縄文人の反乱 日本を大事に

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日本 黙ってやられっぱなしか(怒)

2014年03月16日 20時02分27秒 | 色んな情報

日本      黙ってやられっぱなしか(怒)

日本政府もええかげんにせいや!!!

ライタイハンは日本かんけーねーけど
朝鮮人の残虐性をこれでもか!これでもか!と映画にしたれや!!!
原爆投下も
ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんぶ
映画にしたれや!!!
ムカつく(怒)
三池崇史にでも監督させろや!!!
残虐性は、酷いぞ
あああ、三池崇史が朝鮮人なのか( ̄^ ̄)ゞ

ビバリーヒルズで反日宣伝 「尖閣は中国領」を訴える映画上映 

【ロサンゼルス=中村将】映画を利用し反日をあおる動きが米国で表面化してきた。沖縄県の尖閣諸島を「中国に属している」とする映画「釣魚島(尖閣諸島の中国名)の真相」がロサンゼルス・ビバリーヒルズの映画館で上映された。招待客のみの1日限りの上映だったが、インターネット上で販売やレンタルを始め、中国主要メディアが反響を報じている。韓国政府も「慰安婦」映画の制作に関心を示しており、映画が新たな反日ツールになる可能性が浮上している。

 「釣魚島の真相」はロサンゼルスの映画会社「モナレックス」が制作。同社社長で、米国人のクリス・ネーベ氏が監督した。

 映画は、戦時中の映像やニュース映像を多用したドキュメンタリー風のもの。日本軍の残虐さを強調しながら、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」「性奴隷」などといった言葉を使って日本を糾弾している。

 尖閣諸島については「サンフランシスコ講和条約で不法に日本領にした」とし、「米政府は日本に対し、ただちに釣魚島を返還し戦争犯罪について中国に謝罪するよう促さなければならない」と主張している。

 今月11日に放映した映画館は「招待客約100人が鑑賞した。追加放映の予定はない」としているが、中国メディアは映画の反響を強調している。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140316/chn14031610130000-n1.htm

中国中央テレビは「映画は釣魚島が古来中国に属しているという事実を示している」とし、「観客らは放映後、『歴史に対するこれまでの理解は間違っていた。われわれは真相を知ることになった』と表明した」などと報じた。

 映画を見た米国人女性(32)は、産経新聞の取材に「何も知らずに見ると、日本は残酷で悪い国というイメージになる」と語った。

 映画で国際社会に反日を訴える戦略をめぐっては、韓国政府の趙(チョ)允旋(ユンソン)女性家族相が、慰安婦関連映画などの制作支援を強化すると表明。在米韓国関係者によると、趙氏は「映画は慰安婦の実情を知らせるのに重要な役割を果たすだろう」と話しているという。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140316/chn14031610130000-n2.htm


【秋元康氏の東京五輪理事起用中止求める署名が開始 】

2014年03月16日 19時58分31秒 | 色んな情報

【秋元康氏の東京五輪理事起用中止求める署名が開始 】
       京免 史朗
署名サイト、change.orgで東京五輪・パラリンピック組織委員会宛てに『秋元康氏の「五輪組織委員会理事」の起用を中止』を求める陳情が立ち上がった。

秋元氏の理事内定は決定事項ではなく、17日に正式に決まる方向だ。...
陳情の発信者はKawai Gee氏で、以下のような理由から秋元氏起用に反対している。

“現在日本では、かつて無いほど能力のない芸能人が増えており、
マーケティング、パーソナルブランディングのみを先行し、特定の利権構造、排他的な経済圏を形成しています。

一部のノイジーマイノリティ、ファンを除き、多くのサイレントマジョリティの一般人は、
今後のこの上辺のイメージを強調したエンターテイメント業界を危惧している”

このうえで、以下のように秋元氏起用が招く懸念事項を説明している。

“彼のプロデュースするグループを客観的に見てたとしても、
「日本のエンターテイメント業界の更なる衰退、焦土化」、また「2020東京五輪の質の低下」を意味するものと考えられます”

他の理事にはハンマー投げの室伏広治氏や、体操の田中理恵氏、柔道の谷本歩実氏、写真家の蜷川実花氏、河野雅治駐イタリア大使らが起用されると見られている。

秋元氏はあくまでも「理事」であり、「開閉会式の総合プロデューサー」に就任するわけではないが、ネット上ではすでにその任も内定していると解釈している人も多く、同氏がプロデュースするアイドルユニットが総登場すると思う人もいるようだ。

「ロシアのバレエみたのかよ 芸術のレベルが違い過ぎる」「もしもAKBとかJPOPをやるくらいなら演歌とか歌舞伎とか御輿を担いでもらった方がマシだわなんなら忍者、侍でも良い」「内輪で盛り上がってる恥さらし学芸会を世界へ向けて放送するってか 五輪の雰囲気ぶち壊しだな」--こういった意見が書き込まれているのだ。

なお、Kawai Gee氏は17日までに15万人の賛同者を求めている。
http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/no-to-yasushi-akimoto


本日の清掃作業は天候にも恵まれ、日米あわせて50名余りの参加者が集まりました。

2014年03月16日 19時48分42秒 | 色んな情報

本日の清掃作業は天候にも恵まれ、日米あわせて50名余りの参加者が集まりました。
手登根 安則
特に危険なものは見つかりませんでしたが、廃品となった傘の布地を切り裂いて作ったと思われる紐が無数に結わえられておりました。
つまり、ゴミを結わえていたのです。...
参加者はひとつひとつ、丁寧にそれを手作業で取り除いておりました。

