乱は極度にたっしていた。
 この状況をうけて、治安当局は、9月3日夕刻、首都一円に戒厳令の布告をしている。戒厳令は大日本帝国憲法八条にもとづく行政戒厳令で、これは平時の際に発令される戒厳令だった。
 そもそも戒厳令布告の決定の背景には、警察当局の秩序維持にたいする極度の不安、それはやがて朝鮮人が暴動をくわだてているという予断へと変質していった。
 時の内務大臣水野錬太郎は、後日、戒厳令布告をきめたのは「朝鮮人攻め来るの報」を耳にしたからだ、と語っている。それはあくまで流言飛語であったが、予防措置としての朝鮮人の「暴動」取り締まりが、警察と軍隊の通信網をつうじて伝えられることで現実のものになっていった。  
 このどさくさに、警察は軍隊と協力して「主義者」も不逞の輩として取り締まりの対象にした。
 大震災による混乱のもとで、信ずるべき情報は警察情報だけであった。しかもその警察情報がこともあろうに、虚偽の内容に基づいて流されたわけだ。
 やがて、東京のあらゆる地区に自警団なるものが組織されることになる。自警団は警察から暗黙の権限をあたえられ、公然と朝鮮人虐殺行為をはじめるのである。日常的差別によって、彼らから恨みを買い、報復されかねないという日頃の疑心から発した行為であるとすれば、これほどおぞましいことはない。
 かくして、大震災という天災のあとに、目を覆いたくなるような朝鮮人にたいする蛮行や虐殺、あるいは「主義者」の惨殺がおこなわれることになった。
 東京市における朝鮮人虐殺の事実は、下町地区を中心に関東一円に及んだが、なかでも府下亀戸地区でくりひろげられた惨劇はその代表といえた。
 10月21日付けの『読売新聞』は、当時の亀戸地区の状況をつぎのように伝えている。
 「震災当時、最も東京市内鮮人騒ぎの激しかったのは、江東・南葛方面で、亀戸署の如きは、平常管内236人の多数が居住し、これら全部筋肉労働に従事し、なお同種の支那人が200名近くも居る事とて非常の騒ぎで荒川放水路を境として東南から東京方面にかけて、・・・まるで戦場のような騒ぎで、2日から5日にかけて、亀戸署の検束者720名中400名は鮮人であり、また、南葛労働の平沢外9名の死体と共に焼棄した百余命の死体中には、之等○○○(伏せ字)く、これは至る所で惨殺されていて路傍に棄てられていた」
 この記事が明らかにしているように、大震災後の混乱のなかで朝鮮人の殺害ばかりでなく、亀戸地区に拠点をおいていた労働組合幹部の虐殺がおこなわれたのである。世に言う亀戸事件である。
 当時、南葛(南葛飾郡の略、現在の江東地区)地区は、「我国に於ける左翼労働者運動のいち早き発祥地であり、それはやがて左翼労働運動の本流をなし、無産階級解放運動全体の上に絶大なる影響をもたらした根拠地」(『評議会闘争史』 野田律太)であった。亀戸事件とは、そうした日本の労働運動の拠点を壊滅させるために、日本の軍隊がその活動家10名を抹殺した事件だったのである。
続く

タイトル写真:亀戸・浄心寺境内にある慰霊碑

秩父事件 ・・・・山の民の反乱ーその2

2022-02-25 22:12:28 | 場所の記憶
 困民党軍が大宮郷に入った時、郡の権力機関はすでに事の成り行きを察知して姿をくらましてしまっていた。
 この事態は困民党軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのだが、実際はそうならなかった。意外な感じだった。
 それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平である。
 猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。
 壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書が破棄されたことは言うまでもない。
 一方、豪商を対象に、軍用金の調達が行われた。その際、総理田代栄助名義の革命本部発行の受領書が出されている。また、刀剣類を差し出すことや炊き出しの要求も行われた。
今や大宮の町はパニック状態であった。商家のほとんどが鎧戸を閉めてしまっていたため、町は暗さが一層きわだった。その中を怒号と歓声がどよめき、困民党の面々が黒い塊となってうごめいた。
 疾風のように通り過ぎた困民党軍の破壊行為が一段落すると、町は奇妙に静まりかえった。うっそうたる樹木に包まれた秩父神社の境内に彼らが退いていたからである。すでに東の空がしらみはじめていた。
 困民党軍は郡役所を革命本部と定め、分営を秩父神社近くの小学校に置いた。
 明けて十一月三日。その日は天朝節の日であった。
 夜が明けると、昨夜来の騒ぎがまるで嘘のように、軍団の動きが鈍くなっていた。明らかにひとつの目的を達してしまったあとの虚脱感がただよっていた。
 そんな時である。憲兵隊と警察の一団が群馬県側から西谷の奥にある城峰山に進出し、早晩、大宮郷に向かってくるだろうと“いう情報が困民軍本部にもたらされた。
 恐れていた事態が訪れたのだ。いよいよ本当の戦いがはじまるのだという予感が皆の頭をよぎった。今までの弛緩した気持ちが一気に消し飛んでいた。
 ただちに、それを迎え撃つために、軍団が三隊に分けられた。甲隊は西からの襲撃に備え、荒川の竹の鼻の渡しを守ること、乙隊は北からの攻撃に対して大野原で迎え撃つこと、そして、丙隊は大宮郷にとどまって防衛をかためること、が決められた。
 そうしたなか、しきりに虚報が飛び交っていた。虚報に躍らされて、軍団の統率が乱れはじめていた。当初、決めた各隊の配置にもかかわらず、なぜか、甲隊は小鹿野から下吉田方面へ、乙隊は大野原からさらに北上して皆野へと移動していた。 
 この間、激しい戦闘も行われていた。甲隊の別動隊五百名が、城峰山のふもとにある矢納村で、群馬方面からやってきた警官隊と衝突、警察側に大きな損害を与えたのもそのひとつである。また、皆野に進んだ乙隊は、憲兵隊と荒川の親鼻の渡し付近で戦闘をくりひろげた。憲兵隊はこの時、最新式の村田銃を使用して困民党軍を撃退している。
 四日に入ると、警察、憲兵隊、東京鎮台一中隊の態勢は一段と強化された。秩父に至るすべての街道が封鎖されたのである。
 一方、革命本部の置かれていた大宮郷はというと、そこは蛻の殻になっていた。大宮郷にとどまっていたはずの丙隊のほとんどが、いつの間にか皆野に集結していた乙隊に合流してしまっていたからだった。その空になった町では、赤鉢巻きの武装した町の青年層が、困民軍を迎え撃つための自衛隊を組織していた。
 大宮郷に警察と軍隊が進出してきたのは、それからほどなくしてからだった。同じ頃、東京憲兵隊の一個小隊も皆野から大宮郷に入っている。十一月五日のことである。
 すでにこの時、皆野に布陣していた困民党軍の本部は解体していた。総理田代は持病の胸痛の再発で一線から脱落、ほかの幹部たちもいずこともなく姿を消していた。
 この本部解体のあと、東京をめざして、秩父郡に隣接する児玉郡の金屋に進出した大野苗吉に率いられた一隊があった。彼らは東京鎮台兵との激しい戦いのあと壊滅した。また、菊池貫平に率いられて、信州へ転戦した一隊があった。
 彼らは神流川沿いの群馬県側の山中谷をぬけ、駆り出しを繰り返しながら、佐久の東馬流まで転戦し、さらに八ヶ岳山麓の野辺山原で力尽き壊滅した。東馬流には、今「秩父暴動戦死者之墓」と記された立派な碑が建てられている。
 警察は、十一月五日、早くも事件参加者の逮捕に乗り出した。大宮郷、小鹿野、熊谷、八幡山には暴徒糾問所が設けられ、参加者の厳しい取り調べがはじまった。
 後日、裁判にかけられた者の数が明らかにされた。それによると、埼玉県内の逮捕者三千六百十八名。内訳は重罪二百九六名、軽罪四百四八名、罰金科料二千六百四十二名というものであった。重罪中には、のちに死刑になる、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、それに、逃亡して欠席裁判で死刑を言い渡された菊池貫平、井上伝蔵の二人が含まれていた。
 事件は終息し、秩父の山峽はもとの静けさに戻ったかのようであった。
 が、事件後、半年たった明治十八年六月二日付けの『東京日々新聞』は、秩父の現況を以下のようになまなましく伝えていたのである。
 「大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず・・・。大抵右の貧民は小麦のフスマ或は葛の根を以て常食とし、死馬死犬のある時は悉く秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上とす」 
 生活の困窮の果てに蜂起した秩父の農民の意思は、強大な権力の前に空しく潰えたのであるが、事件後、彼らの窮状は、さらに苛烈をきわめ、農民たちの肩に重くのしかかってきていたのである。
 それでもなお、蜂起に参加した秩父の農民たちは、その後も、幾重にも連なる山々の峰を日々見つめながら、困苦のなかで生活するしか手だてがなかったのである。そこで生をうけ、育った者にとって、秩父は決して捨て去ることのできない場所であった。
 最後に、欠席裁判で死刑を宣告された参謀長菊池貫平と会計長井上伝蔵のその後について触れておこう。
 菊池は信州に転戦したあと逃れぬき、甲府市内のさる博徒の親分の家に身を寄せているところを逮捕された。明治十九年秋のことである。その後、網走監獄に収監され、幾度かの恩赦をへて、十八年後の明治三八年二月、懐かしい故郷佐久に帰ってきた。白髪の長い髪と長い髭をたくわえた、この不屈の男はどんな思いで故郷の地を踏んだことだろう。その時、貫平五七歳。大正三年三月十七日に亡くなるまで、息子の家に身を寄せ、悠然と構える日々を過ごしたという。
 そしてもうひとり生きばてとされていた井上伝蔵。
 伝蔵は下吉田村で絹の仲買をする商家の主人だった。れっきとした秩父の自由党員で、東京の自由党本部に出入りするほどの人物だった。困民党には早くから加わり、幹部となっていた。
 困民党解体のあと、彼の行方はようと知れず、そのうち人々の噂にもならなくなっていた。
 大正七年六月二十三日のことである。北海道の野付牛村(現在の北見市)の自宅で、今や臨終の床にあるひとりの老人がいた。老人は家族を枕辺に呼び寄せ、ある重大な告白をなした。実は、自分は井上伝蔵といい、あの秩父事件の首謀者のひとりであると。妻をはじめ、これを聞いた家族は皆驚愕した。 
 事件後、伝蔵は新潟から船で逃れ、北海道に渡って、札幌郊外の石狩に住み着いた。そこで再婚し、子供をもうけ、新天地でひそかに生きていたのである。その気の遠くなるような長い歳月を伝蔵はどんな気持ちで過ごしたのだろうか。
 当初は、再起を図ったことだろう。しかし、世の中の動きは彼の思惑をこえて転変していった。ひっそりと市井に生きる伝蔵の、ささやかな楽しみは俳句をつくることだった。地元の結社にも参加し、「柳蛙」の俳号を名乗って句作を楽しんだ。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」の句など多数の句が今も残る。享年六五歳の生涯であった。  完

