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【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

2014年03月16日 15時53分27秒 | 色んな情報

【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】

◆仏教の宗派

 真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などなど……。
 日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。それらの宗派がさらにいくつも枝分かれしており、派閥は160に及ぶという。
 「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土宗か浄土真宗か時宗。座禅を組めば臨済宗か曹洞宗。「南無妙法蓮華経」と唱えれば日蓮宗。
 が、なぜ同じ仏教なのに宗派がたくさんあるのか?

 そもそも宗派とは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれた。
 2000年以上前のインドのお釈迦様が起源の仏教。修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
 それが中国に伝わってきた時、お釈迦様の教えをどう解釈するか研究が頻繁に行われ、見解が分かれていた。

 失礼ながらラーメンに喩えると、麺をどう作るかにこだわる一派、スープにこだわる一派、バランスにこだわる一派というように、目標は同じだが取り組み方が違う。
 仏教でも目標は同じだが、教えの解釈をめぐる学説の違いから、色々な学説が生まれることに。それは経典におけるお釈迦様の教えが多岐に渡っており、色々な解釈が可能だったから。

 最先端の宗教として仏教が公式に日本に渡ってきたのは538年と言われている。その時、朝廷に金の仏像が上程された。30センチにも満たない小さな仏像だったが、仏像というフィギュアが良かった。
 もともと日本の神様は自然に宿ると考えられていて、埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。山や森などの自然そのものが神で、神様に形はなかった。それがピカピカの仏像といういわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。これは分かりやすく、衝撃だった。

 それまで日本の神々は姿形をはっきり持っていなかった。そういう神々よりもずっと力があるパワフルな神々として仏たちを受け入れた。木や岩に宿るほのかに見えていたものがバーンと出てきたから、その威力は凄まじかっただろう。
 しかも仏像には「国家の平安に効きます」という効能書も付いていた。大和政権はこれを利用しようと考えた。

 そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教を国の政治に大々的に取り入れた。法隆寺、四天王寺もそのために建てられた。

 日本の神々の世界は哲学や体系を持たなかった。しかし仏教は高度な体系を持っている。そのシステムを使うという考え方は国を造っていく上で大変有効だった。
 たとえば真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る、世界を支えているという考え方は、天皇を中心とした国を造ろうとしていた日本にはとても向いていた。

 仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立。さらに東大寺や法華寺が建てられた。そして東大寺は仏教の総本山として経典を研究する場所になった。
 僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析し、国の政治に役立てていた。今で言う国立研究所、東京大学などの国立大学を全部合わせたようなもの。だからこの時代、僧侶は民間に布教はしなかった。仏教は国のものだった。

 しかし奈良時代末期、力をつけた寺の内部が腐敗。堕落した僧侶が現れるようになった。
 これはいかんということで平安京遷都。お寺を一回チャラにした。

 この混乱期に登場したスーパースターが空海と最澄。天台宗と真言宗の誕生だ。
 彼らが唱えた仏教は「仏が国を守ってくれる」+「信仰によって民衆の救済も目指す」という実践的なもの。普通の人の魂を救う仏教へと変わっていった。
 空海と最澄によって日本の仏教の基礎が築かれた。この二人については後ほど。

 最澄の時代から約300年経った平安末期、天台宗や真言宗はまだエリート学問で難しかった。
 そこに現れたのが法然。
 「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、厳しい修行なくして極楽浄土に行ける。ハウツー本のような仏教だった。これが浄土宗。「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」の意。
 それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。

 貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
 念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。

 さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
 親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
 但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
 このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。

 鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
 そのキーマンは栄西と道元。
 宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。

 栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。

 当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
 当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。

 鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
 かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
 武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。

 来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
 日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。

 ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。

 全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
 徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
 これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。

 寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
 住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
 こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。

 今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
 誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。

 だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
 寺子屋もできた。
 お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。

 その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
 今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。


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