途中、ある女性が私たちの清掃活動へ差し入れを持って現場を訪れました。
彼女がおにぎりやサーターアンダギーなどを降ろすために路肩に停めたとたん、わざと車の後ろに車をつけクラクションを鳴らし、迷惑そうな顔で睨みつける男たちがいました。
この車両ですが、この後近くのヘイワ団体の事務所の前に駐車しているのが目撃されております。
参加者が年齢、国籍、人種関係なく皆笑顔で楽しそうにしていることが気に食わなかったのでしょう。
己と違う考えの者の存在を一切認めず憎み疎外する・・これが彼らのヘイワ。
頂きました差し入れ、作業後の皆さんでありがたく頂戴しました。
この暖かな「うむい」に心から感謝します。

そして今回、広島の有志から届けられた横断幕が初披露されました。
「いかなる理由があろうとも街を汚す行為に正義は無い」
「フェンスクリーンプロジェクト広島支部 贈」と記載されています。
既に作成された「フェンス清掃中」の横断幕と併せ、この言葉が多くの方々の心に届くことを願っています。

ここでのェフンスクリーン作業は、沖縄のメディアが総出で沖縄の人々の目から隠そうとしております。
しかし、FBやツイッター、チャンネル桜などを通じ、どんどん広がりつつあります。
そしていま、県内外からも多くの方々が参加して頂くようになりました。
相手を憎み罵声を浴びせ唾を吐き、フェンスを汚すことで平和が得られるとは思いません。
憎しみは憎しみしか生み出さないことに、不毛な運動で晩節を汚す方々は一刻も早く気づいて欲しいと思います。

本日初参加の母娘さんがおられました。
「いままで何も協力できずすいません」と目に涙を浮かべておられでした。
私は、「ここは泣くところではありません、皆で笑顔になるところです、そんな顔をしなくてもいいんですよ」と、声をかけました。
こうして足を運んでいただいたことが、この活動の礎となっていくのです。

私たちの姿こそが、「平和」そのものであると、私自身自負しています。
今後とも、フェンスクリーン、ハートクリーンプロジェクトへの応援、ご支援を宜しくお願い申し上げます。


【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

2014年03月16日 19時41分37秒 | 色んな情報

【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

◆最澄と空海

 彼らがいなければ、日本仏教というのはかなり変わった形になっていたかもしれない。日本仏教のいちばん元になったような非常に大きなスケールのものを、平安時代の初めに広めた。

 教科書の記述では、「最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。ともに遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた」とある。
 しかし、その性格は全く対照的。秀才肌で真面目な最澄、天才肌で外交的な空海。喩えるなら往年時代の王と長嶋、漫才界のやすしきよしのような存在?

(謎1)二人は元祖・尾崎豊だった?

 767年に近江の国に生まれた最澄は、19歳で年間10人しか認められない朝廷の正式な僧侶に。仏教界の若きスーパースターだった。
 7歳下の空海も18歳で奈良に行き、キャリア官僚になるため猛勉強の日々。だが、この時は全くの無名。

 奇しくもこのあと二人はドロップアウト。
 最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究のため比叡山に籠もってしまう。空海も奈良を離れ山に入った。

 いったい二人に何があったのか?
 当時の仏教は「位」とか「お寺を建てる」ための仏教だったので、嫌気が差し、自分の好きなことができる仏教を求めたのではないかとみられる。

 奈良時代後期、僧侶として出世することが社会的ステータスになったが、僧侶が政治に介入することが増え、世の中は混乱。貴族たちの脱税のために寺院が利用されるなど堕落の一途を辿っていた。
 社会に反発する二人の姿は、まさに反逆のカリスマ尾崎豊!?

 そんな中、京都に都を移した桓武天皇は、新しい宗教とスターが必要だと考えた。そこで、比叡山にいた最澄を朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開くことを認めた。再び主流に戻ってきた最澄。

 そして二人はやがて再び共通の思いを抱く。「唐に行こう」。当時の唐は最先端国家。日本は遣唐使を通じて新しい仏教を学んでいた。
 日本だけで仏教を極めるのに限界を感じた二人は唐を目指したのだ。

 804年、最澄38歳、空海31歳の時、これまで接点のなかった二人は、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐に向かうことに。

 桓武天皇に認められていた最澄は旅費も無料、通訳付きの特別待遇。しかし空海は長期滞在が義務づけられた、その他大勢の留学僧だった。
 実は空海は正式な僧侶の手続きをしていなかった。慌てて手続きをして遣唐使船に飛び乗った。旅費をどうやって稼いだかは未だに謎。

(謎2)二人が持ち帰った密教とは?