タイトル写真:映画「草の乱」のスチール写真より










秩父事件 ・・・・山の民の反乱ーその1

2022-02-19 08:55:59 | 場所の記憶
 秩父は山深い地である。いまでこそ、その深い山をぬって、舗装された山道が通じているが、その出来事が起きた時代には、どれほどか辺鄙な山峽であったことかと想像される。 
 地図を広げて見ると、秩父という地が荒川によって引き裂かれ、東西に分断されている盆地状の地域であることが分かる。その荒川は、山梨、埼玉、長野三県の分水嶺にあたる甲武信岳に源を発して東に流れ、さらに北流して、この盆地を貫いている。
 地元では、荒川を挟んで東側を東谷(ひがしやつ)、西側を西谷(にしやつ)と呼ぶ。なかでも、西谷と呼ばれる地域は、西方向に奥行き深く延びて、いずれも山深い地であることで知られている。
 大小の河川が谷を縫うようにしてめぐり、それら河川がつくる沢に沿って集落が点在する。集落は、よもやこのようなところにと思われる山の急斜面や、谷の底にうずくまるように、突然、その姿を現すのである。
 それら集落はどれも戸数が少ない。それは10戸、20戸の規模である。家々の前に広がる、わずかな空間に耕地がつくられ、互いの耕地を結びつける私道が行き交っている。せこ道と呼ばれるこの私道が、唯一、村人たちの交流の回路になっている。
 この秩父の山峡は、江戸時代から養蚕の盛んなところであった。耕地が少ない山民は、農作ではなく、蚕を飼い、生糸をつくるという生業で生活を成り立たせていたのである。主業は養蚕で、農耕山林の仕事はむしろ副業であった。彼らは生糸という商品を生産し商うという、小商品生産者的農民であった。
 明治15年頃のことである。当時の政府がおこなっていた緊縮政策(松方デフレ政策)によって全国的にデフレが吹き荒れていた。そうしたなかでおこなわれた、不換紙幣の整理と軍備拡張のための増税は、いっそうの金融閉塞という名の金詰まりをきたし、国民を苦しめた。養蚕による生糸の生産地として繁栄してきた秩父も例外ではなかった。 
 デフレによって、生産物である生糸の値段が大暴落したのだ。ために、養蚕農家は資金繰りに苦しみ、誰も彼も高利貸からの借金が嵩むことになった。ある者は一家逃散、ある者はみずからの命を断つという形で借金地獄から逃れる者が続出した。身代(しんだい)限りという名の生活破産が蔓延した。それは、昔からの生活基盤である共同体の崩壊を予感させた。
 一方、養蚕農家が困窮しているなか、高利貸だけが豊かさを享受していた。彼らは狡猾に農民に対した。 
 借金の累積に苦しむ農民には苛酷に、役所や警察にはあらかじめ手を打っておいて、不当な借金の実態を隠蔽した。養蚕農家の生活はますます逼迫していった。 
 こうした状況下にあって、農民たちも耐え忍んでばかりいたのではなかった。山村共同体の崩壊を目の前にして、彼らの危機感は募っていた。最初は数人の者たちの行動であったが、やがて、行動の輪はひろがり、自らを守るために組織づくりをはじめることになった。はじめは負債延期請願運動として、やがて、それがかなわぬと知ると、武装蜂起を視野においた困民党という名の組織を成立させた。
 組織づくりは山峽を縫い、耕地を駆け巡り、集落から集落へ隠密裡に何カ月にもわたって積み重ねられていった。
 その活動は容易ではなかった。困窮の極限にあってもなお現状に甘んじようとする農民を説得し、組織化するのは、まさに石に穴をうがつ努力に等しかった。
 が、やがて、彼らの努力が成果を結ぶ時がくる。山林集会と呼ばれる農民たちの集まりが、警察の目を逃れ、山林のあちこちで幾度も行われるようになるのである。
 状況はいよいよ切迫していた。一般農民がリーダーたちを突き上げていく。もはや直接行動に出るほかない、というのが彼ら一般農民の考えであった。リーダーの意志は蜂起へと向かっていく。
 山は燃えていた。
 蜂起の日は明治17年11月1日と定められた。そして、その日がやってくる。 
 晴れ渡った秋空が広がるその日の昼過ぎから夕刻にかけて、どの山峽の集落からも続々と農民たちが下吉田村にある椋神社目指して動きはじめた。椋神社は阿熊渓谷を東にみる森につつまれた高台にある。
 その数およそ3000名。いずれの農民も白襷、白鉢巻姿で、各々刀や火繩銃、竹槍を手にしていた。椋神社は秩父神社とともに秩父盆地を代表する神社である。
 黒々とした杉の木立にまざって、見事に紅葉した大きな銀杏の木々が立ち並ぶ境内には秋の気配が濃く漂っていた。
神社のまわりに広がる田の畦道につくられた稲架には、取り込みの遅れた黄金色した稲の束が並べられていた。あるいは、迫り来る冬にそなえて麦まきのさなかであった。 
そのような時である。武装した農民たちが下吉田村にある椋神社に集結したのである。 
 日が落ちると共に、武装農民の黒い塊が境内にあふれた。十四夜の月が煌々と中天に輝く夜の神社。今、その神社の拝殿前にひとりの黒い男の影が浮かびあがっている。
 それは総理にかつぎ上げられた田代栄助の小太りのずんぐりとした黒い影である。彼は大宮郷に住む信望の厚い博徒であった。
 まず、田代が困民党軍の役割を発表。つづいて、参謀長の菊池貫平が高らかに軍律五カ条を読みあげた。菊池は秩父の峠を越えて、はるばる信州の北相木から馳せ参じた、代言人を生業とする男である。菊池の政治目標はこの頃盛んであった自由民権の実現であり、そのための早期国会開設だった。彼は正式の自由党員でもあった。この時、菊池38歳。
 午後8時、鬨の声と共に、甲乙二隊に分かれた軍団は、竹法螺を吹き鳴らし、それぞれが小鹿野を目指して出発した。
 部隊は、鉄砲隊、竹槍隊、帯剣隊とからなる二列の長い縦隊をなして進んで行った。その規模といい、規律のとれたさまといい、それは百姓一揆とはいえない、まさしくひとつの意志をもった農民の軍団であった。 
 甲大隊の隊長は新井周三郎といった。彼は小学校の若き教師である。甲隊千五百名ほどの農民は吉田川をさかのぼり、巣掛峠を越えて小鹿野の町を西から急襲した。
 一方、乙大隊はこれまた教員の隊長飯塚森蔵の指揮のもと、椋神社をそのまま南に下り、下小鹿野に出、東から小鹿野町に入った。小鹿野の町を東西から挟撃する作戦であった。 
 小鹿野の町は街道筋に細長く延びる古い町で、町を背に低い山並みが連なっている。その山影が黒々と夜空を画し、町を一層暗くしていた。
 当時、小鹿野町は大宮郷に次いで大きな町であった。商家も多く西秩父の農村を後背地に控えて、高利貸が集まっていた。
 困民党軍が小鹿野を襲ったのは、そこに彼らが仇敵とする高利貸がいたからである。怒涛の勢いで町に入った農民軍は高利貸の家を打ち壊し、火を放った。が、そこには規律というものがあった。
 農民軍団は、その夜、町の北はずれにある木立に包まれた諏訪神社(現小鹿神社)に参集し、近在の農家に炊き出しを命じて露営した。 
 町は不気味に静まりかえる夜を迎えた。 
 翌二日早暁、困民党軍は隊列を組みながら黒い塊となって諏訪神社を出立する。隊伍の先頭には「新政厚徳」の大旗がひるがえっていた。
 目指すは郡都大宮郷(今の秩父市)である。鉄砲隊を先頭に、3000を越す農民軍は、長い隊列を組んで町の東方面に通じる街道を進む。進むうちに周辺の農民を巻き込みながら、隊列がふくらんでいった。
 やがて軍団は小鹿野原と呼ばれる桑畠の広がる地に出た。その畠道を縫って赤平川を渡った。そこからは、ややゆるい登りとなり、それを登りつめると小鹿坂峠に出る。
 時に午前11時。峠からは、目の前に武甲山の無骨な山容が立ちはだかるのが望めた。眼下には秋の陽を溶かして、荒川がのどかに流れているのが見え隠れする。
 その対岸には、黒い塊となった大宮郷の家並みが南北に細長く望める。農民たちの胸の内には、万感の思いがあふれていた。
 それは、今ようやく、自分たちの苦しみが何がしか解き放たれるのだ、という思いであった。新しい世界をこれから自分たちでつくってゆくのだ、という希望に膨らんだ思いでもあった。
 峠を少し降りたところに秩父札所二十三番の音楽寺がある。黒い軍団はそこにも群がっていた。皆が厳粛な気分に満たされている、その時であった。音楽寺の鐘が力をこめて打ち鳴らされた。
 それはあらかじめ申し合わせておいた大宮郷へ突入するための合図であった。鐘の音は高らかに、響きのある音色を、澄みわたった大気のなかに溶けこませながら流れてゆく。 
 期せずして、勝鬨の声があがる。誰の胸の内にもはち切れんばかりの怒りがこみ上げていた。
 歓声をあげながら、彼らは音楽寺から荒川に下るつづら折りの狭い山道をいっせいに駆け降りて行った。
 秋色濃い荒川の河川敷を目の前にして、誰もが一気に川を渡るつもりでいた。荒川の水嵩が、人が歩いて渡れるくらいになっていることを、彼らは先刻承知していたのである。この時、困民党軍の数は、駆け出しと呼ばれる強制参加の呼びかけの効果もあって、五千という規模に膨らんでいた。
 この蜂起にあたっては駆け出しという伝統的な手法が使われていた。それは共同体を守り抜くための、いわば暗黙の共同体規制であった。
 われ先にと川を渡って行く軍団は、こうして郡都大宮郷になだれ込んで行ったのである。 続く

タイトル写真:秩父・吉田椋神社境内(秩父事件百年顕彰碑)


桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその2

2022-02-11 18:53:11 | 場所の記憶
 が、ついに、その時がやって来た。
 彦根藩の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。
 行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての、いつもながらの大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。何かを警戒する様子はなかった。
 手はずのとおり、十八名の男たちは、すでにそれぞれの配置についていた。彼らの出で立ちは、合羽姿の者、羽織を着る者とさまざまだった。
 雪の降る見通しの悪い日であったので、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。
 佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側に待機していた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわをそぞろ歩いていた。さらに斎藤、蓮田、広木、鯉淵、岡部らが後攻めとしてその後方についた。そして、ひとり関鉄之介が全体の指揮をとるべく桜田門際の濠側に立っていた。 
 井伊の行列の先頭が、濠沿いから今まさに桜田門方向に向きを変えようとする時だった。 
 襲撃のきっかけをつくったのは桜田門辻番所のそばに潜んでいた森五六郎だった。
 森が下駄をぬぎ捨て、雪中を駆け足で、あたかもなにかを直訴でもするように行列に近づいた。そして、やおら饅頭笠をはねあげると、羽織を脱ぎ捨てた。
 すると、中から白鉢巻きに十文字の襷姿が現れた。森はただちに抜刀すると行列に襲いかかった。
 その時、銃声が一発、鳴り響いた。それは全員が行動を開始するための合図の銃声だった。黒沢が撃ったものだった。
 ついに、襲撃がはじまったのである。
 行列は千々に乱れて、すぐさま乱闘となった。襲いかかる者、それを防ぐ者。
 襲撃の側が左右から押し寄せたので、襲われた方は狼狽した。しかも、井伊家側の供廻りは、雪の降るこの日、刀身が湿気ないように皆、鞘を袋で覆っていたため、すぐさま抜刀できないのが致命的だった。
 慌てたのは襲われた井伊側ばかりではなかった。襲撃側の浪士たちにとっても、前日に決めた段取り通りに事は運ばなかった。
 敵味方、間違わないようにと取り決めた白鉢巻き、白襷姿の装いは守られなかった。雪の降りしきる中、味方同士、刃を斬り結ぶ者がいた。
 狂気の眼は、冷静な判断を失わせていた。間合いをとって斬り合うなどということはなく、身体をぶつけ合い、鍔ぜり合いをしながら斬り結んだ。そのため、指が取れ、耳を切り裂かれるといった者が多く出た。 
 乱闘のさなか直弼の駕籠は地上に放置されていた。駕籠の陸尺が恐怖のあまり逃げ出したのである。それを目ざとく見つけた稲田が深手の身体であるにもかかわらず、よろけながら近寄り太刀を両手で支え、駕籠をぶすりと刺し貫いた。
 これを見た海後がつづいて刺す。さらに佐野が。最後に、有村が業を煮やして駕籠をかき開け井伊直弼の襟首をつかんで引きずり出す。この時、すでに直弼は虫の息であったという。
 有村は直弼の首をかき取り、それを刀の先に突き刺して、ふり絞るような声で何かを叫んで歓声をあげた。
 直弼の首級をあげた後も闘いは散発的につづいたが、戦闘はわずか10分ほどで終わった。白い雪があちこちで真っ赤に染まるなかに、斬り倒された者が点々と横たわっていた。
 この戦闘の結果、浪士側の犠牲者は、その場で斬り倒された稲田をはじめ重傷を負って、その後、自栽あるいは絶命した佐野、広岡有村、山口、鯉淵、斎藤、黒沢ら八名に及んだ。また、大関、森山、杉山、蓮田、森ら5名は、襲撃の後、斬奸状を携えて自首。残りの者は逃亡した。
 一方、彦根藩側の犠牲者は、井伊直弼ほか、8名(内四名は重傷を負ってのちに死亡)が死亡、10名が負傷した。また、この乱闘に藩邸に逃げ帰った7名が斬首されている。
要撃側の人間はほとんどが水戸藩脱藩の下中級の次、三男の青壮年だった。開国か攘夷かで国論が二分されていた幕末の社会状況のなか、彼らもその対立の波に呑まれていったのである。 
 時の幕府は、大老井伊直弼の独断で開国政策をおし進め、対立する尊王攘夷論者の徹底的な粛清を計っていた。世にいう安政の大獄である。
 水戸藩は尊王攘夷論の牙城であった。朝廷は水戸藩に勅命書を下し、攘夷の実行と幕政改革を求めた。これに対し、井伊直弼は勅命を無視して、開国を断行し、強権をもって水戸藩を弾圧した。
 この井伊の措置に反発した一部の水戸藩士たちは、井伊を倒すことで、政治の流れを変えようと試みた。彼らは脱藩し、大老打倒の行動を起こしたのである。
 この桜田門の変のあと、幕末の社会は血生臭いテロが続発し、やがてそれが幕府崩壊への道を加速させたとも言われている。
 力をもって現状を変革できるという期待感を、この出来事は尊王攘夷を信奉する武士たちに抱かせたことになる。 
 回向院には、現在、この事件関係者の墓碑が十六基並び立っている。大関、森、森山、杉山、蓮田ら5名の自首した者と関、岡部ら逃亡ののち捕まった者たちの墓が計七基。彼らはいずれも、武士の名誉としての切腹ではなく死罪を申し渡され、断首されている。
 このほかに戦闘で死亡した者たちの墓が八基。彼ら8名の遺体は事件後、塩漬けにされたあと首を斬られ小塚原に打ち捨てられた。さらに、大老襲撃には直接参加していなかったが、計画の首謀者である金子孫次郎の墓がある。金子はのちに、四日市で捕縛され死罪になった。
 18名の参加者のうち、逃亡した広木松之介は二年後、同志のほとんどが死に絶えたことを知って絶望し自刃した。残る増子金八、海後嵯磯之介の二人は、明治の時代まで生き延びた。
 今、桜田門事件のあった辺りには、過去の面影は微塵もない。旧彦根藩邸には現在憲政記念館が建ち、乱闘のあった警視庁前辺りは広く拡張され、車の往来がしきりである。通り沿いには近代的な建物が林立し、その反対側には静まりかえった濠と、皇居の緑のかたまりを望むばかりだ。
とはいえ、その地に、ひとつの歴史的出来事の記憶が深く刻み込まれていることには変わりない。   完

タイトル写真:回向院(南千住)桜田門外の変、関係者墓地
 

桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその1

2022-02-04 11:50:41 | 場所の記憶
 JR 常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。
 以前は、寺域もかなりあり、その背後には、広大な野晒しの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。 
 この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために新たに開かれたのがこの寺だった。
 この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、25万人を数えるといわれている。人も近づかない空恐ろしいところであった。 
 そもそも小塚原の名の起こりは古く、遠く平安の時代にさかのぼる。
 言い伝えによれば、源氏の頭領、源義家が、奥州征伐の帰途、賊の首四八体をこの地に埋葬したことからその名がついたという。その塚を古塚原とも骨ケ原とも書いたといい、現在の南千住一帯をそう呼ぶようになった。 
 時は下り、江戸の末頃になると、国事犯がここで処刑され、この寺に埋葬されることになる。
 それを物語るかのように、今は狭くなってしまった墓地内には、首切り地蔵が残り、歴史に名を残す刑死者の墓を幾つも見ることができる。 
 そのひとつ、墓地の中央、ブロック塀で四角に区切られた墓域にいかにも、それと分かる墓碑が並んでいるのを発見する。いかにもというのは、肩を並べるように立つ墓列が、ひとつの意志を表しているかのように見えるからである。
 今にも消え失せそうな、墓石に刻まれた死者の名をなぞるように読み取ってゆく。
 吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、関鉄之介、・・・居並ぶ墓碑名をつなげてゆくと、そこにひとつの歴史の記憶がよみがえってくる。墓石のわきに万延元年の没年を刻むものが多い。間違いなく、それは安政の大獄にかかわる関係者たちの墓である。
 なかでも私の目をひいたのは、桜田門外の変で井伊直弼殺害に加わった者たちの墓である。
 あの時、大老襲撃に加わった者は、総勢18名だった。そして、ほとんどの者が捕まるか討ち取られてしまった。
事件の顛末は次のようなものであった。
 万延元年三月三日。その日は上巳の節句にあたり、慣例により、各大名が将軍に拝謁する日と決められていた。大老井伊直弼も当然登城するはずだった。
 一方、水戸藩脱藩の浪士たちは、その日を千載一遇の機会ととらえ、井伊直弼襲撃の日と定めていた。
 例年ならば、桜が開花する時期でもある。が、その日は、あいにく、明け方からの雪が降り積もって、見渡す限りの銀世界になっていた。
 井伊直弼が登城する時刻は遅くとも五ツ半、今の午前九時頃と思われた。
 これに対して、水戸脱藩士たちは、昨夜から止宿していた品川の妓楼、相模屋を早朝に出立していた。
 この妓楼は、土蔵造りであったことから、通称、土蔵相模と呼ばれ、尊王攘夷運動に奔走する浪士たちがよく止宿する妓楼だった。
 実行班に選ばれた者は、関鉄之介をはじめ、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、海後嵯磯之介、稲田重蔵、森山繁之介、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、山口辰之介、増子金八、杉山弥一郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広木松之介、鯉淵要人、岡部三十郎、有村次左衛門 ら18名である。有村を除けばすべて水戸藩を脱藩した浪士たちである。
 彼らは、前夜から大老襲撃の打ち合わせを積み重ね、悲憤慷慨して酒を呑み交わしながら夜を明かした。
 朝外を見ると、いつの間にか積ったのか、外は銀世界になっていた。彼らはその雪を計画が成就する吉兆と受け止め、互いに喜びあった。
 やがて、彼らは気取られないように、三々五々宿を出た。めざすは、あらかじめ決めておいた集合場所である愛宕山だった。そこには、すでに薩摩藩からただひとり参加した有村次左衛門が待っていた。
 一同は愛宕権現に大願成就を祈願したあと、新橋を通り、左に道をとって(現在の祝田通りから左折して桜田通りへ)桜田門に向かった。
 桜田門近くの濠端に近づくと、雪の日にもかかわらず、すでに人の影があった。登城する大名行列を見物する人を当てこんだ傘見世と呼ばれる屋台も出ていた。 
 彼らはその見物人にまじって、「鑑」(大名行列の詳細を記したガイドブック)を手にしたり、屋台にたむろしたり、ある者は濠の鴨を見物するふりをしたりして時を待った。誰もが胸の高まりを押さえ切れない状態にあった。寒さも加わり、武者震いが止まらなかった。その時が待ち遠しくもあった。 つづく

タイトル写真:「桜田門外の襲撃之図」(月岡芳年)

