風布と書いて「ふうぷ」と読む。この聞きなれない地名が秩父山中にあるということを知る人は少ないであろう。
風布は現在地番でいうと埼玉県大里郡寄居町と秩父郡長瀞町にまたがって所在する集落で、今なお交通不便な山峽の地にある。
地形的にいうと、そこは、秩父山中を北に流れ下った荒川が長瀞あたりで東に大きく向きを変え、さらに、下流の寄居町方面に流れ下ることによってできた、弧状の山域のちょうど中ほどに位置している。
地図を眺めて見ても、その地がかなりの山奥で、地形も入り組んだ峻険な地であることが分かる。村の南端には釜伏山が控え、そこを源とする風布川が村落の東側を北流している。そして、川は七つの支流を集めながら荒川に注いでいる。
この風布川の水源に「日本(やまと)水大神」なる水神さまが祀られている。言い伝えによると、その昔、日本武尊が東征のおり、この地に立ち寄り、戦勝を祈願して、岸壁に剣を刺したところ、そこから冷たい水がこんこんとわき出たという。以来、ここの水は霊水とあがめられ、不老長寿、子授け、また、ある時は、旱魃時の雨乞いのもらい水として尊ばれてきた。
風布は落人伝説が生きる場所でもある。
かつて、寄居町のはずれには小田原北条氏が居を構えた鉢形城があった。が、その城は戦国の動乱のなかで落城し、その時、この城に立て籠もっていた武将たちが、一族郎党を引き連れて山中に逃れたという。いま風布を訪れると、家の祖先が北条氏の落人であったと語る村人が多い。しかも、彼らはそのことを誇り高く語る。
史実によれば、鉢形城の落城はつぎのようなものであったという。
鉢形城の歴史は古く、すでに平安時代の末期にはここに砦が築かれていた。平将門も利用したと伝えられる天然の要害は、のちに、地元の豪族であり、この地域を支配していた山内上杉家が所有することになった。
実際に居城していたのは、山内上杉氏の家老職であった藤田康邦という武将であったが、その康邦が永禄年間に、その頃、小田原北条氏の頭領であった北条氏康の子の氏邦を養子に迎えることになった。
以後、鉢形城は藤田康邦の養子になった北条氏邦が居城することになり、小田原北条氏の所有になる。その後、城は大改修され北関東の要としてふさわしい城に生まれ変わるのである。
鉢形城は、荒川がつくる扇状地の扇頂部にあたる場所に築かれた平山城であった。そこはちょうど河岸段丘の上にあたり、急直下する数十メートルもの段丘崖が天然の防壁をなしていた。
その頃の鉢形領は、男衾(おぶすま)、秩父、榛沢(はんざわ)、那珂、児玉、賀美五郡の武蔵国北西部の広い地域に及んでいたといい、それはちょうど、荒川の中・上流流域から神流川(かんながわ)にわたる広い範囲であった。
鉢形城は、また、高松城(皆野)、天神山城(長瀞)、用土城(寄居)、八幡山城(児玉)などの幾つもの支城をもっていた。これから見ても、この城がいかに重要視された城であったかがうかがえる。
時は戦国の力関係が目間苦しく変貌する時代である。北条氏はある時は武田信玄と同盟し、上杉謙信に対抗することがあったかと思えば、また、ある時は、謙信と組んで、信玄に敵対してもいる。
やがて天下統一の機運が強まるなか、豊臣秀吉の北条氏討伐がおこなわれる。天正十八年(1590)六月十四日、東海道と中山道の両面から四万五千の兵をもって攻め入った豊臣軍は、鉢形城に立て籠もる北条軍三千五百を壊滅させる。大軍を前にして一カ月あまりの間、北条軍はよく戦ったが、ついに城は落城。この時、多くの北条氏の敗残兵が秩父の山中に身を潜めたという。
今でこそ風布は山中に孤立したようにあるが、江戸時代、そこは寄居と秩父地方を結ぶ秩父甲州往還のほとりにある地として、さまざまな情報がもたらされ、都会文化の流入があった。
その往還は、寄居から荒川をわたると、西に山中をたどり、途中、釜伏峠を通過する。釜伏峠は標高五八二メートルの釜伏山のふもとにある峠で、山中を登りつめた道は、ここに至ると以後なだらかな尾根道に変わる。街道はこのあと下り道になり、さらに西行して長瀞あたりでふたたび荒川をわたり、西谷(にしやつ)と呼ばれる秩父の西部地域に入る。
江戸期になり、風布村は忍藩(おしはん)に属することになった。
寛政四年(1792)の記録によると、田一町六反余、畑五二町余、屋敷九反余とあり、家の数八〇、人数三二六、馬二九、水車一、猟銃鉄砲を所持する者十三とある。
村の生業は、主に農業、養蚕で、農閑期には男は炭焼き、女は機織りに従事した。村人は山峽に肩を寄せあうように集落をつくり、厳しい環境のなかで、つましい日々を過ごしていた。そうすることで、村落共同体を守りつづけてきたといえる。