 空海は2年余りの期間で驚異的な活躍を見せた。彼が目に付けたのが当時最先端と言われていた密教。難解なサンスクリット語をすぐマスター。密教の経典や曼陀羅もゲット。わずか2カ月で密教の全てを受け継いだ。日本で埋もれていた天才は世界に旅立つことで花開いた。

 一方、最澄は視察目的の短期留学ということで、世界的に主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、1年足らずで帰国。それゆえ密教に関しては不完全なままだった。もっと学びたかったのだが。

 密教というものが大きな力を持っているという情報が日本にも入ってきて、しかも日本では桓武天皇から嵯峨天皇に変わっていた。「天台宗もいいが今の流行は密教だ」と。
 嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に仏教で国家を守る役割を任せることにした。エリート最澄についに並んだのである。

 最澄はプライドを捨て、7歳下、しかも格下の空海に弟子入り。
 元来努力型の秀才の最澄は真摯に学び、空海もそんな姿に感銘して、お互い尊敬し合う仲になった。

 そもそも、密教とはどんな教え?
 大日如来と一体化することを目指したものだが、それまでの仏教が経典によって広く教えを伝えようとしたのに対し、密教は師匠から弟子へ口伝えで奥義を教える。

 そんな密教は最近の仏像ブームに一役買っている。貢献したのは曼陀羅の存在。言葉で表すのが難しい密教の世界観を見た目で示すもの。

 曼陀羅は何を表しているのか?
 もともと原点は、見えない世界の仏を見えるようにして我々に教えてくれるという発想。仏のグループ分けは曼陀羅によって初めて日本人にもたらされた考え方。
 喩えるなら、たけし軍団の相関図のようなもの?人間関係が一目瞭然となる。

 曼陀羅は、見た目で表すことで誰にでも分かりやすく密教の世界観を教えた。こうして庶民の拝む対象が明確になり、仏像は平安時代に一大ブームになった。
 日本に多くの仏像が残っているのは、空海と最澄が伝えた曼陀羅が大きく影響。

(謎3)仲の良かった二人が決別した理由とは?

 些細なことがきっかけ。密教の経典の貸し借りで仲違いしたのだ。密教の秘法を学んでいない最澄の申し出を空海が拒絶したためだった。
 さらにその後、空海のカリスマに魅せられた最澄の弟子が空海に弟子入りしてしまった。
 これらを機に二人の関係は断絶したと言われている。

 密教というのは経典を写すとか聞くだけとか頭の中で考えるだけでなく、自分でやってみるもの。最澄は忙しくてそれをやる時間がなかった。だから最澄はその時点で天台宗に密教的な要素を含めるのはやめようと。
 密教に対する考え方が違っていて、それぞれ自分の信じる別の道を歩いた。

(謎4)二人が今の日本人にもたらしたものは?

 最澄が開いた比叡山延暦寺は仏教の総合大学といわれ、その後のスーパースターを数多く輩出。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などは、もともと天台宗から派生したもの。

 一方、空海はそのカリスマ性ゆえに自らが信仰の対象になった。川崎大師や西新井大師などの「大師」とは弘法大師、つまり空海のこと。また「弘法も筆の誤り」という諺を残すほど書の達人。さらに漢詩の文集や解説書を記すなどマルチな才能を発揮した。

 そして空海は布教とともに全国を行脚し、社会貢献を行った。
 空海が見つけたといわれる温泉は全国各地に存在している。さらに治水事業として行った「讃岐の水瓶」満濃池は今も利用されている。
 また、四国八十八か所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれたという。

 努力を重ね多くの弟子を育てた最澄、天才的な才能で自らがカリスマとなった空海。
 二人はそれまで高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功。それこそが、彼らの最大の功績。仏教の日本化である。
 日本人の仏教にまつわる考え方や生活習慣は、この二人がいなかったら全く違ったものになっていたかもしれない。


【VANK】「慰安婦問題はアジア版ホロコースト。独島でも韓国へ協力」

2014年03月16日 19時11分06秒 | 色んな情報

【VANK】「慰安婦問題はアジア版ホロコースト。独島でも韓国へ協力」
オランダのアンネフランクの家・ドイツの記念館が協力表明[02/21]

バンクの提案に賛同...慰安婦 - ホロコーストの連携の成果を期待

(ソウル=聯合ニュース)ワングギルファン記者=

ドイツとオランダのホロコースト記念館が日本軍慰安婦発表に乗り出す。

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慰安婦がホロコーストだなんて・・・

ホロコーストとはこのようなことを云うのです。

★★ホロコースト★★

■ハンセン病院虐殺事件 1945年8月21日
ハンセン病の隔離施設「小鹿島」で園運営をめぐっての対立で
朝鮮人職員らにより入所者患者中自治会員ら84名が虐殺されます。

しかし、まだ朝鮮に駐留していて、
武装解除していなかった日本軍が緊急出動し24日には鎮圧されました。

■麗水・順天反乱事件 1948年10月
済州島事件の鎮圧に赴くはずだった第14連隊の1個大隊が反乱。
反乱軍は人民裁判により、400人以上の警官やその家族などを殺害した。

鎮圧軍は、順天町民5000人を順天北国民学校の校庭に集め(中略)、
人民裁判に積極的に参加した者を一級、消極的に参加した者を二級、曖昧な者を三級とし、
反乱軍と一級をその場で棍棒で殴り殺した。

■国民保導連盟事件 1950年夏
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計120万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。

国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。

しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、韓国人によって全て虐殺された。

■大田刑務所虐殺事件 1950年7月始め
朝鮮戦争勃発直後の1950年7月初め、韓国の軍と警察が、大田刑務所の収監者約1800名を銃殺していたことが、このほど資料的に裏付けられた。

このことは、2000年1月5日、韓国マスコミが、機密指定解除されたアメリカ国立公文書館の文書から「処刑」が確認されたと報道したことにより、明らかになった。

■国民防衛軍事件 1950年冬
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
中国の人民解放軍が”義勇軍”として介入すると、米韓軍は南に退却した。
このときに、北朝鮮の占領地域に青年達を残してゆくと、北朝鮮側に使われる事になる。