天狗党壊滅 ----- 異境の地に消えた数多の命ーその2

2022-01-28 20:11:05 | 場所の記憶
 天狗党の一団が一カ月以上にもわたる長旅の果てに、ようやくたどり着いた地は敦賀だった。元治元年十二月十一日のことである。ようやくのことで山中を抜け出て、日本海側に出られるという期待感が彼らには強くあった。そして、自分たちの願いがいよいよ聞き遂げられる日が近づいたという思いが、誰の胸のうちにも熱くこみあげていた。
 ところが、その矢先に事態が暗転したのである。敦賀の地に足を踏み入れるということは、彼らの意志が潰えさることを意味していた。
 やっとの思いで加賀藩領にたどりつき、京にいる慶喜に自分たちの嘆願を述べたてる文書を送った結果が、降伏せよとの返答であった。
 しかも驚くべき事態を知ることになった。頼りの慶喜が天狗党の追討総督になっているではないか。裏切られた思いと、なぜそのようなことになったのかが容易に呑みこめなかった。
 これは予期しない出来事であった。彼ら天狗党には信じがたい内容であった。幹部たちの間で昼夜を分かたずの激論がかわされたことは言うまでもない。
 天狗党を終始指導してきた藤田小四郎は考えたことであろう。天狗党には遠大な計画があったはずであると。
 その遠大な計画というのは、前藩主斉昭の子が藩主になっている鳥取藩や岡山藩の同志たち、及び尊攘派の拠点になっている長州藩と連携し、朝廷に働きかけ、幕府に攘夷の決行を迫るというものであった。天狗党の決起はそれに同調するための行動であった。それが何故にこのような事態になったのかと。 
 だが、天狗党が一カ月に及ぶ長旅をしている間、事態がそのようには動いていなかったことを誰も知らなかった。それどころか、尊攘派の動きは完全に封殺されていたのである。
 そもそも、慶喜に面会し、自分たちの志を陳述すれば、嘆願の意志がつうじると考えたこと自体が、一方的な思いこみであったとしか言いようがない。
 いまにしてみれば、血気にはやる気持ちばかりが先行した行動であったと反省された。現実を目の前にすれば、やはり、すべてが幻想でしかなかったと思わざるを得ない。いまや降伏するほかなかった。
 武装を解かれ、敦賀の町に入った総勢八百二十三名の天狗党の面々は、さっそく敦賀湾に近い町中の本勝寺、長遠寺、本妙寺の三つの寺に分散して収容されることになった。それは客人としてではなく、追って沙汰ある身としての捕らわれの境遇であった。
 当時、敦賀は加賀藩の領地であった。彼ら天狗党の身柄は加賀藩預かりとなったのである。
 加賀藩の天狗党に対する扱いは終始、丁重であったと言われる。ところが、一カ月ほどたち、天狗党の身柄が幕府側に移されると同時に、突然、彼らの扱いは激変した。
 一月二九日のことである。全員が寺から海辺近くにある狭苦しいニシン蔵に駕篭や徒歩で移送されたのである。 
 移送の当日、通りの要所要所には、警備の兵士が手に抜き身の槍を携えて立った。家々は鎧戸を閉め、町は静まりかえっていたという。 
 ニシン蔵というのは、その名のように北海で獲れた産物、主に肥料用のニシンを貯蔵する蔵である。回送問屋が所有していたその蔵を強引に空けさせたものである。
 当時、船町(現在の蓬莱町)にあった倉庫のうちの十六棟に彼らは押しこめられた。
 間口五・七メートル、奥行十一メートルある蔵には窓があったがそれもふさがれた。土間には筵が敷かれ、中央に排便用の桶がしつらえてあった。収容された者たちは皆、松板でつくった足枷を左足にはめられた。   
 そして、蔵の周囲には竹矢来が組まれ、武装した兵士が警戒にあたった。夜になると篝火がたかれ、高張り提灯に火が入れられた。 
 ニシン蔵での生活は、食事が日に二食。握り飯がひとつずつと、それに冷めた湯が与えられた。夜は布団などもちろんないので厳しい寒気にうち震えた。病人が続出し、怨嗟の声が高まった。 
 現在、市内の松原神社の境内に、そのニシン蔵がひとつだけ移築されて残っている。もちろん、その建物は天狗党にかかわる史跡のひとつとして野外展示されているものだが、あまり広くない、その建物内に、立錐の余地もない状態で詰めこまれたことを想像するだけでも胸が痛くなる。
 処刑の時が近づいていた。幕府側から若年寄の田沼意尊がやって来たからである。田沼は天狗党の追討軍総督として、以前に水戸に攻め入ったことのある人物である。
 田沼は到着するや、形ばかりの裁判を行うために、町中にある永覚寺(敦賀駅そば)にお白洲を設け、一人ずつに刑の宣告を開始した。二月に入ってからすぐのことであった。 
 そして、ついにその日がやってきたのである。処刑の場所は町の西はずれにある来迎寺地内。そこは昔から刑場であったところでもある。急ごしらえの四つの大きな穴が掘られてあった。 
 ニシン蔵からは天狗党の面々がつぎつぎと引きずり出されていった。ある者は縄で縛られ、身体の衰弱した者は駕篭に乗せられ、それを警護の兵が取り囲んだ。
 そして、刑場に到着するや、ただちに処刑されていった。
 幕府側から斬首の執行を任されたのは小浜、彦根、福井の各藩であった。この時、彦根藩は桜田門で倒れた井伊直弼の意趣返しをする気持ちが強く、斬首に立ち会うことに積極的だったといい、いっぽう福井藩はそれを頑なに拒んだという後日談が残っている。
 慶応元年(1865)二月四日、まず総大将の武田耕雲斎ら二五名の幹部たちが斬首の刑に処された。このなかには、副将の田丸稲之衛門、軍師の山国兵部、天狗党生え抜きの幹部である藤田小四郎らがいた。  
 その日は風雨の強い日であったという。穴の前に座らされた罪人たちは、首を斬り落とされると、つぎつぎと穴の中に蹴落とされていった。 武田耕雲斎の辞世が残っている。
「討つもまた討たれるもまた哀れなり同じ日本の乱れと思えば」
 こうして、第二回、二月十五日、百三十四名、第三回、二月十六日、百三名、第四回、二月十九日、七五名、第五回二月二十三日十六名とつづき、計三百五十三名の者が刑場の露と消えたのである。
 それは明治という時代になる三年前の出来事であった。
 美しい気比の松原がひろがる海辺から少し南に歩くと、そこに松原神社という名の小さな社(松原町二丁目)がある。今は閑静な住宅街の一画になっているが、その敷地の一部こそ、かつて処刑場になったところである。 
 そこに足を踏み入れると、土壇場のあった場所に、周囲四メートルほどの土盛りされた立派な墳墓がつくられている。墓石が並ぶ墓域は一段と高くなっていて石段がついている。石段の左手に、刀を杖にして立つ等身大の武士の銅像は武田耕雲斎のありし日の姿である。
 松林の樹間から空を仰ぐと、黒い雲がせわしなく流れてゆく。今にも雨が降り出しそうな気配である。林の中を一陣の風が吹きわたる。
 しばし瞑目し、あの時を想ってみる。
 処刑場の周囲に巡らされた真新しい竹矢来の外にはたくさんの人だかりがあっただろう。冷えきった身体を震わせながらも、これから目の前で繰りひろげられようとする出来事を、この目で見ようと集まった幾つもの顔々。
 彼らには、遠い他国からようやくたどりついた男たちが、なにゆえに斬罪に処されようとしているのかが分からなかったにちがいない。そこにはただ憐憫の表情が表れているだけだった。 
 やがて、腹の底をつくような異様な気合とともに、閃光が走ったかと思うと、鈍い音が空を切る。それは数え切れぬほど、幾度も不気味に規則正しくつづいた。 
 石段を上り、墓石に刻まれた見えにくい人名をひとつずつ読みとってゆく。剣先をイメージさせる墓石に「斬死」と刻まれた鮮やかな文字。改めておびただしい数の人間の命が断たれたことを実感する。
 それにしても、これほどまでに憎悪にみちた処断があったことが信じがたい。時代のなせるわざとはいえ、人間がなしたことがらにちがいないのでる。
 静かで平和な町でとつぜん引き起こされたこの出来事は、敦賀という地に深く刻印されて、こののちもひそやかな記憶となって残りつづけるのだろう。

