●げす
◆げす 【下種/下衆/下司】
(名・形動)
(1)品性が下劣なこと。また、そのような人やさま。
「―な考え」
(2)身分の低い者。素性のいやしい者。下賤な者。
⇔上種(じようず)
「―下郎」「女も男もいと―にはあらざりけれど/大和 148」
(3)召し使い。
「食(めし)たかせける女のむめといふ―なり/浮世草子・五人女 4」
(4)(「下司」と書く)「げし(下司)」に同じ。
» (成句)下種と鷹とに餌を飼え
» (成句)下種の後知恵
» (成句)下種の一寸のろまの三寸
» (成句)下種の勘繰り
» (成句)下種の逆恨み
» (成句)下種の猿知恵
» (成句)下種の知恵は後から
» (成句)下種は槌で使え
» (成句)下種も三食上臈も三食
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・げ・す 【解す】
(動サ五[四])
〔サ変動詞「解(げ)す」の四段化〕理解する。納得する。悟る。
「それは―・しかねる」「そのやうに事を―・さねえぢやあ、唐人とはなしをするやうだ/滑稽本・浮世床(初)」
→げせる
→げせない
(動サ変)
(1)理解する。納得する。悟る。
「媼が詞の顛末を―・すること能はざりき/即興詩人(鴎外)」
(2)結び目などをといてばらばらにする。ときほぐして、効力などをとり除く。
「足に刀山(とうせん)踏む時は剣樹(けんじゆ)共に―・すとかや/謡曲・歌占」
(3)責任・束縛などからとき放す。また、解任する。
「勅勘を蒙り神職を―・せられて/太平記 15」
(4)解状(げじよう)を上級の役所に差し出す。上申する。
「注給はらんと欲するのみ。謹て―・す/貴嶺問答」
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・げす
(助動)(げせ・げし・げす・げす・○・○)
〔「ございます」の転か〕動詞の連用形+「て」、形容詞連用形、指定の助動詞「で」などに付く。「ある」の意で用いられる。「てげす」の形では助動詞「た」に、「でげす」の形では助動詞「です」の意に相当する。げえす。げんす。
「空蝉の殻風呂敷に成つてで〈げす〉から/滑稽本・七偏人」「もし旦那、…うるさう〈げす〉ね/人情本・春色江戸紫」
〔近世末期から明治初期にかけて、江戸および東京で、主として芸人・職人などの間で用いられた〕
◆甲州弁 意味
げす 練り肥
◆げす 隠語大辞典
からたち(枸橘)の異名。
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・下司
読み方:げす
1.味噌。〔第六類 器具食物〕
2.味噌。
3.味噌を云ふ。「わーぴん」に同じ。
4.味噌のこと。
分類 ルンペン/大阪
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・下司
読み方:げす
1.下賎なる身分の者、又は人格の下劣な者のことをいふ。
2.⑴身分の低い官吏。⑵転じて心の卑しい下品な者のこと、「下種」とも書く。
◆下司(げし/げす)http://p.tl/jhEk
中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた下級職員のこと。
惣公文(そうくもん)とも呼ばれる。
元は身分の低い役人を指して称した。現地の公文や田所、惣追捕使らを指揮して年貢・公事・夫役の徴収や治安の維持などを行った。主に開発領主及びその子孫が荘園公領制の成立とともに下司になるケースが多く、本来は現地における荘官の責任者であったが、荘園領主が現地に上司(うえつかさ)にあたる預所を派遣した場合にはその指揮下に入り、公文・田所と同格扱いされることもあった(その場合には下司・公文・田所を「三職」とも称した)。(下司)職として給田や名田(下司名)、加徴米などの付加税を得分として与えられた(ただし、下司が荘園領主に当該地を寄進した開発領主やその子孫の場合には他に特権を保証されていたケースもある)。時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。地頭は荘園領主が勝手に免ずることが出来なかったため、次第に自立の姿勢を強めるようになり、荘園領主側も下司に対して武家に奉公しない旨を請文を提出させたりする対抗策を取る場合もあったが効果は薄く、鎌倉時代後期から南北朝時代になると自立した下司に代わって荘園領主側から下司の職務にあたる雑掌を派遣するようになった。