敵を利してはならない。というので、これらの青年を狩り集めて、南に連れて帰った。
この時の受け皿となったのが「国民防衛軍」であった。

しかし、南に連れて帰るとはいっても、輸送手段も無く、宿泊施設も、食料も、衣類も、寝具も無い。
酷寒の中を、ただひたすらに、南へ南へと進んだ。
通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。

■漢江人道橋爆破事件 1950年春
1950年6月25日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻し、韓国軍は後退を続けていた。

避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、
増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥った。

6月28日深夜1時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破され、
ソウルの最終防衛線は崩壊した。

参謀総長の橋の爆破命令を受け、28日2時20分ごろ、陸軍本部工兵監(崔昌植大佐)は爆破命令を下達した。
しかし、当時橋梁上には4000人以上の避難民と車両があったにも拘らず
韓国軍は避難民もろとも漢江人道橋(漢江大橋)を爆破した。

この爆破で約500~800名と推定される避難民が死亡した。
さらにこの早すぎた爆破のせいで、最前線の韓国軍部隊が退路を絶たれたことを知って、防衛線が雪崩を打ったように大崩壊。

■居昌事件 1951年春
朝鮮戦争中の1951年2月9日から2月11日にかけて大韓民国慶尚南道居昌郡にある智異山で韓国軍が共産匪賊のパルチザンを殲滅するためとして、大人(15歳以上)334人と子供(15歳未満)385人からなる無実の市民を虐殺した

■光州事件 1980年春
5.18光州民主化運動(5.18こうしゅうみんしゅかうんどう)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した、民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、死者170名以上と多数の負傷者を出した事件。


【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

2014年03月16日 18時58分33秒 | 色んな情報

【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

◆日本語の中に隠れた仏教
...
・玄関
 もともと「玄妙な道に入る関門」という意味で、仏門に入るいとぐちを指していた。それが寺の門、特に禅寺の入口に使われるようになり、やがて一般の家の入口もそう呼ぶように。

・ガタピシ
 擬声語ではなく、漢字では「我他彼此」。ものが対立してうまく行かないことを表す言葉だったが、やがて建て付けを表す言葉に。

・ずぼら
 「坊主」の逆さ言葉。江戸時代、戦乱が治まり世の中が安定すると、戒律を守らずお酒を飲んだり女性に手を出すだらしないお坊さんが現れるように。そんな坊主らを人々は「ずぼう等(ずぼうら)」と呼ぶようになり、やがてそれが短く「ずぼら」に変化。

・ごたごた
 あるお坊さんの名前に由来。町民らがややこしい話の代名詞に使った「ごったん和尚」。鎌倉時代に実在した「兀庵普寧(ごったんふねい)」という建長寺の住職。その説教は難解でややこしかった。それでややこしい話を「ごったんごったんしている」と言うようになり、それがやがて「ごたごた」に。

・もっけの幸い
 思いもよらない幸いという意味だが、この「もっけ」とは「もののけ」。古代より日本人は怨霊・もののけを恐れてきた。これらの退治に有効と言われたのが外国から渡ってきた仏教。だから人々は仏教をありがたがった。つまり仏教側からすれば、日本に怨霊やもののけがあったことが幸いして全国に教えを広めることができた、「もののけも幸いだった」ということ。

・果報は寝て待て
 良いことは自然にやってくるという意味でよく使われている。「果報」は仏教用語で、過去の行いの善悪に対して、必ずそれに応じた結果があるという意味の言葉だった。つまり因果応報。だから過去に良いことをすれば良い結果に、悪いことをすれば悪い結果に。本来は「果報は練って待て」ということで、努力なくして良い結果は得られないという意味の言葉。

・挨拶
 師匠と弟子の問答を禅宗では「挨拶」という。挨=押す、拶=迫るという意味がある。挨拶とは本来、押したり迫ったりしながら互いの悟りが深いか浅いかを試すという意味。それが今では日常的に礼を交わす言葉として使われるようになった。

・ごちそう
 漢字で書くと「ご馳走」。走るという意味の言葉が使われている。韋駄天のようなスピードで料理人が新鮮な食料をあちこちから集め、走り回って準備してくれた大変ありがたいものという深い教えが込められている。

・ぜんざい
 名付け親は一休さん。ある日、1番目の弟子が小豆を甘く炊いた物を出すと、一休さんは喜んで食べた。2番目の弟子が焼いた餅を出したところ、これも一休さんは喜んで食べた。そこで3番目の弟子が小豆を甘く炊いた物に焼いた餅を入れて出したところ、一休さんは大絶賛、「善き哉」と叫んだ。この「善き哉」は仏が弟子を賞賛する時に使われる仏教用語。それを一休さんが使ったことで、「善哉(ぜんざい)」という言葉になって食べ物の名前になったとか。

・カルピス
 乳酸菌飲料。1919年発売。カルピスの創業者の三島海雲がその名前を仏教にちなんでつけた。古代インドのサンスクリット語で「最上の味」を意味する「サルピス」という言葉を選び、そこに当時流行していた栄養素の「カルシウム」という言葉を合わせてできた。