タイトル写真:敦賀・天狗党墓地















天狗党壊滅 ・・・・異境の地に消えた数多の命ーその1

2022-01-21 15:44:05 | 場所の記憶

 身を切られるような雨まじりの寒風吹きすさぶなかで、三百五十三人もの捕らわれの身の者が斬罪に遭うという出来事が幕末の日本一角で起こった。それは身も心も凍りつくような凄惨な出来事であった。
 処刑された者たちの名を天狗党と言った。彼らは、水戸藩内の勤王攘夷をとなえる藩政改革派の集団であった。
 彼らが捕らわれ、処刑された場所は、水戸からはるか離れた日本海に臨む敦賀の地である。
 これにはわけがあった。
 天狗党は、自分らの主張を、当時、禁裏守衛総督の任についていた自藩の一橋慶喜に言上すべく京に向かったのである。それは気の遠くなるような遠征であった。だが、彼らの意志は結局うち砕かれることになる。  
 幕末の歴史書のなかに、はじめて天狗党の名を発見した時には、なんと怪異な名前であることかといぶかったものである。
 そもそも天狗党という名は、水戸藩内における政治勢力のひとつの名であった。この件にくわしい『水戸藩党争始末』には、九代藩主徳川斉昭の治世下に、門閥派と革新派の間の権力闘争が激しくなり、一方をのちに諸生派、もう一方を天狗派といった、と解説されている。 
 天狗の名の起こりは、保守を自認する門閥派が、革新派のやり方を、成り上がり者がテングになっていると揶揄してそう呼んだものだが、一方、言われた側の革新派の方は、それを逆用して、我らこそは、天狗のように才知にたけた者たちであると、みずからを尊称して、そのように呼ぶようになった。
 革新派であるグループは、文字通り、藩政改革推進派であった。藩主斉昭の進める改革路線を支持し、その担い手になっていた。彼らは藩の中・下級武士層からなり、その中心人物は藤田東湖という国学者であった。東湖は斉昭擁立にも奔走した人物で、国学者藤田幽谷の嫡子である。
 一方、門閥派は斉昭の政治の進め方に批判的であった。斉昭の側近のひとりであった結城寅寿という人物を代表する藩の上級武士層からなっていた。
 藩主斉昭の時代は文政十二年から天保一五年(1829~44)という長い間つづくが、その間、両者の確執はしだいに激しくなり権力闘争化するに至る。
 そもそもこの両者の党争は、あるイデオロギー論の対立からはじまったものだった。
 それは当時、編纂改訂された『大日本史』をめぐっての解釈から生じた。国学者の藤田幽谷とその師である立原翠軒との間で引き起こされた論争は、その後、弟子たちに引き継がれ、水戸藩を根底からゆさぶる事態をまねくことになる。
 党争がいちだんと激しさをますようになるのは水戸藩主に徳川斉昭が就任してからのことであった。
 対立はまず、国元の水戸派と江戸詰めの江戸派との間で巻き起こった。勤番する場所のちがいが考えを異にすることになったのである。
 水戸藩は徳川御三家である。御三家には参勤交代という制度は課されてはいなかったが、そのかわり、江戸にも常駐の家臣を置くことが定められていた。 しかも、藩主は江戸詰めであった。水戸藩士の半数ちかくの人間が江戸に在住し、そこでひとつの藩を形成していたようなものであった。 
 水戸と江戸では情報量のちがいが大きかった。今の時代とはちがって、通信手段の乏しい時代である、本藩と江戸詰めの藩士との間に情勢分析で落差が生じたとしてもおかしくない。 斉昭が藩主になることで勢力をはったのは、藤田東湖を代表する江戸詰めの革新派であった。
 藩主をまじえての、革新派と旧守派の力関係はシーソーゲームのように推移していった。急進すぎる革新派の考え、それに反発する保守派。両者はますます頑なになり、反発を強めることになった。
 そうしたさなか、黒船来航という日本をゆるがす一大事件が勃発した。嘉永六年(1853)のことである。
 その頃、藤田東湖亡きあと、革新派の理論的支柱になったのは会沢正志斎という人物であった。彼は藤田幽谷の弟子で、彼が著した『新論』という書物は、憂国の革新派藩士のバイブル的な存在になっていた。
 彼らが尊王攘夷という言葉をさかんに叫ぶようになるのもこの頃からである。対立はさらに、野火がひろがるように若い世代に燃え移っていった。 やがて、ひとつの藩のなかで燃えさかっていた危機意識は、日本という国全体にひろがっていく。それは尊王攘夷を唱える諸国の論者たちと連帯してゆく行動となって具体化する。これは幕府の政策に明らかに異を唱える行動であった。
 だが、御三家である水戸藩は、あからさまに幕府に反対するわけにもいかなかった。それが藩内の特に、下級武士に不満を募らせることになった。彼らは脱藩し、各地で騒擾事件を起こしては世間を騒がせていた。
 同じ頃、幕府の大老職に井伊直弼が就任した。開国論者であった井伊は過激尊攘派の者たちをいっせいに検挙、断罪していった。水戸藩に対しては前藩主斉昭を永蟄居にするなど厳しい措置がとられた。世に言う安政の大獄(安政六年)である。
 だが、反動は反動を呼んでいった。こんどは尊攘派弾圧に反発した浪士たちが、登城途中の井伊直弼を桜田門付近で待ち伏せ襲撃しこれを暗殺するという事件(万延元年)が起きた。殺戮の報復である。         
 天狗党が筑波山に挙兵したのは、桜田門の変が起きてから四年後の元治元年(1864)三月二七日のことである。  
 決起の目的は、自分たちが攘夷の先駆けになることを全国の尊王攘夷の有志に宣言し、共に起つよう呼びかけることにあった。
 筑波山は茨城県のほぼ中央部に位置する山で、関東平野のいずこからも望める。昔から霊峰として崇められてきた名山で、万葉集の頃から歌にも詠まれている。
 その筑波山で決起するということは、天狗党にとって意味ある行動だった。神聖な目的のために立ち上がった自分たちの意図を、内外に知らせるに、これほどふさわしい拠点はなかった。
 後年になるが、明治の十七年にこの筑波山とは山つづきになる加波山で、自由党の過激派ともいうべき青年たちが決起したことがある。
 ちなみに、加波山も筑波山と同じように聖なる山として崇められた山である。古くは神場山と呼ばれたほどの霊域であった。 
 加波山での決起組は、当然のことながら、天狗党の筑波山決起のことを頭に入れていたはずである。そうした山で決起することは、自分たちの大義名分を押し立てるにふさわしい場所ととらえたのである。 
 筑波山に決起したのは、田丸稲之衛門を大将にかつぎあげた藤田小四郎ら過激派の者たちであった。藤田小四郎は藤田東湖の子である。田丸は水戸町奉行であったが、尊王攘夷の考えに日頃から共感を覚える人物であった。 
 決起した当初は六十三人であった人数が、数日たつと、天狗党に共鳴する藩外の、いわゆる草莽の士を加えて山は人であふれた。このなかに、例えば、のちに赤報隊を組織して斬殺された相良総三もいた。
 余勢をかって、彼らは日光に押し出した。天狗党の隊列の先頭には、常に亡き水戸斉昭の位牌をおさめた素木の神輿がかつがれていた。
 日光山に立て籠もるという目的が阻まれると、今度は方向を変えて、栃木県にある大平山に集結した。大平山に本営を定めたのは、そこで軍資金の調達をするためであった。
周辺の藩や町の商家が、金集めの標的にされた。関東平野の町や村は、にわかに騒然としはじめたのである。 
 これに対して保守門閥派は、家老の市川三左衛門を頭に天狗党と武力対決の構えを見せた。彼ら保守派は水戸弘道館に通う上級藩士の師弟がその中心であった。それに幕府が派遣した田沼意尊を総督とする天狗党追討軍数千が合流した。
 事態を複雑にしたのは、この二勢力に、江戸にいる藩主慶篤が送りこんだ徳川頼徳を総大将とする騒乱鎮撫の軍隊三千あまり、それに尊攘派であるが筑波山の決起には参加しなかった竹田耕雲斎らの軍勢が加わったことである。竹田は家老職にあったが、藩主から職を罷免されていた。
 当初、鎮撫軍は天狗党に味方したが、のちに脱落。この結果、天狗党は致命的な敗北を喫することになる。筑波山決起から七カ月後のことだ。 
 水戸郊外の那珂湊の戦いに敗れた天狗勢は、ほうほうの体で久慈川が近くに流れる大子村に集結した。元治元年十月二五日のことである。
 天狗勢が大子に集まったのは、そこが敵を迎え撃つにふさわしい山間の要害の地であり、以前から尊攘派に共感する村民が多かったためであるとされる
 天狗勢のなかには女や子供、武士ではない農民や職人もまじっていた。とうぜんのことながら、数も増えた。その数、千人規模にまで膨らんでいたのである。
 なかには、今まで天狗党とは考えを異にするグループも加わっていた。尊攘思想の持ち主であるが、天狗党とは一線を画していた竹田耕雲斎もそのひとりである。その彼が総大将に選ばれた。
 これからも分かるように、諸勢力が、いわば尊王攘夷という考えで大同団結したのが天狗党であった。彼らは自分たちの清廉な志を京都にいる一橋慶喜を介して天皇に奏上しようと企てたのである。
 慶喜は斉昭の子である。当然のことながら、彼らの願いを聞きとめてくれる考えの持ち主であると確信した。
 大子に集結した者たちの多くは、甲冑に身をかため、刀や槍で武装していた。銃や大砲までが持ち込まれていた。意気は大いにあがっていた。 
 こうして、元治元年十一月一日の深夜、一千人に及ぶ天狗党の一団は京を目指して長途の旅に立ったのである。すでに冬の季節である。寒気がひとしお肌をさした。
 軍列は威風堂々としていた。軍団ごとに編成された隊列には隊長格の者が馬にまたがり、そのあとに鉄砲隊、長槍隊、それに二門の大砲がつづいた。総大将の竹田耕雲斎は馬にまたがり各軍団の最後尾についていた。
 長途の旅を予想してか、付き添う荷物も多かった。重い荷を乗せた荷馬と長持ちをかつぐ人足の列が長々とつづいた。
 軍列の頭上には、彼らの決意を示す「攘夷」「魁」などの文字を染めぬいた幟がはためいていた。  
 日本海に面する敦賀の冬は晴天が少ない。私も二度ほどそこを訪れたことがあるが、いずれも氷雨にそぼ濡れたり、暗い雲が流れる風の強い日だったりした。 続く