●貴船神社の雨乞祭
.2012年3月6日
【雨を司る龍神】 http://p.tl/Y6Bi
古来、雨を司るのは龍神の成せるわざである...との信仰がある。
雨を司るとは、雨を降らせたり止ませたり、それだけでなく、降った雨をしっかりと
地中に蓄えさせて、それを少しずつ適量を地表に湧き出させる、そういう働き全体を
指すのである。日常生活に欠かせないお水、何気なく使っているお水の根源を改めて
想う時に、その神霊の働きを知り、感じることができる。
その龍神こそ、貴船神社の御祭神、
高龗神(たかおかみのかみ)と申し上げる。
降った雨を地中に蓄えさせるのは、大地にしっかりと根を張った樹木の役割で、
樹木の生い茂る水源の地こそ、水を司る神様が鎮まるのに最もふさわしい場所
なのである。まさに貴船神社はそういう場所に鎮座し、「貴船」の語源が
「樹生嶺」または「木生嶺」とも、「木生根」ともいわれるゆえんである。
貴船神社では、毎年3月9日に【雨乞祭】を執り行う。農耕作業の始まる時節を
前に、今年一年適量の雨を賜り、五穀が豊かに実りますように、と祈る祭典で、
「雨乞」の名称ではあるが、晴雨の順調、つまり天候の順調と、適度な水の恵み
を祈るお祭りなのである。
雨乞祭は、かつて貴船神社で行われていた「雨乞祈願」の手振りを今に伝える
重要な特殊神事である。明治までは貴船山中にある雨乞の滝で「雨乞の儀」が
行われていた。雨乞の滝は、一の滝・二の滝・三の滝と三段に分かれていて、
酒三升をそれぞれの滝に一升ずつ流し、祈願者は鈴や鉦の音を鳴らし、太鼓を
打ち鳴らしながら、《雨たもれ、雨たもれ! 雲にかかれ、鳴神じゃ!!》と
囃して川に入り、お互いに水を掛けあった、といわれている。
◆雨乞 歴史民俗用語辞典
読み方:アマゴイ
日でりのとき、降雨を神仏に祈願すること。
別名 雨請、雩(あまひき)
◆雨乞 季語・季題辞典
読み方:アマゴイ
稲の生育に必要な量の雨が降るように祈ること
季節 夏
分類 人事
◆雨乞い(あまごい)http://p.tl/beh8
旱魃が続いた際に雨を降らせるため行う呪術的・宗教的な儀礼をいう。
◆旱魃(かんばつ)http://p.tl/65fQ
雨が降らないなどの原因である地域に起こる長期間の水不足の状態をいい、旱魃の被害を総じて旱害(かんがい)と呼ぶ。旱は「ひでり」、魃は「ひでりの神」の意味である。いずれも常用漢字ではないため旱魃を干ばつ、旱害を干害と代用表記する場合がある。旱魃はその地域の水資源の存在量と人間の水需要がアンバランスになることによって発生するため、純粋な物理現象とはいえない。
◆かんばつ 【旱魃】
〔「魃」は日照りの神〕雨が長く降らず、農作物に必要な水が乾ききること。日照り。[季]夏。
「旱魃」に似た言葉» 干天 日照 水涸れ 渇水 日照り
◆干ばつ 実用日本語表現辞典
読み方:かんばつ
別表記:旱魃、旱ばつ
雨が降らないなどの理由で土壌が乾ききってしまい、農作物が育たない状況。日照り。食糧不足や水不足により地域住民に深刻な飢饉をもたらす。
◆旱魃 季語・季題辞典
読み方:カンバツ
雨が降らず照り続き、田畑・井戸などの水がとぼしくなること
季節 夏
分類 天文
●縄文
◆縄文人の生活再現 .
http://www.youtube.com/watch?v=kAOLxAxo-Q4
アップロード日: 2011/05/05
長野県富士見町井戸尻考古館
(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)で公開中のHD映像です。井戸尻考古館にならぶ、数多くの土器や石器。縄文時代の人びとは、どんな生活をしていたのでしょう。その暮らしぶりを、ちょっとのぞいてみませんか?
