◆◆◆ ベトナムの米軍慰安婦 ◆◆◆
WiLL 2007年8月号増刊 (ワック・マガジンズ,2007.8) P.37~38 秦郁彦稿
しかし何といっても、ベトナム戦の主役は米軍である。サイゴン(現ホーチミン)を中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この領域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。
幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況について、スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者(ピューリッツァー賞受賞者)に試みたヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。
米軍の性病感染率
一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿(Official military brothels)」が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側にニ棟の「リクリエーション・センター」があり、六十人のベトナム人女性が住みこみで働いていた。
彼女たちは米兵の好みに合わせて『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく、本番だけ(quick,strainght and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。料金は五〇〇ピアストル(ニドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。
彼女たちを集めたのは地方のボスで、カネの一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。
女たちは週ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標識をぶらさげていたが、それでも米軍の性病感染率は千分比で二〇〇(一九六九年)に達していた。(Susan Brownmiller,Against Our Will,1975,PP.9495)
長々と引用したのは、米軍がコピーしたのかと思うほど日本軍慰安所の生態と瓜二つなので、この本を読めば米下院議員の諸氏に対する説得が省略できると考えたからでもある。ただし、女の取り分は日本軍のほうが良かった(五割以上)かわりにシリコン注射の技法はなかったことを付け加えておきたい。ベトナム戦争末期には、この種の女性たちが三十~五十万いたと書いているシンシア・エンローの著書も参考になる。