将門伝説を歩く----- 坂東の地に起きた武士の謀反ーその2

2022-01-14 10:54:44 | 場所の記憶
  明くる承平七年(937)八月六日、体勢を立て直した平一族の棟梁たち、すなわち、良兼、良正、いまは亡き国香の子、貞盛の連合軍が将門をふたたび攻めた。
 始祖高望王の霊像をかかげた大軍は、小貝川を子飼の渡しで渡河し、途中、将門の伴類の舎宅を焼きながら、鬼怒川のほとりにあった将門の営所のひとつ鎌輪(現在の鎌庭)に向けて西進したのである。子飼の渡しは、いまのつくば市安食付近であろうか。
 軍勢を整える余裕がなかった将門は鬼怒川を境(堀越の渡し)に陣を固めてよく戦うが、将門の持病の脚気の再発もあって、ついに敗れる。初めての敗戦であった。
 この時、将門は広河の江(飯沼)の生い茂る葦の中に避難させていた妻子をつれ去られるという不祥事に遭遇する。(のちに妻子は逃げ帰るのだが)
 広河の江という沼は、将門の豊田の館と石井の営所とのほぼ中間にひろがる長さ二十キロに及ぶ広大な沼で、その末は鬼怒川に通じていた。  
 かつてそれは、鬼怒川の一部であったものだが、流れが変わり、取り残されて、南北に細長くひろがる湿地帯となっていたものである。 
 江戸時代の中期になって、この沼は干拓され、水田地帯に変わった。いまでも飯沼川に沿って、平八新田や長左衛門新田などの地名が残るのがそれである。
 が、戦いはそれで終わったわけではなかった。農閑期にもならない九月一九日に、将門はこんどは良兼の仮の館があった筑波山西麓にある羽鳥を急襲する。従う兵士千八百余り。 
 戦いの構図は、期せずして筑波山麓にある伯父(あるいは叔父)たちの、いわゆる山根地帯と将門が根城とする低湿地帯との地域抗争の様相を呈することになった。
 こうしたなか、将門が朝廷に出していた訴えが受け入れられ、十一月五日、良兼ら伯父(伯父)たち、源護らに追捕の官符が出る。が、この間にも平一族の戦いはやむことはなかった。
 十二月十四日、こんどは良兼が八十騎の郎党をしたがえて、将門の石井の営所を夜襲する。石井の営所は将門の本拠地である豊田の西南方向、菅生沼の北西端にあった。現在の岩井市岩井である。
 だが、良兼の攻撃を事前に察知していた将門はこれを撃退。将門と伯父たちとの抗争は膠着状態のまま推移していった。 
 一族争いがしだいにエスカレートして、将門がついには常陸の国府にまで攻撃の手をひろげるに至るには、幾つかの要因がかさなっている。
 天慶二年二月、将門が武蔵国の紛争・・代理国司に就任した輿世王と同国の郡司であった武芝との争い・・に介入するという出来事は、他国の係争にかかわったという意味で従来の行動とは性格を異にしていた。
 この行動がのちに朝廷に訴えられることになるのだが、すでに、この頃になると、将門の行動範囲は完全に自国領を越えてひろがっていた。将門に謀反の動きありととらえられたのも詮無いことであった。
 将門が常陸の国府に出兵した背景には、当時、常陸の国府の長官であった藤原維幾と将門とのかかわりがあった。
 将門にとって維幾は伯母のつれあいにあたる。言わば義理の伯父であった。その維幾がかねてから国香の子である貞盛に同調し、国司の権限をもって将門にたびたび召喚状を送りつけてきた。これは明らかに貞盛が画策したものだと、将門はとらえたのである。
 こうしたなか藤原玄明なる人物が将門を頼ってくる。玄明は常陸の国府から追われている身であった。その人物を将門はかくまうことで、国府の意図をはねつけようとした。そして、その結果の国府の攻撃になる。天慶二年(939)十一月二十一日のことである。
 国府への攻撃は明らかに国家への重大な反逆であった。 
 だが、一国を犯すも、坂東諸国を攻めるのも罪は同じであるとばかりに、将門は下野、上野の国府をつぎつぎと攻撃してゆく。そして、その後の新皇即位の宣言であった。 
 朝廷がこの事態を放っておくことはなかった。ただちに対策がとられ、将門追捕の官符が諸国に出されるのである。
 藤原忠文率いる征東軍が都を発ったのは、翌年の天慶三年二月八日のことだ。一方、地元でも平貞盛、藤原秀郷の連合軍が将門追捕に立ち上がる。将門包囲網はしだいにせばめられていく。 
 平貞盛、藤原秀郷の連合軍四千の動きは早かった。ただちに下野を発って、下総に押し寄せてきたのである。
 その時、将門はみずからの兵を解いていたと言われる。そのことを貞盛、秀郷は先刻承知していたのである。
 二月十四日、両軍はついに相戦う。その日は悲鳴をあげるような風が吹きまくる日であった。春の強風である。
 この戦いの様子を、『将門記』はつぎのように記す。
「時に新皇は順風を得て、貞盛、秀郷等は不幸にして吹下に立つ。其の日、暴風は枝を鳴らし、地籟は塊を運ぶ。新皇の南の盾は前を払いて自ら倒れ、貞盛の北の盾は面を覆う。之に因り、彼此、盾を離れ、各合い戦うの時、貞盛の中陣は変を撃(おこ)し、新皇の兵従は馬を羅(つら)ねて討ち、且つ、討ち取るの兵類は八十余人、皆(ことごと)く追い靡けらる。爰に新皇の陣、跡に就きて追い来るの時、貞盛、秀郷、為憲等の伴類二千九百人は皆(ことごと)く遁れ去り」
 はじめは将門軍が風上に立ち、有利に展開していた。ところが、貞盛、秀郷軍が逃げ惑っているうちに、幸運にも風上に立つことができた。それは将門が本陣に戻ろうとしている時であった。
 ここで戦局は一変した。貞盛、秀郷軍は余る力をふり絞って将門軍に襲いかかってゆく。「爰に新皇は甲冑を着け、駿馬を疾めて、躬自ら相戦う。時に、現(あきらか)に天罰の有りて、馬は風飛の歩を忘れ、人は梨老を術を失えり。新皇は、暗に神鏑に中り、終に託鹿の野に戦いて独り嗤尤(しゆう)の地に滅びぬ」。時に将門三八歳であったという。あっ気ない最後であった。
 将門が神鏑(矢)に当たって落命したと言われる地には、現在、国王神社が建っている。そこは石井の営所のすぐ北にあたる。
 まっすぐに連なる参道を歩むと、その先に瀟洒な入母屋づくりの拝殿に行きつく。かつてこの地で決戦が行われたなどということがまるで嘘のように静まりかえった神域である。言い伝えによれば、ここには将門の三女、如蔵尼が将門三十三回忌に寄進した将門の座像が安置されているという。
 ところで、この地で討ち倒された将門の首はただちに刎ねられ、解文を添えて都に送られたと『将門記』は述べている。
 その後、首のない将門の胴体はどこに持ち去られたのだろうか。
 いまもわずかにその姿をとどめる菅生沼のほとりに神田山という名の地がある。その地に延命院という寺があり、そこに将門の胴塚と伝えられる事蹟がある。
 そこを訪れた時は、すでにうす闇が迫る時刻であった。広い境内に踏み入り、本堂の裏にまわると、「平将門胴塚」と記した標識があった。天然記念物に指定されている大きなカヤの木の根元に、墓らしきものがひっそりとあった。将門山と呼ばれる一帯は、かつて相馬御厨の神域であったために、幸いにも墓があばかれることなく今日におよんだと言われている。
 将門の時代、日本の統治者にとって、坂東の地は蝦夷の住む奥州の地に接する辺境の地と位置づけられていた。そうした場所であったからこそ、地方に居住する豪族たちは、自らの財産を守るべく、武器を蓄え、郎党を囲うことに意を注いだのである。
 こうして武士と呼ばれる集団が生まれることになるわけだが、彼らは、日頃から勇猛果敢に戦う力を養うことを徳目とした。
 将門が謀反を起こしたという知らせが京にある朝廷に届いた時、少なからずの宮人は、坂東という地に抱いていたイメージをいっそう鮮烈に甦らせたにちがいない。
 朝廷が将門の乱を耳にしてからほんの数日ののちに、こんどは西国でも藤原純友が乱を起こした。純友が摂津(今の大阪)で国司を捕える事件を起こしたのは、将門が常陸の国司を襲撃した三日後のことであった。これらは明らかに時の政権に対する真っ向からの反逆であった。政権の基盤に東西から穴が穿たれたのである。
 当時、この両者の、時期を同じくした反乱は、あたかも共同で相呼応した出来事のように受けとめられた。だが、事実はけっしてそうしたものではなかった。
 だが、類似性は確かにあった。
 いずれも新しい武士団の成立を意味したからである。朝廷が恐れおののいたのも、じつは、彼ら武士団が、やがて自分たちの立場をおびやかす存在になることを予感したためである。
 新しい武士社会の到来が間近に迫っていたのである。 完

 タイトル写真:鬼怒川遠景

将門伝説を歩く・・・・坂東の地に起きた武士の謀反ーその1

2022-01-07 22:42:05 | 場所の記憶
  どこまでも明るく曇りない空がひろがっている。目を遠くにやると、はるかかなたに、ゆるやかな裾野をひろげる筑波山の黒い山容が望める。澄みわたった大気がじつに清々しい。
 そんな光の満ちる風景のなかを、いま目の前を馬に鞭をあてながら東をめざして疾駆していく武士の一団がいる。狩衣姿の武将を先頭に、その郎党らしき男たちが土煙をあげながら野面を走ってゆく
 いまからさかのぼること千五十年ほど前の、天慶二年(939)十二月一日、平将門が謀反を起こしたという知らせが京の朝廷にもたらされた。世に天慶の乱と呼ぶ。 
 謀反を起こした将門が根拠としていた地は鬼怒川の西域、豊田、猿島両郡一帯であった。現在の茨城県岩井市を中心とする地域である。古図をひろげて見ると、その地域は、いくつもの川が並行して流れ、沼池が点在する水郷地帯であったことがわかる。水の豊かな地は河川の氾濫がくりかえされる乱流地帯でもあった。それだけに地形の変化が激しかった。なかでも荒れ狂う川として知られる鬼怒川の河川地帯はその変貌がいちじるしかった。
 河川が氾濫するたびに土地の様相が一変するという地理的条件は、当然のことながら土地を所有する豪族たちの領地の確定を不安定なものにした。
 『将門記』によれば、平将門が身内の平家一門の伯父(叔父)たちと争いを起こし、やがて、京の朝廷に反旗をひるがえすまでに至る、その遠因に土地所有の争いがあったとされる。その争いの背景にあったものは、たびたび氾濫する