◆自分が縄文人か弥生人かを知る方法!! .
http://www.youtube.com/watch?v=LmLYq3VLkFg
◆八ヶ岳山麓の縄文遺跡群
http://www.youtube.com/watch?v=qu8tT8TWfB8
◆謎の土器に隠された古代日本人ミステリー .
http://www.youtube.com/watch?v=5lyDTVzYrs4
minamino
土器はどうであれ 南米の民族と日本人がDNAレベルで近いと言うのは興味深い
あえて新天地を目指して海を渡ったもの
漁の途中で漂流して新大陸に着いた者
日本を捨ててまで海の向こうを目指した者
色んな日本人が当時居たとしても不思議ではないのだ
◆van
海に浮かべた物や舟は人が乗っていようといまいと海流に乗ると南米などに漂着する可能性がある。交易で壺などが売り買いされていて縄文土器が何処で発見されようと不思議はない。エクアドルで縄文土器が製作されようと、古代の日本人が製作していようと移住した決定的証拠にはならない。古代の海の民の生活圏が広範囲であるのは予想出来たでしょう。彼らの存在は当時、地中海まで知られていたと考える事ができる。あの小舟では遠くまで行けないだろうというのは現代人の思い込みに他ならないと科学的に立証された。そうなると簡素な小舟で日本にやって来る事が可能だと逆に証明してしまい、ヘブライの12支族が海路で来日可能だということだ。のちに東北の先住民は大和と争い敗れ従属し取り込まれる。考えるに生き残りは再び文明を取り戻したようだ。
◆縄文土器の意識世界へ─空間と時間概念の成立 Jomon Spirit .
http://www.youtube.com/watch?v=YPMj9nXVWOg
公開日: 2013/02/26
多摩北部の1㎞四方ほどの限定された地域における、縄文時代中期後半の500年間の土器文様の構造変化に基づく、研究プロセスのデモ映像。
◆.【縄文時代】縄文人の生活 .
http://www.youtube.com/watch?v=dIQfvWRhI_o
◆.【古代日本】日本人はどこから来た? .
http://www.youtube.com/watch?v=QO26jIEU12E
江戸時代の女
◆町人の女性の髪型:江戸時代 Edo period .
http://www.youtube.com/watch?v=IzhyFpSERrQ
◆町人の女性の服:江戸時代 Edo period .
http://www.youtube.com/watch?v=L8-UzsKhfds
◆町人の女性の着付け:江戸時代 Edo period .
http://www.youtube.com/watch?v=MSFhFTQOGRE
◆武家の女性の髪型:江戸時代 Edo period
http://www.youtube.com/watch?v=gZbWuxfVgL4
◆武家の女性の着付け:江戸時代 Edo period
http://www.youtube.com/watch?v=VFoPCd1O8QY
◆.武家の女性の服:江戸時代 Edo period .
http://www.youtube.com/watch?v=6BXW0pH3Aco
◆江戸時代 .
