【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】
◆最澄と空海
彼らがいなければ、日本仏教というのはかなり変わった形になっていたかもしれない。日本仏教のいちばん元になったような非常に大きなスケールのものを、平安時代の初めに広めた。
教科書の記述では、「最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。ともに遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた」とある。
しかし、その性格は全く対照的。秀才肌で真面目な最澄、天才肌で外交的な空海。喩えるなら往年時代の王と長嶋、漫才界のやすしきよしのような存在?
(謎1)二人は元祖・尾崎豊だった?
767年に近江の国に生まれた最澄は、19歳で年間10人しか認められない朝廷の正式な僧侶に。仏教界の若きスーパースターだった。
7歳下の空海も18歳で奈良に行き、キャリア官僚になるため猛勉強の日々。だが、この時は全くの無名。
奇しくもこのあと二人はドロップアウト。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究のため比叡山に籠もってしまう。空海も奈良を離れ山に入った。
いったい二人に何があったのか?
当時の仏教は「位」とか「お寺を建てる」ための仏教だったので、嫌気が差し、自分の好きなことができる仏教を求めたのではないかとみられる。
奈良時代後期、僧侶として出世することが社会的ステータスになったが、僧侶が政治に介入することが増え、世の中は混乱。貴族たちの脱税のために寺院が利用されるなど堕落の一途を辿っていた。
社会に反発する二人の姿は、まさに反逆のカリスマ尾崎豊!?
そんな中、京都に都を移した桓武天皇は、新しい宗教とスターが必要だと考えた。そこで、比叡山にいた最澄を朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開くことを認めた。再び主流に戻ってきた最澄。
そして二人はやがて再び共通の思いを抱く。「唐に行こう」。当時の唐は最先端国家。日本は遣唐使を通じて新しい仏教を学んでいた。
日本だけで仏教を極めるのに限界を感じた二人は唐を目指したのだ。
804年、最澄38歳、空海31歳の時、これまで接点のなかった二人は、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐に向かうことに。
桓武天皇に認められていた最澄は旅費も無料、通訳付きの特別待遇。しかし空海は長期滞在が義務づけられた、その他大勢の留学僧だった。
実は空海は正式な僧侶の手続きをしていなかった。慌てて手続きをして遣唐使船に飛び乗った。旅費をどうやって稼いだかは未だに謎。
(謎2)二人が持ち帰った密教とは?
空海は2年余りの期間で驚異的な活躍を見せた。彼が目に付けたのが当時最先端と言われていた密教。難解なサンスクリット語をすぐマスター。密教の経典や曼陀羅もゲット。わずか2カ月で密教の全てを受け継いだ。日本で埋もれていた天才は世界に旅立つことで花開いた。
一方、最澄は視察目的の短期留学ということで、世界的に主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、1年足らずで帰国。それゆえ密教に関しては不完全なままだった。もっと学びたかったのだが。
密教というものが大きな力を持っているという情報が日本にも入ってきて、しかも日本では桓武天皇から嵯峨天皇に変わっていた。「天台宗もいいが今の流行は密教だ」と。
嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に仏教で国家を守る役割を任せることにした。エリート最澄についに並んだのである。
最澄はプライドを捨て、7歳下、しかも格下の空海に弟子入り。
元来努力型の秀才の最澄は真摯に学び、空海もそんな姿に感銘して、お互い尊敬し合う仲になった。
そもそも、密教とはどんな教え?
大日如来と一体化することを目指したものだが、それまでの仏教が経典によって広く教えを伝えようとしたのに対し、密教は師匠から弟子へ口伝えで奥義を教える。
そんな密教は最近の仏像ブームに一役買っている。貢献したのは曼陀羅の存在。言葉で表すのが難しい密教の世界観を見た目で示すもの。
曼陀羅は何を表しているのか?
もともと原点は、見えない世界の仏を見えるようにして我々に教えてくれるという発想。仏のグループ分けは曼陀羅によって初めて日本人にもたらされた考え方。
喩えるなら、たけし軍団の相関図のようなもの?人間関係が一目瞭然となる。
曼陀羅は、見た目で表すことで誰にでも分かりやすく密教の世界観を教えた。こうして庶民の拝む対象が明確になり、仏像は平安時代に一大ブームになった。
日本に多くの仏像が残っているのは、空海と最澄が伝えた曼陀羅が大きく影響。
(謎3)仲の良かった二人が決別した理由とは?
些細なことがきっかけ。密教の経典の貸し借りで仲違いしたのだ。密教の秘法を学んでいない最澄の申し出を空海が拒絶したためだった。
さらにその後、空海のカリスマに魅せられた最澄の弟子が空海に弟子入りしてしまった。
これらを機に二人の関係は断絶したと言われている。
密教というのは経典を写すとか聞くだけとか頭の中で考えるだけでなく、自分でやってみるもの。最澄は忙しくてそれをやる時間がなかった。だから最澄はその時点で天台宗に密教的な要素を含めるのはやめようと。
密教に対する考え方が違っていて、それぞれ自分の信じる別の道を歩いた。
(謎4)二人が今の日本人にもたらしたものは?
最澄が開いた比叡山延暦寺は仏教の総合大学といわれ、その後のスーパースターを数多く輩出。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などは、もともと天台宗から派生したもの。
一方、空海はそのカリスマ性ゆえに自らが信仰の対象になった。川崎大師や西新井大師などの「大師」とは弘法大師、つまり空海のこと。また「弘法も筆の誤り」という諺を残すほど書の達人。さらに漢詩の文集や解説書を記すなどマルチな才能を発揮した。
そして空海は布教とともに全国を行脚し、社会貢献を行った。
空海が見つけたといわれる温泉は全国各地に存在している。さらに治水事業として行った「讃岐の水瓶」満濃池は今も利用されている。
また、四国八十八か所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれたという。
努力を重ね多くの弟子を育てた最澄、天才的な才能で自らがカリスマとなった空海。
二人はそれまで高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功。それこそが、彼らの最大の功績。仏教の日本化である。
日本人の仏教にまつわる考え方や生活習慣は、この二人がいなかったら全く違ったものになっていたかもしれない。
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