縄文人の反乱 日本を大事に

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◆◆◆ ベトナムの米軍慰安婦 ◆◆◆

2014年03月13日 21時33分37秒 | 色んな情報

◆◆◆ ベトナムの米軍慰安婦 ◆◆◆

WiLL 2007年8月号増刊 (ワック・マガジンズ,2007.8) P.37~38 秦郁彦稿

 しかし何といっても、ベトナム戦の主役は米軍である。サイゴン(現ホーチミン)を中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この領域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。
 幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況について、スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者(ピューリッツァー賞受賞者)に試みたヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。

米軍の性病感染率

 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿(Official military brothels)」が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側にニ棟の「リクリエーション・センター」があり、六十人のベトナム人女性が住みこみで働いていた。
 彼女たちは米兵の好みに合わせて『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく、本番だけ(quick,strainght and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。料金は五〇〇ピアストル(ニドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。
 彼女たちを集めたのは地方のボスで、カネの一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。
 女たちは週ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標識をぶらさげていたが、それでも米軍の性病感染率は千分比で二〇〇(一九六九年)に達していた。(Susan Brownmiller,Against Our Will,1975,PP.9495)

 長々と引用したのは、米軍がコピーしたのかと思うほど日本軍慰安所の生態と瓜二つなので、この本を読めば米下院議員の諸氏に対する説得が省略できると考えたからでもある。ただし、女の取り分は日本軍のほうが良かった(五割以上)かわりにシリコン注射の技法はなかったことを付け加えておきたい。ベトナム戦争末期には、この種の女性たちが三十~五十万いたと書いているシンシア・エンローの著書も参考になる。


止め処なく溢れ出す涙月曜日..-福島県相馬市…阿部新太郎さん(73)

2014年03月13日 09時07分45秒 | 色んな情報
止め処なく溢れ出す涙

-福島県相馬市…阿部新太郎さん(73)

妻洋子さん(67)の言葉-

「長男の健一へ」

 高校を中退し、

父ちゃんと同じ漁師になったお前の腕は

ピカイチだった。

20年かけ「親子船」の

借金3000万円を払い終えた直後に、

嫁と娘2人を残して津波にのまれ、

まだ39歳で無念だったろう。

 今は仮設住宅で暮らす父ちゃんも母ちゃんも、

壁に飾ったお前の消防団の法被を見上げては、

悲しみをかみころしてる。

原発事故でダメになった漁が将来再開されても、

やり直す気力がわかねえ。

でもな、父ちゃんと母ちゃんが

震災後も生きてこられたのは、

健一のおかげなんだ。

 消防団の副分団長として、

お前は津波に襲われるまで避難を呼びかけ、

多くの命を救った。

「健ちゃんが『逃げろ』って

怒鳴ったから逃げた」という人が大勢いる。

震災直後は停電で、

防災行政無線はうんともすんともいわねがったし、

消防団が「命を救うとりで」だったんだ。

父ちゃんたちは、お前が救った人たちに感謝され、

支えられているぞ。

 健一は、生まれた日のこと、知らないべ。

家の田んぼは水はけ悪くて、

秋になっても泥沼でなあ。

母ちゃんは「子が冷える」って

心配しながらも懸命に稲刈りしてた。

そのうち産気づいて、

産婆がお前を取り上げでくれだ。

「健やかに育って」。

そんな願いを託して名付けたのは母ちゃんだ。

 母ちゃんが今思い出すのは、

お前が小さいころのことだそうだ。

「朝の暗いうちから夕方まで浜の仕事で、

健一と遊んでやれなかった。ごめんな」って。

毎日漁に出てた父ちゃんもそうだ。

だから、「早ぐ漁師になりてえ」と

高校2年で退学したとき、

親を助けようと思ったんだって涙があふれた。

 暮らしていた地区で津波にのまれた

消防団員は9人もいた。

副分団長が代々受け継いできた法被姿で

健一が見つかったのは、

2週間後で8人目、最後は分団長だった。

仲間が見つかるのを待ってたんかな。

お前の顔は、きれいで、表情は誇りに満ちていた。

人間は助け合って生きるもんだと、

命を張って教えてくれたんだ。

若い団員が

「健一さんの遺志を語り継ぐため、

辞めません」と言ってくれたぞ。

 お前の娘は高校生と中学生になった。

震災後はふさぎ込んでいたが、

今では勉強とバレーボールに熱中することで

悲しみを乗り越えようとしている。

嫁も気丈に振る舞ってる。

父ちゃんたちの隣に住んで、

母ちゃんも手助けしてっから、

安心していてけろ。

 健一。父ちゃんと母ちゃんは

3年たっても時間が止まったまんまだ。

つらいけど、ありがとう。

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消防団の副分団長として、

任務を全うした彼の雄姿は、

なにものにも代えがたい親の誇りですね。

その逞しい意志をこれからの若い団員へと

受け継がれていってくれることと願っています。

ご両親、ご家族、助けられた人々は

彼の魂と共に、幸せな人生を

歩んで行ってほしいと願うばかりです。

3年目の本日、お亡くなりになった方、

未だ行方不明の方のご冥福を心より

お祈り申し上げます。