http://www.youtube.com/watch?v=Gxx9NjnWP04&list=PLC4DA958574687C6C
●勿体無い
◆もったいな・い 【勿体無い】
(形)[文]ク もつたいな・し
(1)(有用な人間や物事が)粗末に扱われて惜しい。有効に生かされず残念だ。
「まだ使えるのに捨ててしまうとは―・い」「あんな有能な人物を放っておくのは―・い」「こんな事をしていては時間が―・い」
(2)(神聖なものが)おかされて恐れ多い。忌むべきだ。
「神前をけがすとは―・い」
(3)(目上の人の好意が)分に過ぎて恐縮だ。かたじけない。
「御心づかい―・く存じます」
(4)(あるべき状態からはずれて)不都合だ。不届きだ。
「帯紐解き広げて思ふことなくおはすること―・し/盛衰記 36」
[派生] ――が・る(動ラ五[四])――げ(形動)――さ(名)
「勿体無い」に似た言葉» 類語の一覧を見る不経済 無駄 もったいない
◆もったいない(勿体無い)http://p.tl/605W
物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している、日本語の単語である。
「物体(もったい)」とは、元来は仏教用語である。また、「勿体無い」は、もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていた。現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使用される。
・MOTTAINAI・もったいない運動[編集]
ワンガリ・マータイ氏ワンガリ・マータイ[編集]ワンガリ・マータイは、ケニア出身の環境保護活動家である。環境分野で初めてノーベル平和賞を受賞した人物でもある(2004年)。
・『MOTTAINAI』との出会い(2005年2月)
京都議定書関連行事のため、毎日新聞社の招聘により日本を訪問。その時、同社編集局長とのインタビューで「もったいない」という言葉を知る。
「もったいない」は"wasteful"と同じ意味であって、両方の言葉は環境問題を考えるに重要な概念と話したという。
同年2月17日に、当時の内閣総理大臣・小泉純一郎と会談した際、"wasteful"という言葉を使用したが、「もったいない」という言葉を使ったと報道された。
同年3月には国連女性地位委員会で出席者全員に「もったいない」と唱和させたりするなど、世界へこの語を広めようとしている。
・『MOTTAINAI』を世界共通の言葉とする理由
「もったいない」に感銘を受けた後、この意思と概念を世界中に広めるため他の言語で該当するような言葉を探したが、
「もったいない」のように、自然や物に対する敬意、愛などの意思(リスペクト)が込められているような言葉が他に見つからなかった。
消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、再生利用(リサイクル)、尊敬(リスペクト)の概念を一語で表せる言葉も見つからなかった。
・そのため、そのまま『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めているという(『世界一受けたい授業』(日本テレビ系のテレビ番組)などで語った所による)。
グレンイーグルズ・サミット(2005年7月)
歌手のボノやボブ・ゲルドフなどとともに、英首相のトニー・ブレアにアフリカ支援を訴えた(イギリス・スコットランドのパースシャーで開かれた主要国首脳会議)。
その後、エディンバラのサッカー場で開催されたライブ8(Live 8)コンサートで、6万人の観衆に「もったいない」を紹介。
その他の活動
南アフリカ共和国・ヨハネスブルクでネルソン・マンデラ前大統領の87歳の誕生日を祝う式典にも招かれ、ビル・クリントン前米大統領ら約1,000人の招待者にMOTTAINAIを呼びかけた。
アメリカ合衆国ハーバード大学やエール大学などの講演でも「日本人の知恵」としてこの言葉を紹介している。
・再来日(2006年2月)
毎日新聞社の招きで再来日し、当時の環境大臣・小池百合子やトヨタ自動車名誉会長・豊田章一郎、歌手・倉木麻衣など、政財界の首脳や著名人と会談する一方で、千葉県松戸市の小学校や早稲田大学、横浜国立大学、北九州市など日本各地で講演し、さまざまなイベントで市民と交流した。
この際、日本の伝統美である風呂敷を「もったいない精神の象徴」と紹介し、小池と一緒に「Furoshiki」をアピールし、風呂敷ブームを巻き起こした。
・自叙伝での紹介
2006年10月に発刊。タイトルは「Unbowed」(「不屈、へこたれない」の意味)。
アフリカの緑化活動、「グリーンベルト運動」を軌道に乗せるまでの苦難の半生を描いたものであり、その序文でも「MOTTAINAI」を紹介している。
