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●詩吟はしたいな

2012年08月22日 21時03分10秒 | 色んな情報
●詩吟はしたいな
★し‐ぎん【詩吟】
読み下した漢詩に節をつけて吟じるもの。安政(1854~1860)ころに江戸の昌平黌(しょうへいこう)の書生たちが始めたという。→剣舞(けんぶ)
★剣舞(けんぶ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
刀槍(とうそう)や扇を用いて詩吟にあわせて舞う舞踊。江戸時代末期に昌平黌(しょうへいこう)の学生が酔って詩を吟じ剣を抜いて舞い、勤王の志士も剣舞を行ったというが、いずれも即興的なものである。剣舞と興行との結び付きは、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)が1873年(明治6)に始めた撃剣興行の余興として行ったのが最初である。84年4月には、鹿鳴館(ろくめいかん)に代表される当時の欧化風潮に対する反発から、神田の錦輝館(きんきかん)で詩吟と剣舞の会が開かれたが、出場者のなかには竹槍(たけやり)、蓆旗(むしろばた)を手にした剣士や、鉄扇を持ち陣羽織を着て草鞋(わらじ)を履いている吟士もあり、舞も刀剣以外は用いなかった。90年、日比野正吉(しょうきち)(雷風)と長宗我部林馬(ちょうそかべりんま)(加藤鶯鳴(おうめい)のち秦霊華(はたれいか))が剣舞を系統だて、前者は神刀(しんとう)流、後者は弥生(やよい)流を発表した。両者とも剣術家であったので剣舞も剣術や居合術の形を基本とし、服装も紋服に袴(はかま)、白鉢巻というもので、『鞭声(べんせい)(川中島)』『白虎隊(びゃっこたい)』『棄児行(きじこう)』などをよく演じた。その前後に宮入清政(至心(ししん)流)、金房(かなぶさ)冠一郎(金房流)、佐野星山(敷島流)が寄席(よせ)や芝居小屋などで演じていたが、薩閥(さつばつ)を背景とする日比野の神刀流と、伯父である日本演芸協会長土方久元(ひじかたひさもと)子爵の庇護(ひご)を受けた長宗我部の弥生流の勢力が一頭地を抜いていた。日清(にっしん)・日露戦争中は戦意高揚の手段として剣舞が奨励され、神田の錦輝館や横浜の喜楽座で大会が開かれた。大阪の千日前では軒並み剣舞の興行をするという盛況ぶりで、出演者は顔におしろいを塗り、「日清談判破裂して」とか「そもそも熊谷直実(くまがいなおざね)は」といった流行唄(はやりうた)を、三味線や鉦(かね)、太鼓入りで演ずる改良剣舞や娘剣舞が多かった。これらは長続きせず、やがて神社の祭礼、縁日の小屋掛け舞台や大道にまで落ちていった。第二次世界大戦後に一時衰えたが、1952年(昭和27)同好者が集まり日本剣舞道連盟を創立してから盛んになった。今日の剣舞は興行との直接の結び付きはほとんどない。[ 執筆者:大野正一 ]
★詩吟(しぎん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
漢詩に節をつけて吟ずること。人によっては、漢詩の訓読を吟ずることを「詩吟」、本来琵琶歌(びわうた)の一部であった和歌や漢詩の訓読を吟ずることを「吟詠」、そのほかの俳句、今様(いまよう)、新体詩などの詩型をも含めて吟ずることを「朗詠」として区別することもあるが、これらは同義的に用いられることが多い。
詩歌を吟ずる習慣は古く、平安中期には漢詩や和歌を歌詞とする宮廷歌謡「朗詠」が盛んになり、のちには和歌を読み上げる「歌披講(うたひこう)」も行われた。江戸中期ごろに儒学や国学が盛んになるにつれて、多くの漢詩がつくられ、学習者の間で吟じられるようになった。これが江戸後期に「詩吟」として流行するに至る。流派には、肥後(熊本県)の時習館流、江戸・湯島の聖堂流などがあった。明治になると、これらの流派ものは衰退し、それにかわって幕末からの剣舞の流行とともに、剣舞にあわせて行われた活発なリズムの詩吟が広く好まれるようになり、また琵琶歌のなかの悲憤慷慨(こうがい)調の吟詠部分も一般に支持されるようになった。大正以後には錦心(きんしん)流琵琶と結び付いた優雅艶麗(えんれい)のものも現れた。昭和になると、多くの女性が近代琵琶の諸流派から詩吟に転向し、芸能的な要素が高められる結果となった。現在では、ときには笛、尺八などの伴奏楽器が用いられることもあるが、基本的には無伴奏である。琵琶歌のなかで行われる場合には琵琶は間奏に用いられる。近年では、健康増進の方法の一つとして詩吟愛好者が増えている。[ 執筆者:卜田隆嗣 ]
★昌平黌(しょうへいこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸幕府直轄の学校。昌平坂聖堂、昌平坂学問所ともよぶ。もと幕府の文教方面を担当した林家(りんけ)の私塾だったが、元禄(げんろく)初年、湯島聖堂建立と同時に同敷地内に移され、寛政(かんせい)の改革の際、実質的に官学となった。