・スジャータ
 コーヒーフレッシュクリーム。釈迦が悟りを開く前の修業時代、ミルク粥を差し出したのがスジャータという娘だった。

・Canon(キヤノン)
 社名の由来が仏教に関係。1934年、前身の精機光学研究所は初号機とも言える試作機を完成。この時、観音様のご慈悲にあやかり、世界で最高のカメラを創りたいと、試作機には「観音」という名前が付けられた。その時のマークには千手観音が描かれている。1935年、本格的なカメラの販売を開始。世界で通用するブランドにしようと、英語で聖典・規範・標準という意味を持ち、なおかつ発音が観音に似ているキヤノンに変更された。

・天才バカボンのキャラクター
 「バカボン」の由来は、連載第1回の表紙で「バカなボンボン」のことだと書かれているが、他の説も存在する。1つめの説は英語のバガボンド(Vagabond=放浪者)、もう1つの説はお釈迦様。その説によれば、バカボンを漢字で書くと「薄伽梵」で、お釈迦様の尊称。
 さらに「これでいいのだ」という決まり台詞は釈迦の悟りの境地を示している?
 赤塚不二夫氏の事務所に聞くと、「そういった説があるのは知っているが、公式にそういった設定があるということはありません。赤塚がそういった考えの上でタイトルを決めたりキャラクターを描いたということも聞いていません」。
 ところが、バカボン=お釈迦様説を裏付ける新たな材料が。それはレレレのおじさん。モデルとなった仏像があると。それは周利槃特尊者(しゅりはんどくそんじゃ)。お釈迦様の弟子の一人で、自分の名前が覚えられないほど頭の良くなかった人で、お釈迦様からほうきを渡されて、一生懸命掃除しなさいと言われたと。
 レレレのおじさんは連載当初はほうきを持ってなかった。何がきっかけで赤塚氏はほうきを持たせたのか?
 周利槃特尊者はある時、ついに仏様の教えが分かった。掃除をしているのは実は自分の心の塵を払っているのだと。掃除によって悟りの境地に至った。レレレのおじさんのモデルなのか?その写真がこれ。
 島根県の一畑寺にある周利槃特尊者の像。が、手には「ほうき」ではなく「はたき」!?
 赤塚事務所のコメントは「読んでいただいた方に好きなように解釈をしていただくのもひとつの楽しみ方」。

・他に「ふとん」「楊枝」「帽子」「知事」「大袈裟」「しゃかりき」「上品・下品」「ウロウロする」なども仏教由来。ウロウロの漢字は「有漏有漏」。「漏」は煩悩のこと。


【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

2014年03月16日 18時54分42秒 | 色んな情報

【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

◆仏教の宗派

 真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などなど……。
 日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。それらの宗派がさらにいくつも枝分かれしており、派閥は160に及ぶという。
 「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土宗か浄土真宗か時宗。座禅を組めば臨済宗か曹洞宗。「南無妙法蓮華経」と唱えれば日蓮宗。
 が、なぜ同じ仏教なのに宗派がたくさんあるのか?

 そもそも宗派とは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれた。
 2000年以上前のインドのお釈迦様が起源の仏教。修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
 それが中国に伝わってきた時、お釈迦様の教えをどう解釈するか研究が頻繁に行われ、見解が分かれていた。

 失礼ながらラーメンに喩えると、麺をどう作るかにこだわる一派、スープにこだわる一派、バランスにこだわる一派というように、目標は同じだが取り組み方が違う。
 仏教でも目標は同じだが、教えの解釈をめぐる学説の違いから、色々な学説が生まれることに。それは経典におけるお釈迦様の教えが多岐に渡っており、色々な解釈が可能だったから。

 最先端の宗教として仏教が公式に日本に渡ってきたのは538年と言われている。その時、朝廷に金の仏像が上程された。30センチにも満たない小さな仏像だったが、仏像というフィギュアが良かった。
 もともと日本の神様は自然に宿ると考えられていて、埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。山や森などの自然そのものが神で、神様に形はなかった。それがピカピカの仏像といういわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。これは分かりやすく、衝撃だった。

 それまで日本の神々は姿形をはっきり持っていなかった。そういう神々よりもずっと力があるパワフルな神々として仏たちを受け入れた。木や岩に宿るほのかに見えていたものがバーンと出てきたから、その威力は凄まじかっただろう。
 しかも仏像には「国家の平安に効きます」という効能書も付いていた。大和政権はこれを利用しようと考えた。

 そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教を国の政治に大々的に取り入れた。法隆寺、四天王寺もそのために建てられた。

 日本の神々の世界は哲学や体系を持たなかった。しかし仏教は高度な体系を持っている。そのシステムを使うという考え方は国を造っていく上で大変有効だった。
 たとえば真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る、世界を支えているという考え方は、天皇を中心とした国を造ろうとしていた日本にはとても向いていた。

 仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立。さらに東大寺や法華寺が建てられた。そして東大寺は仏教の総本山として経典を研究する場所になった。
 僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析し、国の政治に役立てていた。今で言う国立研究所、東京大学などの国立大学を全部合わせたようなもの。だからこの時代、僧侶は民間に布教はしなかった。仏教は国のものだった。

 しかし奈良時代末期、力をつけた寺の内部が腐敗。堕落した僧侶が現れるようになった。
 これはいかんということで平安京遷都。お寺を一回チャラにした。

 この混乱期に登場したスーパースターが空海と最澄。天台宗と真言宗の誕生だ。
 彼らが唱えた仏教は「仏が国を守ってくれる」+「信仰によって民衆の救済も目指す」という実践的なもの。普通の人の魂を救う仏教へと変わっていった。
 空海と最澄によって日本の仏教の基礎が築かれた。この二人については後ほど。