 一千年も前の出来事を追想しながら、その旧蹟をたどろうというのである。どれだけのことが可能なのか、出かける前に多少の不安があった。
 まず訪れたのは将門が本拠を置いた館跡である。そこは石下町の西方、鬼怒川の流れを東に見る微高地(向石下)で、かつてその南方には古間木という名の沼がひかえていたという。館の立地としては格好の場所であったことがうかがえる。 
 豊田の館と呼ばれたその館は、いまは将門公苑という名のあまり広くない緑地になっていて、そこには「平将門公本據豊田館跡」の石碑が立っている。
 豊田の館の由来を詳細に解説する大きな看板と、りりしい面貌をした、弓を手にする将門のエッチング座像がこの地の記憶をよみがえらせてくれる。 
 その頃の豪族の館の多くがそうであったように、館がおかれた微高地の周囲には、深い濠がつくられ、高い土塁がめぐらされていた
 敷地内には防風林にかこまれて、質素な茅葺きの館-家族が住まう寝殿、公務の場所である政所、馬屋、倉庫、工房など、が幾棟もならんでいたにちがいない。将門は妻子や母、兄弟たちと共にそこで生活していたのである。
 そして、その館の周囲には近親者や従類たち(郎党)の小宅が軒をならべ、さらに、その外域には広大な田畑がひろがっていた。
 その田畑で働く人々は、伴類と呼ばれる家人たちであった。彼らは、ふだんは私宅に住み、私有地を耕す生活を送っているが、農繁期になると将門一族の直営田の耕作に従事した。
 この頃の武士というのは、後世のように職業的な身分ではなかった。実態は武装した在地地主ほどの意味であった。日ごろは農事に専念し、ひとたび事が起こると、従類は騎馬隊として、伴類は歩兵として戦場に駆り出されたのである。
 将門が自分の所領としていた土地は、亡くなった父親から受け継いだものだった。その土地というのは、父が原野を新たに開墾した私営地であった。
 一帯は、いまでこそ美田のひらける米作地帯であるが、将門の生きた時代は、いまだ開墾の行き届かない原野がひろがっていた。
 その原野の名残とも思える雑木におおわれた小丘が、いまも水田や畑地のここかしこに残されている。そこは野生の鹿が走り回るような場所でもあった。
 ところで、将門が父から受けついだものは、農地だけではなかった。官営の牧場の(官牧司)という役務があった。 
その官営の牧場とも言うべき官牧は、豊田の館に近い大結馬牧(現在の大間木)と石井の営所の後背地である長洲馬牧(現在の長須)にあった。
 古図を見ると、いずれの地も、沼(広江)や川(利根川)が流入する砂州状の台地にある。つまり、これら台地を利用して放牧地がつくられていたことがわかる。馬の名を冠した馬立、馬場、駒込などの地名がこの地区に散見されるのもその名残だろう。
 将門がのちにこの地域を制覇することになるのは官牧司として馬の扱いに熟練していたことがあげられる。騎馬戦に強い軍団であったのは当然であった。
 将門が最初の争いに巻きこまれたのは野本という地であった。将門がはじめて武力をもって争った地とされる野本という場所は、現在の野爪あたりであろうと比定されている。鬼怒川の西岸のこの地には、いま鹿島神社が建っている。
 鹿島神社の創建は大同元年(806)というから、将門が乱を起こす百年以上も前からすでにこの地に鎮まっていたことになる。常総十六郷の総鎮守という格式ある神社である。神社の来歴にも、承平五年(935)二月、将門の乱の兵火により炎上するという記録が見られるので、すでに将門の時代には存在したことは確かである
 いま見る建物がいつ頃のものか定かではないが、千木をつきたてた傾斜の強い屋根をのせる古格な神明づくりの社殿が威厳をはなっている。 
 将門がこの地ではじめて争いを起こした相手というのは源護という地方豪族である。源護の本拠地は、現在、大宝八幡社がある大串の地にあった。
 ついでながら、将門も戦勝祈願したという大宝八幡社の創建は大宝元年(701)と、これもかなり古い。その地には平安から南北朝にかけて城が築かれていたらしい。
 源護の館もこの地にあったのだろうか。三方を断崖に囲まれた地形は、いま見ても要害の地であったことをうかがわせる。 
 両者の争いの発端は土地争いをめぐってであるとされている。大串にあった源護の本拠地と将門の所領とはどうやら隣接していたようである。それゆえに生じた争いであった。
 鬼怒川をはさんで隣接した所領をもつ間柄となれば、川の氾濫で流れが変わり、それが土地の境界を不明瞭にし、争いの基になるということは大いにあり得ることである。 
 野本の争いは、まず源護側が将門軍を迎え撃つ形ではじまったと『将門記』は記している。 
 ふいの待ち伏せで将門軍は進むことも退くこともできなくなり、意を決し敵中に突進した。幸いにもこの時一陣の追い風が起こり、将門軍が放った矢は風にのり、流れるように走り、相手方の兵士をつぎつぎと射貫いていった。
 この戦いで、源護の三人の子息、扶、隆、繁らは相次いで戦死。源護の軍勢は総退却を余儀なくされたのである。
 じつは、この戦いには将門の伯父(叔父)たちもかかわっていたのである。伯父の国香、良兼と叔父の良正の妻たちは、いずれも源護の娘であった。そうしたしがらみから、一族でない源護に平一族の伯父(伯父)たちが加担することになったのである。
 勝利の波にのった将門軍は攻撃をやめなかった。勢いに乗じた将門軍はなおも騎馬を駆って源護の本拠地である大串を襲い、取本(現在の木本)をぬけ筑波山西麓にある石田にまで攻め入った。
 さらに、筑波、真壁、新治地区にある伴類の家々五百ほどを焼き尽くした。伴類というのは、源護や将門の伯父(叔父)たちと同類の者たちのことで、さきにも述べたように彼らは半農半兵の農民である。
 『将門記』は言う。「雷を論じ響を施し、其の時の煙色は雲と争うて空を覆う」と。
 筑波山の西側にひろがる広大な曠野のあちこちで、ごうごうと音をたてて黒煙が渦巻き、それらが空をおおったというのである。春まだ浅き平和な地にとつじょ巻き起こった騒乱であった。
 狂ったような将門軍のふるまいである。たまりにたまった憤怒のエネルギーを放出したかのようだ。それは将門の胸の内にあった屈辱を晴らす行動でもあった。
 将門はこの戦いのさなか伯父の平国香の館を襲っている。一族の長老である伯父の国香が住まう石田の館を焼きつくし、国香を殺戮した。
 筑波山麓の石田地区一帯には、いまも白壁をめぐらした豪農を思わせる家や海鼠壁の立派な屋敷門をかまえる家が散在する。石田の地は昔から豊かな農村地帯であったのである。
 ところで、『将門記』にもあるように、この争いには女の問題があったというが、真相はどうだったのだろうか。「いささか女論によって、舅甥の中すでに相違う」と『将門記』が記すところの舅甥とは将門と将門の伯父のひとり良兼のことである。この記述からすると、将門にとって良兼は、伯父であると同時に舅でもあったことが知れる。 
 このことから、将門は良兼の娘を妻にしていて、そのことで伯父(舅)と甥との関係が悪化していたということになる。
 ここでひとつの推論を述べてみよう。
 そもそも娘を将門の嫁とすることに良兼は反対だったのではないか。にもかかわらず、甥である将門が自分の娘を、強引に妻にしたのだ。これが女論の中身ではなかったのか。
 そうした両者の冷えた関係のなかで、将門が源護一族と争いを起こした。さきに述べたように、良兼の妻は源護の娘である。以前からの関係の悪さからしてもこの争いを座視するわけにいかない立場であった。
 一方、将門にとっても、父親から引き継ぐべき土地の問題で、良兼に対しては、以前から少なからずわだかまりを抱いていた。伯父の平良兼の管理下にあったその土地が、将門のたびたびの返還要求にもかかわらず一向に返される様子がなかったのである。妻のことでもすでに仲を違えている。日頃からの双方の不信が一挙に爆発したことになる。 
 承平五年(935)二月に突如起こった騒乱により常総の地は以来、戦乱の地と化した。
 秋の収穫期の終わりを待ちかねたように、その年の十月二十一日のことである、将門の無法に怒った叔父のひとり良正が将門征伐に立ち上がった。良正はこの時、新治郡の川曲渡しから将門の領地に侵入した。川曲渡しは、野爪の北方にある鬼怒川が大きく曲流する地で、現在の関城町関本あたりと比定されている。
 川曲渡しがあったと思われる鬼怒川の土手に立つと、遠く筑波の峰がゆるやかに裾野をえがいているのが遠望できる。良正は下妻の北を迂回して鬼怒川を渡河したのである。だが、良正は将門になんなく撃退されてしまう。
 良正の本拠は水守(みのと)という地にあった。水守は今のつくば市水守である。そこは国香の館がある石田からも近い。
 目的を果たせなかった良正は、こんどは、兄の良兼に助けを求めた。良正の要請により良兼が腰をあげたのは、翌年の承平六年六月二六日のことである。ついに、良兼との直接対決を迎えることになる。
 上総の国府(現在の市原市五井町)にあった良兼は、大軍を率いて、途中、鹿島神宮に戦勝祈願をし、それから下野の国に入った。そこから鬼怒川の上流をわたり、将門の豊田郡に侵入した。その数三千の大軍であった。
 だが、この良兼の大軍も将門にうち負かされることになる。あげくのはてに良兼は下野の国府に逃げこむはめになる。 
 将門の力はすでに伯父(叔父)たちを圧倒するまでに強力になっていたのである。抗争はしだいに拡大していった。やがて、その争いの様子は都にも達するまでになる。
 争いの仲介を求めて、双方の当事者が京の朝廷に使いを出すのもこの頃である。将門自身も京に上洛することになった。   
 が、この間にも常総の争いはエスカレートしていった。 続く