マータイや山口昭(後述)が唱える「もったいない精神」に共通しているのは、本来、日本人が「もったいない」で感じるネガティブな概念を昇華し、これを人やもの、生物、自然、平和を敬う3R運動や環境保護、平和運動の実践理念としてポジティブにとらえている点である。
・小泉純一郎
マータイの活動を受け、2005年3月24日の2005年日本国際博覧会(愛知万博)開会式で「もったいない」に言及し、この言葉を万博を通じて広めたいと語った。この開会式にはマータイも参加した。
さらに、同年度版環境白書、循環型社会白書も「もったいない」に言及。「もったいない」は日本の国家キャンペーンとなった。
・毎日新聞
毎日新聞は、他紙に先駆けて紙面に環境面を設けたり、「科学環境部」という取材セクションを作るなど従前から環境問題に積極的に取り組んできた。
また、アルピニストの野口健をメインキャラクターに、富士山をきれいにする「富士山再生キャンペーン」などにも社を挙げて取り組んでいる。
アフリカ問題でも、アフリカ難民キャンペーンなどを展開。マータイを最初に招聘したのも、その一環だった。
同社は、2005年3月よりマータイを名誉会長に迎え、社内に事務局を設置して「MOTTAINAIキャンペーン」と銘打ったMOTTAINAIをキーフレーズとする環境キャンペーンを開始し、彼女とともに世界に地球環境保全を訴え続けている。
・伊藤忠商事
伊藤忠商事はキャンペーンに参画して毎日新聞社などとともに資源循環型のブランド商品開発を利用してライセンスビジネスを開始した。
リサイクル原料などを使ったネクタイや風呂敷、家具、肥料、伝統工芸品、ケニアの女性によるフェアトレード商品の「もったいないサンクスバンド」、「サンクスバッグ」などを世界に販売している。
・日本青年会議所
社団法人日本青年会議所(JCI-Japan)発「もったいない」運動は、1994年から1999年まで国際青年会議所(JCI)の公認プログラムとして採用され「グローバルMOTTAINAIムーブメント」としてJCIの海外拠点がある各国で展開された。
・滋賀県県知事選
滋賀県知事選挙(2006年7月)
嘉田由紀子が、巨額債務問題と無駄な公共工事の削減(特に栗東市に建設予定の東海道新幹線新駅建設凍結)を掲げて立候補、そのキャッチコピーとして「もったいない」を使用し、当選した。
・もったいない運動の先駆け
もったいない運動のさきがけとしては、1936年(昭和11年)10月23日のケルンで開かれた「無駄なくせ闘争(Kampf dem Verderb)」と呼ばれる展示会(展示会の正式名は、「15億をめぐる闘争」)の開会式においてヘルベルト・バッケの演説から始まったドイツの啓蒙運動をあげることができる。バッケの演説は聴衆に食べ物を粗末にしていないかなどと日常生活の反省を促し、日常のもったいなさ精神を強く喚起させるものであった。運動の主役は各家庭のとくに主婦であるとされ、食品の廃物リサイクルなどを推進し一定の成果を挙げた。日本では、1937年(昭和12年)から始まった国民精神総動員運動によって、物資の節約、廃品、金属等の回収・リサイクル、歓楽街のネオンのライトダウンなどの取り組みが行われている。
日本の民族信仰である古神道においては、森羅万象に対して、「散る桜の花びら」や、「生き物の吐息の一つ一つ」にまで、慈しみや感謝の念をもって接してきた。
◆MOTTAINAI .
http://www.youtube.com/watch?v=yCpTS43wM4k
◆▶ 【MOTTAINAI GREEN PROJECT】 Vol.1 苗を育て、植林するケニアの人々 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Aj_2x19aJGY
http://www.youtube.com/watch?v=Y15cu9fBk4E
http://www.youtube.com/watch?v=rctgeblDwAE
アップロード日: 2011/02/10
MOTTAINAIキャンペーン提唱者であり、ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさん。
彼女のふるさと・ケニア中部キエニ地区を中心とした地域で約20万本を植林する計画 【MOTTAINAI GREEN PROJECT】。
MOTTAINAIキャンペーン参加企業を中心とした日本からの支援で、植林活動「グリーンベルト運動」が取り組み、現地の人々が植林に参加しています。
現地ケニアでどのように植林活動を行っているか、皆様にお伝えします。
第一回目の映像は、種から苗木を育て植林するまでの様子です。
どうぞご覧ください。

( 終戦時の朝鮮族の暴虐 )
もともとの任侠に生きる集団を簡単に列記したが、いずれも侠(おとこぎ)があり仁義に生きるたてまえの職業として生息していた。
一方、古の社会では真にアウトローでありこれ等の集団に属さない者達もいた。...