 最澄の時代から約300年経った平安末期、天台宗や真言宗はまだエリート学問で難しかった。
 そこに現れたのが法然。
 「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、厳しい修行なくして極楽浄土に行ける。ハウツー本のような仏教だった。これが浄土宗。「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」の意。
 それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。

 貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
 念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。

 さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
 親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
 但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
 このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。

 鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
 そのキーマンは栄西と道元。
 宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。

 栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。

 当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
 当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。

 鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
 かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
 武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。

 来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
 日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。

 ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。

 全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
 徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
 これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。

 寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
 住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
 こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。

 今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
 誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。

 だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
 寺子屋もできた。
 お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。

 その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
 今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。


【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

2014年03月16日 15時53分27秒 | 色んな情報

【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

◆仏教の宗派

 真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などなど……。
 日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。それらの宗派がさらにいくつも枝分かれしており、派閥は160に及ぶという。
 「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土宗か浄土真宗か時宗。座禅を組めば臨済宗か曹洞宗。「南無妙法蓮華経」と唱えれば日蓮宗。
 が、なぜ同じ仏教なのに宗派がたくさんあるのか?

 そもそも宗派とは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれた。
 2000年以上前のインドのお釈迦様が起源の仏教。修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
 それが中国に伝わってきた時、お釈迦様の教えをどう解釈するか研究が頻繁に行われ、見解が分かれていた。

 失礼ながらラーメンに喩えると、麺をどう作るかにこだわる一派、スープにこだわる一派、バランスにこだわる一派というように、目標は同じだが取り組み方が違う。
 仏教でも目標は同じだが、教えの解釈をめぐる学説の違いから、色々な学説が生まれることに。それは経典におけるお釈迦様の教えが多岐に渡っており、色々な解釈が可能だったから。

 最先端の宗教として仏教が公式に日本に渡ってきたのは538年と言われている。その時、朝廷に金の仏像が上程された。30センチにも満たない小さな仏像だったが、仏像というフィギュアが良かった。
 もともと日本の神様は自然に宿ると考えられていて、埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。山や森などの自然そのものが神で、神様に形はなかった。それがピカピカの仏像といういわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。これは分かりやすく、衝撃だった。

 それまで日本の神々は姿形をはっきり持っていなかった。そういう神々よりもずっと力があるパワフルな神々として仏たちを受け入れた。木や岩に宿るほのかに見えていたものがバーンと出てきたから、その威力は凄まじかっただろう。
 しかも仏像には「国家の平安に効きます」という効能書も付いていた。大和政権はこれを利用しようと考えた。

 そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教を国の政治に大々的に取り入れた。法隆寺、四天王寺もそのために建てられた。

 日本の神々の世界は哲学や体系を持たなかった。しかし仏教は高度な体系を持っている。そのシステムを使うという考え方は国を造っていく上で大変有効だった。
 たとえば真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る、世界を支えているという考え方は、天皇を中心とした国を造ろうとしていた日本にはとても向いていた。

 仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立。さらに東大寺や法華寺が建てられた。そして東大寺は仏教の総本山として経典を研究する場所になった。
 僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析し、国の政治に役立てていた。今で言う国立研究所、東京大学などの国立大学を全部合わせたようなもの。だからこの時代、僧侶は民間に布教はしなかった。仏教は国のものだった。

 しかし奈良時代末期、力をつけた寺の内部が腐敗。堕落した僧侶が現れるようになった。
 これはいかんということで平安京遷都。お寺を一回チャラにした。

 この混乱期に登場したスーパースターが空海と最澄。天台宗と真言宗の誕生だ。
 彼らが唱えた仏教は「仏が国を守ってくれる」+「信仰によって民衆の救済も目指す」という実践的なもの。普通の人の魂を救う仏教へと変わっていった。
 空海と最澄によって日本の仏教の基礎が築かれた。この二人については後ほど。

 最澄の時代から約300年経った平安末期、天台宗や真言宗はまだエリート学問で難しかった。
 そこに現れたのが法然。
 「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、厳しい修行なくして極楽浄土に行ける。ハウツー本のような仏教だった。これが浄土宗。「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」の意。
 それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。

 貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
 念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。

 さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
 親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
 但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
 このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。

 鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
 そのキーマンは栄西と道元。
 宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。

 栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。

 当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
 当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。

 鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
 かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
 武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。

 来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
 日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。

 ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。

 全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
 徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
 これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。

 寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
 住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
 こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。

 今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
 誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。

 だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
 寺子屋もできた。
 お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。

 その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
 今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。


●ドサ回り●興行●勧進

2014年03月16日 15時37分49秒 | 色んな情報

●ドサ回り●興行●勧進
◆どさまわり  どさまはり  【どさ回り】
① 決まった劇場をもたず,もっぱら地方巡業をすること。また,その劇団。
② 盛り場などを歩き回る遊び人や与太者。地(じ)まわり。 〔「どさ」は地方・田舎の意,「さど」の倒語で,賭博の現行犯が佐渡に送られたことから,など諸説がある〕
 