会津藩遠流・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその2ー

2021-12-31 20:42:37 | 場所の記憶

  思うにそれは、会津人の狷介ともいえる性格にあったのではないか。それが相手に遺恨の残る結果を招いてしまっ
た、ということではないのか。融通の利かない狷介な性格はともすれば相手の気持ちをおもんばかることのない態度となって現れる。
 権力に裏うちされた狷介は怖い。正義の名において、相手に容赦のない規範の順守を求める。それは往々にし、曖昧なもの、不明瞭なこと、欠けたもの一切を許さない、完膚なきまでの恭順を相手に要求する。その結果、当然、相手に遺恨が残る。 
 日本の政治的対立がピークに達した時、会津藩が京都守護職を引き受けたことが会津の悲劇であった。
 西郷頼母は、藩の役割の悲劇的結末を予感して、藩主容保に諌止した。だが容保は聞く耳をもたなかった。自らの大義名分を押し立てた。容保にもある種のかたくなさを感じる。容保という人は、実は大垣藩から入った養子藩主である。会津に住んで、会津気質を身に帯びたのだろうか。
 その結果、当時の政治の中心地でとった行動が、会津人気質をいやがうえにも鮮明に敵側である倒幕派に印象づけることになった。会津憎しの怨嗟の声が渦巻いたのも故なしとしない。
 風土性というものがある。
 山に囲まれた盆地である会津地方は、その自然環境からして、外部と隔絶するきらいがあった。そのうえ自然条件が厳しい。冬の季節が半年近くもつづくという土地柄である。自然環境の閉鎖性は人の気質をかたくなにする。ひらたくいえば頑固者が多い。人心が停滞し、新しいものを採り入れるという性向より、古いものを守り抜こうという姿勢が強くなる。その一典型が会津に生きている。 
 会津というと、「伝統」というイメージが浮かぶのも、古いものを綿々と育て上げる風土性が、会津の特徴として今も生きているからであろう。 
 自然条件の厳しさは一方、そこに住む人を辛抱強く、かつ粘り強くする。この性向が、会津気質の芯をかたちづくっている。
 明治維新になってから苛酷な運命にさらされた会津の人々の心を支えたものも、皮肉なことに、この性向である。
新政府の追い打ちをかけるような施策によって、維新後、会津藩は解体される。そして東北の一寒村に移封されることになる。
 そこは南部藩領から削りとった陸奥三郡およそ三万石の土地であった。斗南藩と呼ばれるその所領に、藩士とその家族一万七千人が移住した。 
 明治の世になり、陸軍大将に昇進した会津出身の柴五郎はその遺書の中で、少年時の思い出を次のように回想している。
 「今はただ、感覚なき指先に念力をこめて黙々と終日縄を綯うばかりなり。今日も明日もまた来る日も、指先に怨念をこめて黙々と縄を綯うばかりなりき」
 ひたすら忍従することは、たたかれ打ちひしがれても生きぬこうとする強靭な心をつくりだし、やがて、それは怨念という名の情念と化する。             
 ここに、その情念を新たな新国家建設に向けて積極的に放出した人物がいる。
 そのひとりに旧会津藩家老・山川浩がいる。彼は籠城戦当時、遊撃隊長として、城の外にあって、薩長軍に対し巧妙な戦いを展開した。降伏後、最北の地、斗南藩に移住させられた時、権大参事(藩知事)の要職にあって、藩の実質的な指導者となった人物である。
 斗南藩の経営は困難を極めた。自然はあまりにも苛酷であった。新天地に移り住んだ旧会津藩士を待ち構えていたものは飢餓地獄そのものであった。不毛ともいえる荒野は、尋常な手段では人間に服従するような相手ではなかった。
そして、ついに新国土建設は、苛酷な自然を前にして、虚しく潰えてしまう。
 この斗南藩経営の失敗のあと、山川は東京に出る。薩長政府への怨みをもう少しちがった形で果たそうとしたのである。それは体制内に入って、いずれの日にか汚名を雪(そそ)ぐという考えであった。
 薩長政府に真正面から対決する姿勢ではなく、むしろ、体制内で自己の立場を確立し、藩の汚名を返上しようというリアリストとしての見識である。
 山川はこうして官途の道を選ぶ。その企てに手を差しのべたのは、旧敵土佐の谷千城であった。谷の推挙により、山川はまず陸軍省八等出仕を申しつけられる。そして、のちに陸軍裁判大主理に任官することになる。明治六年七月のことである。
 その後、山川は異例の出世をはたし、明治十年の西南戦争のおりには、陸軍中佐として参謀職を勤め大いなる功績を残す。
 結果、山川が果たそうとした、自己の立場を確立し、そのうえで一定の自己主張をし、自らの存在を認めさせる、という願いがかなうことになるのである。
 この山川浩のほかにも、会津出身で、のちに世に出て名をなした人々が数多くいる。
 まず、山川浩の弟の健二郎。彼はのちに東京帝国大学の総長になっている。また、この山川兄弟の末妹である咲子(のちの捨松)は津田梅子らと初の女子留学生として渡米し、のちに陸軍卿大山巌と結婚している。
 兄弟で名をなした人に、ほかに、山本覚馬、八重子兄妹がいる。覚馬は新島譲とともに同志社大学の創立に貢献した人物であり、八重子は、その新島譲の妻になった人である。彼女自身もその後、幾つもの社会福祉事業に貢献している。
 このほかに、『ある明治人の記録』に登場する、のちに陸軍大将になった柴五郎、明治大正期に外交官として活躍した林権助、明治学院の創立者のひとり井深梶之助、クリスチャンとして明治の教育界で活躍した若松賎子などの名を見いだすことができる。 
 ひと言で生き方の違いということでは片づけられない会津人のこの堅忍の姿勢は、やはり風土性のようなものを考えなければ理解できないと思う。
 猪苗代湖を前に、磐梯山を背後に控えた会津という地は、日本の古典的な地方風景が広がる場所である。
 貧しさが張りついたような苛酷な風土、時の流れが回遊しているような社会、そうしたものに包み込まれて生きる人間は、ただひたすら忍従することで、日々の苦難を切り抜けるしかないのである。
 さらに、そこに長い厳しい冬の季節が加われば、何人と言えども、そこでは、どのように生き、自然の苛酷さにどう耐えなければならないかを身体で知ることになる。かつての日本の田舎は多かれ少なかれ、そうした地の風を備えていたのである。忍従はそうした地に生きる人々の共通の規範でもあった。
 会津というと、わたしは猪苗代湖畔の貧しい家に生まれ育った野口英雄を思い浮かべる。貧しい家に生まれたにもかかわらず、やがて、忍従と勤勉を積みかさねて、ついに立身出世していった野口英雄の行跡は、ひとり会津人のみならず、日本人すべてが理想とする姿であった。それゆえに、教科書にも取り上げられ、幾世代にわたって、日本人の鏡でありつづけた人物であった。
 会津人が規範とした生き方が、そのまま、日本人の生き方として通用していた時代があったのである。
      




会津藩遠流 ・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその1ー

2021-12-24 13:17:58 | 場所の記憶

 歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。
 会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。今見ることのできる城は、昭和40年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後取り壊されてしまった。
 この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。  
 それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。
 この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつくことだろう。
 わたしが会津若松を訪れたのは、ちょうど秋祭りがとりおこなわれているさなかであった。そのためもあってか、市内は時が逆戻りしたように古色につつまれていた。
 武者行列が町のせまい街路を練り歩き、天守閣がそびえる広い中庭では、居合抜きの競技会がおこなわれていた。町は、なにやらあの籠城戦の時の雰囲気を彷彿させるあわただしさに満ちていた。
 会津戦争は慶応四年8月23日にはじまった。兵員三万とも四万ともいわれる官軍が、怒涛の勢いで一気に城下に突入したのである。以来、9月22日の落城にいたる一カ月ほどのあいだ、壮烈な籠城戦が繰り広げられた。
 この戦いの最中、数え切れぬほどの悲劇が生起した。戦いはつねに悲劇をともなうものである。しかも、それら悲劇のひとつひとつには拭いがたい残酷さが付着している。負けた側が引き受けねばならない悲惨というべきか。幾つもの悲劇が今でも土地の人々に語り継がれている。
 そのひとつに城代家老西郷頼母の家族の自刃がある。旧城下の大手筋にあたる甲賀通り沿い、ちょうど城の北出丸の追手門を目の前にする通りの東側に西郷邸はあった。甲賀通りは、幅18メートルほどの広さの通りである。ちなみに、市内の道路は、南北の通りを「通」と言い、東西の通りを「丁」と呼びならされている。
 出来事の顛末は次のようなものであった。 
 官軍が市内に迫った8月23日のことである。土佐藩を主体とする突撃隊は、鶴ガ城の北出丸に向けて突進していた。一隊は城の前面に建つ広壮な邸宅に足を踏み入れようとしていた。屋敷の内部は妙に静まりかえっている。突撃隊は屋敷の中の廊下を突き進んでいく。すると奥の間に突き当たった。
 隊長の土佐藩士中島信行は、その襖を勢いよく開け放った。中島は、その瞬間、あっと息を呑んだ。死装束をまとった幾人もの女たちが血の海の中で悶絶していたのである。
女たちは、城代家老西郷頼母の妻女をはじめ、その娘たち四人と西郷家一門の家族、総員21人の老幼男女であった。
 この出来事は、惨劇からまぬがれた頼母の長子吉十郎が、のちに登城し、父にそれとなく話したことで会津側にも明るみになった。 
 じつは頼母は、こうなることを先刻承知していたのである。登城前、頼母は自分の家族を集め、西郷家の身の処し方について言い残しておいた。そして、一人ひとりに辞世を作らせ、みずからその添削に手を染めた。
 そして、敵が押し寄せた時には、みずからの命を断つようにと、妻女らに諄々と説いておいたのである。その結果の自刃であった。
 頼母が家族にそうすることを強いた確かな理由があった。
西郷頼母は恭順派、非戦論者として知られていた。藩主松平容堂の京都守護職就任に反対し、そのために家老職を解かれ、以来、五年間藩政とのかかわりを断っていた人物であった。
 ところが、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いの敗北が会津に伝えられるや、藩国存亡の秋(とき)来る、ということで頼母は再度登用されることになった。 彼はその時もなお恭順を説いたが、事態はもはや恭順論が受け入れられる状況ではなかった。そして、止むなく会津軍の白河口総督として出陣することとなった。
 大勢に抗しつつ、それに押し流されて行かざるを得なかった無念さはいかばかりであったであろうか。とはいえ、今や体制の外にいつづけることは、自分の気持ちが許さなかった。当時の封建道徳を信奉する者としては当然の考えであったろう。 
 すでに決死の覚悟であった。彼は自らの家族にも生き死についてのありようを悟らせていた。この姿勢は、敵味方双方に対して、武士としての気概を示そうとするものだった。それは軟弱と非難されてきた我が身に対する最後の矜持の証明といえた。
 矜持をつらぬいて自刃したこの西郷頼母家と同じような悲劇は、会津戦争のさなかにほかにも数々あった。
 寄合組中隊頭井上丘隅の家は甲賀口の本五ノ丁の角にあった。井上は敵が家のすぐそばまで押し寄せてきたことを知り、妻と子を介錯して自刃、「もろともに死なむ命も親と子のただ一筋のまことなりけり」という辞世を残している。
 本四ノ丁角に住まう寄合組中隊頭木村兵庫は、八人の家族を刺し殺したあと、自身も自刃した。
 同じく寄合組中隊頭の西郷刑部の妻は留守家族五人とともに自害している。小隊頭永井左京は戦いで負傷した身体を家で横たえている時、敵の来襲にあい、家族七人とともに自刃している。
 ほかにも、野中此右衛門とその家族の死、高木豊次郎家の死、有賀惣左衛門の妻子の死などがあげられる。さらに、悲劇は下士の家族にも及んでいる。
 これら一連の悲劇は、8月23日、薩摩、長州、土佐藩などの連合軍三千の兵が市内に突入したその日に、すべて起きたことであった。
 一方、誇りを捨てず、命を賭して戦った者たちもいた。
会津戦争最大の激戦と言われた甲賀口で、最後まで防戦し討ち死にした田中土佐と神保内蔵助は、ともに家老職の身分だった。
 甲賀町通り沿いは上級の武家屋敷が集まる地区であったが、そこが官軍の侵入通路になり、主戦場になったのである。 
 女たちも戦った。会津娘子軍の名で知られる婦女薙刀隊の隊長格であった中野竹子の討ち死にもそのひとつである。
竹子の率いる薙刀隊は、若松郊外の柳橋(市の西北)という地で敵とわたりあったが、この時竹子は敵の弾にあたって戦死した。この薙刀隊員の服装は、髪は斬髮、白羽二重を着込み、鉢巻き姿の、男勝りのいで立ちで話題になった。
 家老職にありながら城の外にあって、野戦の総指揮にあたった佐川官兵衛の、何物かにとりつかれたような戦いも、のちのちの語り草になった。
 そして、会津藩の代表者として責任を取らされた家老職のひとり管野権兵衛の死も武士の誇りを示すに充分の行いだった。落城後、管野は藩主になりかわり、この戦いの最高責任者として切腹させられたのである。
 同じ朝敵になった藩の中で、会津藩ほど薩長側から憎悪の標的とされた藩はなかった。それはいかなる理由からであったのか。   続く