それを裏付けるものとして、この地に伝わる数々の民俗行事をあげることができる。
例えば、長瀞町に属する蕪木、大鉢形、阿弥陀ケ谷耕地に伝わる、正月と盆の十六日に行われる回り念仏はその好例であろう。
村人が庭先や村の小祠の前に集まり、太鼓や鐘を叩きながら、輪になって念仏を唱え、大数珠を互いに回してゆくという行事である。
この行事は、そもそもは落ち武者の祖先を供養するためのものとされるが、それ以上に、日頃、共同体に支えられて生きているということ、互いの関係性の確認をするための行事であることは明らかである。こうした行事をとおして、村人たちは自らの共同体意識を高めあってきたのである。
村に伝わる数々の民俗行事は、また、彼らが、さまざまなかたちで、神々とのつながりを強く意識した生活を営んできたことをあらわしてもいる。
神の宿る地として、そのシンボル的な存在になっているのが風布村の南方に控える釜伏山である。この山には村の産土神を祀る社(奥宮)が鎮座している。風布の民人にとって、そこは土地霊が宿る場所である。また、山のふもとの釜伏峠に近い場所には里宮とも言える釜山神社を祀っている。
じつは、この神社は、明治初年の神仏分離によって、一時期、さらに麓の姥宮神社に合祀されたことがあった。にもかかわらず、村人の釜山神社に対する信仰は絶えることはなかった。のちになって再興され、今日に至っているのもそれを裏付けている。
明治十七年十月三十一日、この風布村に異変が起こった。夜八時頃であった。釜伏山中で突如、一発の銃声が鳴り響いたのである。それはある行動を促す合図だった。以前からひそかに企てられていた動きが表面に躍り出たのである。
風布村の蜂起はこうしてはじまったのである。だが、この動きはいちはやく警察に察知された。寄居警察署長名による次のような第一報がすでに浦和の警察本署にもたらされていたのである。
「秩父郡風布村金尾村の困民等鳶道具を携へ、小鹿野地方へ向け押し出す模様あり。早く出張あれ。 明治十七年十月三十一日付 午后二時五分」
その蜂起は高利貸を征伐するための行動だった。負債返済据え置きの農民の要求は、これまでも、ことごとく無視されつづけてきた。それに対する怒りが爆発したのである。
高利貸を征伐するという行動は、当時、明治政府が推し進めようとしていた富国強兵政策に異議を唱えることを意味した。高利貸こそが明治政府の政策実行者であり、村の共同体を破壊する張本人である、という認識がそこにはあった。
風布村は江戸期以来、養蚕を生業にする農民が多かった。その養蚕により作り出される生糸の値段が、その頃、政府が進めていたデフレ政策によって大暴落していたのである。
生糸の価格の下落は農民の借金を増大させ、農民を身代限り(今日でいう破産)の状況に追い込むことになった。この状況は風布村ばかりではなく、秩父一円の山村に共通していた。追い詰められた秩父の農民がいっせいに蜂起したのは十一月一日のことである。下吉田村(現吉田町)にある椋神社が集結の場所だった。世に言う秩父事件である。
これに呼応して風布村の農民もいち早く行動に移っていた。荒川を越えた西谷にある椋神社に集合するには、前日の三十一日に風布を立たねばならなかった。八九戸の村からは五八人が参加した。その数は他の村と比較しても決して少ない数ではなかった。
ここに後日譚が残っている。
蜂起前日の十月三十一日、先発隊を指揮して山を下り、荒川に沿う下田野村で捕らえられた耕地オルグ大野福次郎という農民についてである。
福次郎はのちに軽懲役七年半という刑を科せられるのだが、明治二十二年十月の大日本帝国憲法発布で恩赦になり出獄。病人のような状態で家にもどり、その後は、ほとんど寝たきりの日々であったという。だが、その彼が子供たちに言い含めたことがあった。畑仕事は、まず、蜂起で命を落とした家の仕事を手伝えと。そして、自分の家の畑仕事は夜、月明かりの中で行うように、と命じたという。
その彼が、明治二七年四月十七日に行われた釜山神社の大祭に総代として祭りを取り仕切ることになった。
体力が少し回復したのだろうか。福次郎は以前から熱心な氏人のひとりだった。彼にとっては、長い間、切望していた祭礼への参加であったろう。
ところが、祭典が執り行われているさなか、突然、福次郎の様態が急変、帰らぬ人となってしまったのである。
この福次郎の死は、村の共同体を守るべく立ち上がり、時の政府に反抗し、その後、苛酷な人生を生きぬいたすえに、ふるさとの神に抱かれて従容と死んでいったひとりの男の死であったと、村人たちには受け止められたのである。 完