◆どさ回り   実用日本語表現辞典
読み方:どさまわり
別表記:ドサ回り
地方の劇場を興行して回ること。固定的な劇場を持たず、地方巡業を行って転々としている劇団や芸能人を指す語。また、方々を転々とする遊び人などを指すこともある。
 
◆ドサ回り(ドサまわり)http://p.tl/-vM6 芸能人などが地方を巡業すること。
表舞台で華々しく活躍する一線級の芸能人ではなく、二線級以下の人々の活動を示すことが多い。
転じて、地方で営業活動を行う一般人をも指す言葉となった。
 
◆ちほうじゅんぎょう  【地方巡業】
各地を興行してまわること。ツアー。 「 -に出る」

 
◆こう ぎょう 【興行】
( 名 ) スル
① 入場料を取って芸能・スポーツなどの催しを行うこと。また,その催し。 「地方-」 「 -場(じよう)」 「 -主」
② 法会・芸能・連歌・俳諧などの儀式や会を催すこと,またその会。 「灌頂-せらるべき由/平家 3」
③ 盛んに行われること。 「頃年禅法の-世に喧しく/太平記 24」 → 興業(補説欄)
「興行」に似た言葉» 類語の一覧を見る演芸  芝居  見世物  ショー  ショービジネス
 
◆興行  歴史民俗用語辞典
読み方:コウギョウ
(1)仏事・芸能などを行うこと。
(2)寺社を創設すること。
 
◆興行(こうぎょう)http://p.tl/Jm9c
人間が表現する芸術の基盤を形成し、同時に大衆へ娯楽を提供する行為である。
具体的には見物人から入場料をとる代わりに演芸やスポーツを見せる事である。
「ショービジネス」と言葉としての意味は似ている。
 

 
◆かん じん ] 【勧進】
( 名 ) スル
① 仏の教えを説き,信仰に入らせること。仏教を説いてまわること。勧化(かんげ)。
② 寺社・仏像などの造立・修復のために寄付を集めること。勧化。
③ 出家の姿で物乞いをすること。また,その人。 「はやりうたを歌い-をすれども/浮世草子・胸算用 5」
 
◆勧進   歴史民俗用語辞典
読み方:カンジン
信者・有志者を勧誘して寺院の建立・修繕などの費用を奉納させること。
 
◆かんじん 【勧進】世界宗教用語大事典
勧化ともいい、人を勧めて仏道に入らせるのをいったが、中世以後、仏像・寺堂の造立や修理のため寄付を募ることにいい、またその人をもいった。その帳面を勧進帳という。昔は勧進目的のため歌舞伎・狂言・相撲その他の興業ものがあった。なお、行路病死者の屍体を蓋うため小枝を手向けたのを勧進柴とか、柴立て・柴供養などといった。→ 寄付
 
◆勧進(かんじん)http://p.tl/Qce6
仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。
直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。
 
◆勧進帳(かんじんちょう)http://p.tl/NWi2
如意の渡しでの出来事を基軸にした能の演目『安宅』をもとにした歌舞伎の演目。
歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。
 
◆勧進相撲  http://p.tl/w4F6
宮廷行事としての相撲節会は承安4年(1174年)に廃止されている。その後、相撲は武家社会に根づき、武士たちの屋敷で行われるようになった。

いっぽう、現在の大相撲は神社仏閣の再興や造営の費用を捻出するための江戸時代初期の勧進相撲(かんじんずもう)に端を発している。勧進相撲は、京都、大坂、江戸の三都を中心に開かれた。当時、各地に職業的な力士集団が生まれつつあり、勧進相撲に招かれては出場した。しかし、戦国時代の気風が抜けきれず、様々な問題を引き起こしたため、江戸幕府は慶安元年(1648年)に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出している。

貞享から元禄にかけて、勧進相撲の禁令は随時解かれていき、江戸でも1680年代に興行制限が大幅に緩和された。京都では元禄12年(1699年)に岡崎神社で再開されたという記録がのこり、大坂では、元禄15年(1702年)に現在の南堀江公園(大阪市西区南堀江)で再開されたとの記録がある。なお、おもな力士集団は、秋田、南部、津軽、仙台、大坂、京、尾張、紀伊、讃岐、播磨、因幡、長崎、肥後、薩摩にあったという。勧進相撲は、江戸相撲、京都相撲、大坂相撲の各々が独立した力士集団をもつのではなく、各国の力士集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという形式[7]をとった。

やがて、寛保2年(1742年)に江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁され、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施するという体制が確立していく。神社仏閣の再興などに資することがなくなっても「勧進相撲」の名称はのこったが、それは幕藩体制において寺社奉行の許可が必要だったためである。そして、1925年(大正14年)には東京、大阪の相撲集団が合流し大日本相撲協会(いまの日本相撲協会)へと発展する。形式的にではあるが、「勧進元」という呼称は1944年(昭和19年)まで残り、その名残として地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶことが多い。
 

 
◆●大相撲の勧進 興行主・主催者  http://p.tl/ttqg
 
◆●相撲(すもう)● http://p.tl/i9Pk
◇・ 相撲甚句(すもうじんく) http://p.tl/wn5W ◇○大相撲の勧進 興行主・主催者 http://p.tl/ttqg ◇○勧進(かんじん) http://p.tl/_Hln ◇○むそう http://p.tl/cwJf
 