やくざも恐れる「 亡八 」と呼ばれるものである。
この亡八の語源は仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八つの徳目を忘れた者。
つまり犬畜生にも劣る者と言う訳である。
いわゆる女衒・遊郭にまつわる経営者や女郎の売買や管理を生業とする商人で、それぞれが凶悪な狼であり、群れることを拒み、金銭以外のつながりを持たない者たちのことを指した。
次に博徒のその後の流れの話をしよう。
明治を向かえ貿易など盛んに行われ元々手がけていた港湾関係の仕事・興行関係の仕事が盛んになりそれとともに建築業が盛んになると、○○一家と言う名称から○○組と言う名称の博徒組織が現れ始める。
前記した本業が違法なため鵺の様にその形態を土木建築業者の如く装い始めたということである。
これが博徒やくざ集団の名称「 組 」の始まりである。
この博徒組織は徐々に、先にあげた亡八の分野に手を広げ売春や覚せい剤の仕事に手を染めてゆくわけである。
( 侠客から少しずつ徳目を忘れて行ったってわけねー )
敗戦後1945年GHQの政策によりアジアを開放した義侠の皇軍を何としても侵略国家に仕立て上げ空襲による大虐殺・原子爆弾の投下など正当化する目的で「 帝国による朝鮮人奴隷化説 」を捏造し「 在日朝鮮人連盟 」を立ち上げた。
彼等は、永きにわたるシナの執拗な支配より日本と併合しインフラの整備・身分制度社会の打破・学問の流布など様々な恩恵をこうむったことも恩義に感じず「 戦勝国民 」とうそぶき、無抵抗の我が国民に対して金品の略奪・暴行・殺戮・強姦・土地の不法摂取・公官所への殴り込みや焼却・人民裁判など、我が国の「亡八者」も唖然とする悪の限りを行ったわけである。
GHQの資料によれば殺害された日本人確認されているだけで4000名と、その凄まじい数字に息を呑む。
( そして駅前を占拠しパチンコ屋で稼ぎまくっているのねー )
朝鮮本国では、悪乗り ここに極まり、連合軍に対して、日本側に付いて連合軍と戦ったにも拘らず「 戦勝国の中に入れてほしい 」「 賠償金を分けてー 」と ねじ込んだという。
もちろんこれは受け入れられる事は無かったが、時の朝鮮大統領( 朝鮮族初の独立大統領 ) 李承晩による「 李承晩ライン 」と呼ばれる不当朝鮮の軍事境界線を捏造し日韓漁業協定が締結され、これが廃止される1965年までの13年間に抑留された日本人3929人、拿捕された船舶328隻、死傷者44名を数えた。
この様な悲惨な敗戦後の朝鮮族の横暴を許さず!!と立ち上がった者達。
それは任侠の徒の面々達であった。
つづく
( いしざか てつろー )
いっしょに立ち上がる方・・リクエストしてねー
【嘘だらけの歴史教科書。】
学校の歴史教育が年々劣化している気がします。しかも、最近は正しい歴史に目覚めた日本人が増え始めたのを意識してか、正しい歴史認識を間違っているかのような巧みな書き方になっています。
『小学生の社会6』(日本文教出版)には大東亜戦争についてこのように書かれています。...