林家の初代羅山(らざん)が1630年(寛永7)に幕府から上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、書院と文庫を設立したのに始まり、32年尾張(おわり)藩主徳川義直(よしなお)の援助で孔子廟(こうしびょう)(先聖殿)を創建、2代目鵞峰(がほう)のとき、63年(寛文3)に「弘文館(こうぶんかん)」の名が与えられ学寮も設けられて、門人の教育も本格化した。5代将軍徳川綱吉(つなよし)は90年(元禄3)に孔子廟を神田湯島へ移し、3代目鳳岡(ほうこう)(信篤(のぶあつ))が大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられて、仰高門(ぎょうこうもん)東舎での儒教経典の講釈が始まった。4代以後の林家は人材なく他学派に圧倒され、1703年(元禄16)と72年(安永1)に火災にあったため不振状態となる。やがて87年(天明7)松平定信(さだのぶ)の老中首座就任、寛政の改革が始まるや、学舎を新築拡張、名を昌平坂学問所と改め、「正学」(程朱(ていしゅ)学)以外の異学を禁じ、柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(かんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、古賀精里(こがせいり)を迎えて教授陣を強化した。93年(寛政5)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の子衡(たいら)が林家を継ぎ(述斎)、大学頭となったのちは、学制、施設、人事の全般が整備。旗本の子弟のほか、陪臣、郷士、浪人の入学をも許したから、幕末には諸藩の秀才が集まった。寛政以後、佐藤一斎(いっさい)、安積艮斎(あさかごんさい)らの活動があり、1862年(文久2)学問所奉行(ぶぎょう)所の新設に伴い塩谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(そくけん)らも教授陣に加えられて、多くの人材を養成した。明治維新後は昌平学校となり、1869年(明治2)に大学校と改称、71年に廃止された。寛政年間建築の聖堂は関東大震災で消失、のち1935年(昭和10)に再建された。[ 執筆者:宮崎道生 ]
★舞踊(ぶよう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .dance [英語]http://p.tl/UJqJ
danse [フランス語]
Tanz [ドイツ語]
身体のリズミカルな動作により感情や意思、情景や状況などを表現する芸術。舞踊という日本語は「舞(まい)」と「踊り」の合成語として明治時代につくられたもので、英語のdance、フランス語のdanse、ドイツ語のTanzに相当する。これはサンスクリット語のtanha(「生の欲望」の意)を語源とし、ヒンドゥー・クシ、カフカスの両山脈を越えてエジプトに入り、tansaからチュートン系の言語tanzaとなった。いずれも、行為し、動き、生き、喜悦して踊る欲望をさすことばである。日本では類似したことばに「舞踏」があり、一般的には明治以降に使われるようになり、鹿鳴館(ろくめいかん)の舞踏会のように社交ダンスを意味した。また、1960年代に土方巽(ひじかたたつみ)が創始した前衛舞踊も「舞踏」の語を用い、butohとして海外にも知られるようになった。「踏」という語は舞踊史上あまり用いられないが、上代の踏歌(とうか)にもみられるように、「踏む」という行為は大地との直接的な関係を示し、「返閇(へんばい)を踏む」というように鎮魂や招魂のための動作であり、舞踊を構成する要素の一つである。[ 執筆者:市川 雅・國吉和子 ]
★舞踏(ぶとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「舞う」と「踏む」とを合成したことばで、一般的には明治以降に使われるようになった。鹿鳴(ろくめい)館などで催された社交ダンスの会を舞踏会と称したことから、社交ダンス、ひいては西洋のダンスなどをいったが、今日ではその意味ではあまり使われなくなった。1950年代後半から前衛舞踊家土方巽(ひじかたたつみ)が、正統モダン・ダンスである「舞踊」に対抗して異端を強調するために「暗黒舞踏」ということばを使った。以降、大野一雄(かずお)、土方巽をはじめ笠井叡(かさいあきら)、麿赤児(まろあかじ)、芦川羊子(あしかわようこ)、山海塾(さんかいじゆく)らの活躍によって、「舞踏」は国際的な用語にもなりつつあり、欧米ではButohと綴(つづ)られている。[ 執筆者:市川 雅 ]