◆『●勧進(かんじん)』 http://amba.to/1fLHRz9


●水も滴る

2014年03月16日 11時02分29秒 | 色んな情報

●水も滴る
◆水も滴る
読み方:みずもしたたる
美男、美女の形容に使われる表現。「水も滴る良い男」などという具合に使う。特に、若くてハンサムな男性や男性の役者などについて言う。
みずみずしく魅力にあふれている。「水も滴る若衆姿」
 
◆http://p.tl/H3YQ
Q.水もしたたるいい男?女?とはどう言うときに使う言葉で、また、どう言う意味なの...
A.「水もしたたる」ような、とは
「つやつやとして色気のあるような姿」を表した表現です。

一般的には「水もしたたるようないい男」という表現の一部として使われるため
男性だけの表現と思われています。
しかし、「水のしたたるような」とは本来は、男性に限る表現ではないようです。
『広辞苑』第5版(岩波書店)は「美男、美女の形容」としてこの語を説明しています。
『日本語大辞典』(講談社)も「生気ある男や女の、また美男美女の、つやつやとした、
またみずみずしい美しさの形容」と説明しています。
 
◆水も滴るとは何か - 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味 ...
水も滴る
みずもしたたる
 水も滴るは、その後にいい男、いい女などと続けて「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」という成句をつくるが、けっして汗っかきの男や皮膚が溶け出しているオカルト美女を意味するのではなく、肌が新鮮な果物のように潤って水滴がしたたるような美しい男、女のことをいう。「水も滴るいい男」は、どちらかというとさっぱりしたタイプのイケメンについていわれ、性的魅力にあふれていたり、ワイルドな男には適用されない。この種の男性は「水も滴る」というよりむしろ「油が滴る」といったほうが適切だからだろう。(JPZB)
******
水も滴る ついでにこんな言葉もチェックすべし
 •小股の切れ上がった
 •天は二物を与えず
 
◆水も滴るに関するQ&A-Yahoo!知恵袋  http://p.tl/THI5
Q. 「水も滴るいい男」って言い回しがありますが 語源はなんなのでしょうか? 個人的に...
A. 江戸時代は、化粧水の代わりに蜜を塗っていたそうです。本来は役者が流行らせたものだそう...
 
Q. 「水も滴るいい男~~~」「水も滴るいい女」 どっちが正しいですか? それとも、ど...
A. 新明解国語辞典第四版では、「【水のしたたる】鋭気や生気が傍目(はため)にも溌剌(はつ...
 
Q. 水も滴るいい女ですか? その2
A. ああんイイネー凄いね、垂れ流しじやなくて放水かな悩むよ。(^-^)/
 
◆「水も滴るいい男」水はどこから滴る? - 文学 - 教えて!goo  http://p.tl/JYla
国語大辞典(小学館)には「水」の項の小見出しに
「水の滴(したた)るよう…きわだって美しいさまの形容。特に、女性や役者などの美しいさまにいう語。」
「水の垂(た)るよう…・刀剣や具足類などのみずみずしく美しいさまにいう。・人の顔や肌などのみずみずしく美しいさまにいう。」
とありました。思うに、日本刀などの金属的なつややかさが滑らかな水面などを連想させたのではないでしょうか。そこから人の顔にも適用されたのでは?
また、水の滴る「よう」ですから、あくまで形容であり、実際に滴るのではなかろうと思います。
No.5の方の記していらっしゃる柳亭痴楽のギャグは、上記の辞書にあるように、「水も滴るいい」の後には「女・役者」などが来るべきところに、「男(しかも痴楽のあの顔で)」を持ってきたその落差が「客が笑う」ところだったのでは、と想像いたします。
 
◆水も滴るいい女!?「マーキュリー女子」が急増中 - NAVER まとめ http://p.tl/FTIY
三次元でやると奇抜になってしまいそうなブルーヘアーも、人気のグラデやポイントカラーなら挑戦しやすい!


【日本は素晴らしい国だ、侵略国家などではない】

2014年03月16日 10時11分32秒 | 色んな情報

【日本は素晴らしい国だ、侵略国家などではない】

大東亜戦争は世界史的に見ればアジア、...
アフリカ諸国の独立戦争の手助けをしたと言っても
決して言い過ぎではないだろう。

そして、たとえ負けたとはいえ、大東亜戦争の結果として、
アジア、アフリカ諸国は白人国家の支配から解放され、
独立することになったのも事実である。

朝鮮半島や台湾、満州の「植民地支配」についても世間は誤解している。
アジアでもアフリカでも中南米でも繰り広げられた欧米の統治と比べて
極めて穏当で、いずれの地域でも日本の統治によって人口が増え、
経済の近代化に貢献した。

東京裁判はマッカーサー条例という事後法で裁かれた。
裁判官十一人はすべて連合国側から選出された。
けんかをした当事者のうち勝った方が負けた方を裁くのでは
公正な裁判になりえない。

さらに東京裁判を実施させたマッカーサーが、1951年5月3日、
アメリカ上院軍事外交合同委員会で、
日本は安全保障のために戦ったと証言し、日本の立場を弁護している。

戦争を知っている世代が生きている間はまだよかった。
しかし、戦争を知っている世代がいなくなると、
このマインドコントロールは益々強くなり、
政治や教育を規則するようになってしまっているのである。

言うまでもなく日本は古い歴史と伝統を持つ素晴らしい国だ。
日本人の優秀さはよく知られている。
旧軍にしても軍紀の厳正さは世界中で知られていた。

田母神俊雄氏著 「自らの身は顧みず」より