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日本軍は、占領地に飛行場や道路、鉄道などをつくろうと、住民や捕虜に労働を強制したため、各地で抵抗運動が起こりました。
戦争が長引き、国内で働き手が不足すると、多数の朝鮮人や中国人を強制的に日本へ連れてきて、工場や鉱山などできびしい労働をさせました。また、朝鮮や台湾で徴兵を行って、日本軍として戦わせたりしました。
日本は、当時、この戦争を「大東亜戦争」と呼びました。政府はアジアを欧米の支配から解放する戦いであると宣伝しました。
戦争に反対するものは非国民と呼ばれ、戦争を批判することは許されませんでした。
戦争が長引くにつれ、物資や労働力が不足して、国民のくらしは、日に日に苦しくなりました。しかし、「欲しがりません。勝つまでは。」などの標語もつくられ、不平を言うこともできませんでした。
産業のほとんどは、戦争に関係する仕事に切りかえられました。男子が兵士として戦場へ行っているため、女性が重要な労働力になりました。
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大東亜戦争が起こった時、アジア各国は何百年もの間、白人の植民地になっており、白人からは奴隷のように扱われ、白人と接することもほとんどありませんでした。
しかし、日本軍が侵略していた白人を蹴散らして、植民地支配から解放してやると、どこの国の住民も大歓迎しました。それは、日本人は奴隷にもしなければ搾取もせず、現地住民と同じものを食べ(白人は違うものを食べていた)、一緒にいるうちに、現地住民も日本語を覚えたり、日本の歌を覚えたり、日本には桜という素晴らしい花が咲くということも聞かされていました。これは日本人の嘘をつかず、まじめで、勤勉な人間性からくるもので、現地住民も「日本人は白人とは違う」ことをすぐに理解しました。だからこそ白人よりも日本人に長くいてほしい、そのための協力は惜しみませんでした。現地人との信頼関係は、今の自衛隊の海外派遣でも、それが引き継がれていることを見れば、これこそ日本の伝統であり、日本軍が現地人を搾取したり、強制労働させたりするわけがないことはすぐわかるはずです。まして軍律厳しい帝国軍人がそんなことをすると、すぐに処罰されます。
戦争が長引くと、日本は昭和13年に国家総動員法という法律を作り、そこには「徴兵令」と「徴用令」というのがありました。徴兵は戦地に行って戦うものではじめは日本人だけでした。しかしその分、日本国内で働き手が足りなくなるので「徴用」として、当時同じ日本人であった朝鮮や台湾から、内地(日本)に来て働くように命じられました。これは法律で定められた国民の義務ですから従わなければなりません。しかし朝鮮人はこれを嫌がって逃げていましたから捕まえられていました。それが「縄で縛られて無理やり・・」と朝鮮人が強制連行の口実にしているものです。これは強制連行ではなく日本人としての義務であったのです。
しかも朝鮮人にこの「徴用令」が施行されたのは終戦近くの昭和19年9月からで、翌20年3月には輸送船が確保できずに日本へ渡ることが出来なくなり、実質3月以降は日本に来ていないのです。
またシナ人は日本に仕事を求めて賃金を貰う労働者として働きに来ていました。自分の意思できたのですから強制したというのは嘘です。特に朝鮮人は給料の高いところ、たとえば樺太とかそういうところに自ら進んで行ったのです。それが戦後、「樺太に強制連行された」と言って賠償を求めているのです。嘘ばかりつくのが朝鮮人です。
また徴兵は、兵隊になると給料が高いので人気がありました。昭和13年に朝鮮人、
昭和17年に台湾人が陸軍特別志願兵として日本兵として自ら志願して兵隊になりました。志願倍率は年々増えて昭和18年には30万人以上の50倍の倍率で応募に殺到したのです。
「日本は、当時、この戦争を「大東亜戦争」と呼びました。政府はアジアを欧米の支配から解放する戦いであると宣伝しました」
これが悪意を感じる表現です。大東亜戦争がアジアの民族解放戦争であることは、戦後独立を果たした全てのアジア国が言葉にしていることです。それを「解放する戦いであると宣伝しました」とはデタラメを教えるのもいい加減にしてもらいたいものです。
戦争は勝つか負けるかです。負ければ白人の植民地にされてしまうという危機感がありました。それは実際に日本が戦後、占領軍にどれほどひどい仕打ちをされてきたかを見れば明らかです。進駐直後から日本女性への強姦、輪姦の連日報道されており、連合軍に都合の悪い報道はしてはならないと規制してわからなくなったのです。
国民一丸となって戦ったのは国を守るために当然のことです。協力しない非国民の「ははだしのゲン」の家族のような共産主義者くらいです。
「女性の重労働」と書いていますが、左翼は男女同権、男女共同参画推進のはずです。特に戦前は女性を家庭に縛り付けるのは不平等だと主張していたのではないか。
自分たちに都合のよいデタラメばかり書く教科書です。日本を悪くするためならば嘘も許されるということです。こんなものが検定を通ること自体おかしいのではないでしょうか。もっと見る
【津波で不明の娘、10年前書いた手紙が両親へ】
読売新聞 2014年03月03日
「この手紙が届く頃は、お父さん、お母さんはもう孫がいるのかな?」――。
...
東日本大震災の津波で行方不明となった岩手県大槌町臨時職員の娘(当時26歳)から今年1月、父親(59)と母親(51)宛てに1通の手紙が届いた。2004年に訪れた愛知県で、10年後に届くよう娘がしたためたもの。思いがけなく届いた手紙で娘の気持ちを初めて知った父親らは、「しっかり生きねば」と心に誓っている。
娘は03年に高校を卒業し、バスガイドとして京都府のバス会社に就職。その後、大槌町に戻って町の臨時職員になった。震災時は町役場にいて、津波にのまれたとみられる。
自宅は被害を免れ、両親も無事だったが、娘は見つからず、両親は約半年後に痛恨の思いで死亡届を出した。娘に町に戻ってほしいと思っていた父親は悲しみに打ちひしがれ、「いつ死んでもいいと思う日もあった。大槌に呼び戻さなければよかったと悔やんだ」。
仕事を終えて帰宅した父親が、自宅のポストに白い封筒を見つけたのは今年1月12日。「どっかで生きてるのか」。まさかと思いつつ封を開けると、中には一日も忘れたことのないきちょうめんな字で書かれた便箋が2枚。バスガイドだった04年1月10日に、愛知県犬山市の博物館「明治村」で、手紙を10年間保管して届けるサービスを利用して出されたものだった。
つづられていたのは、就職のため親元を離れた日のこと、バスガイドとして働く日々のこと、10年後の自分のことなど。震災の直前、娘は8年間交際してきた中学時代の同級生と婚約していた。「結婚して子供もいるんだろうと思うけど、一人身だったらどうしよう」という一文を見つけた母親は、「まさか10年後にいないなんて」とつぶやいた。
「お父さんお母さんにはいっぱい、いっぱいお世話になったから、これからは、私が2人のお世話をするからね」。娘がこの手紙を書いていたことも、両親に対しそうした思いを抱いていたことも、父親らは知らなかった。「娘の親で良かった。娘に笑われねえように生きねえと」。震災から3年を前に届いた娘からの手紙を、父親らは心の糧にして生きていこうと思っている。
去る日曜日、普天間基地のフェンスに新しい警告文が掲示されました。
手登根 安則
その内容ですが、
...
基地司令官の許可なく、このフェンスに以下の行為をすることを禁ずる
物を取り付けたり貼り付けたりする行為
汚す行為 破損する行為 取り除く行為
日本国の法令に抵触する行為は日本警察に通報する
普天間航空基地司令官
そして今朝の琉球新報さんに大火傷している記事が・・・
またまた貼り付ける行為を「市民」として報道しています。
もう、この連中ばかりを報道するのはいい加減にして欲しいのですが。
問題は通報を受けた警察が警告だけで終わるのか、実力行使(逮捕)するのか。
私たちFCP(フェンスクリーンプロジェクト)は、航空基地司令官の許可の下、清掃活動を行っておりますので何の問題もございません。
但し、今後FCPの清掃活動とは別にフェンス清掃をした場合、警備の警察官に同様の警告を受ける可能性がございます。
フェンスの向こう側で一人で掃除をしている男性
この方が普天間航空基地司令官フリン大佐です。
プロ市民が投げ入れた空き缶やゴミを、文句も言わずに自らの手で拾い集めているのです。
日本国民の一人として、心から恥ずかしく、申し訳ないと思いました。
新聞にちやほやされる「市民」だけが、沖縄県民、日本国民ではありません。
また、朝から罵声を浴びせかけ、フェンスを汚しゴミを投げ入れ、脱糞する行為が平和に繋がるとも思いません。
私たちはこれからも清掃を通じ、誰も守ろうとしない彼らとの絆、そして日本国民の誇りを守っていきたいと思います。