★踏歌(とうか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国から伝来した上代歌舞の一つ。大ぜいの人が足で地を踏みながら拍子をとりつつ歌い踊るもので、一名アラレハシリともよばれる。ハシリとは舞踏の意であるらしい。本来、隋(ずい)・唐の民間行事で、正月上元の夜の観灯会に行うのを例とした。わが国では、『日本書紀』持統(じとう)天皇7年(693)正月16日条にその初見例がみえ、これ以後しだいに踏歌節会(とうかのせちえ)として宮廷の年中行事の一つとなって定着したらしい。儀式のようすは『内裏式(だいりしき)』『西宮記(さいぐうき)』などに詳しい。男(おとこ)踏歌と女(おんな)踏歌とがあり、いずれも天皇の長久とその年の豊穣(ほうじょう)を祈ることを目的とした。踏歌は一方で民間にも普及したらしく、766年(天平神護2)には、風俗を乱すとの理由で畿内(きない)の民間踏歌が禁断されている。歌詞は当初は唐詩を用いたが、行事が日本化するとともに催馬楽(さいばら)の「我家(わいえ)」「竹河(たけかわ)」などが用いられるようになった。平安末ごろには衰退し、節会として行われることは絶えた。[ 執筆者:多田一臣 ]
★踏歌節会(とうかのせちえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
正月14、16日に行われた宮廷行事。歌の上手な男女を集めて、年始めの祝詞を歌い、舞わせた。大極殿、清涼殿に天皇が出御し、14日が男(おとこ)踏歌、16日が女(おんな)踏歌とされていた。いずれも天皇の長久と、その年の豊穣(ほうじょう)を祈るのを目的とした。
女踏歌は内教坊(宮中の歌舞を教習するところ)の舞妓(まいこ)40人、中宮・東宮の舞妓あわせて4人または6人が内庭に並んで四角に舞いながら3周して天皇の前に進み、祝詞および歌曲を奏する。
男踏歌は、天皇の前で舞踏ののち、京の町中を回り、大臣の家の水駅(みずうまや)で休息し、湯漬けをいただき、夜明けまで回るのが特徴であったが、983年(永観1)に終わり、女踏歌だけが平安時代末まで盛んに行われた。もっとも、男踏歌は宮中では早くに絶えたものの、名古屋の熱田(あつた)神宮などでは現在でも正月の行事として残っている。[ 執筆者:山中 裕 ]
★祝詞(のりと) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
神前に奏上する詞(ことば)。その内容は、祭りにより、場所により異なる。祝詞文の構成は、起首、由縁、献供、祈願または感謝、結尾などの章句からなるものが多いが、このほかにも神徳、装飾、奉仕、祝頌(しゆくしよう)などの章句を用いたものもある。ノリトはノリトゴト(祝詞事)の略言である。ノリトの語義については諸説あるが、ノリは上位者から下位者に言い渡すことであり、トは上にある表現を体言化するように働く。神や霊に対して申し上げる祝詞の文体は、「……と白(まを)す」(申す)と結ぶことから、これを「申す型」(奏上体)という。今日の祝詞は、そのほとんどがこの型であるが、その場にいる者に対して、宣(の)り聞かせる形式もあり、これは「……と宣る」と終わることから、「宣る型」(宣下体)という。この型は大祓詞(おおはらえのことば)に継承されている。今日奏されている祝詞の基本は、『延喜式(えんぎしき)』巻第八(祝詞式)に収録されている27編の祝詞で、これを「延喜式祝詞」という。これらの祝詞がつくられた年代は、祝詞が奏された祭祀(さいし)の歴史と軌を一にするものであるから、27編の祝詞が同時につくられたのではない。また、それぞれに変遷もあったであろうが、平安時代にまとめられたのが「延喜式祝詞」であり、これらはわが国の古典文学作品としても高く評価されている。「延喜式祝詞」以降も、今日まで多くの祝詞がつくられているが、文体、語彙(ごい)など、いずれも式祝詞を踏襲したものが多い。
祭儀のときに唱えられる詞章。「のりと」の「のり」は「のる(宣る)」から出たものであり、「のる」という宗教的実修における詞章を意味している。各時代を通じて行われてきたが、文学史においてはとくに『延喜式』巻八に収められている朝廷の祭儀の際の27編(うち一つは漢文)と『台記(たいき)』「別記」に伝える「中臣寿詞(なかとみのよごと)」一編とに限定していうのが普通である。『延喜式』は延喜5年(905)に編纂(へんさん)を開始したが、巻八に収められた祝詞は、そのおよそ100年ほど前、9世紀の初めにはほぼ固定していたとみられる。神祇(じんぎ)官において祭りを執り行い、また神宮や神社で祭りを執り行うときに唱えられる詞章として固定したものである。ただ、個々の詞章の成立には幅があり、7世紀から9世紀初めにわたる可能性があるとみられる。
内容としては、神前に集まった人々や神職などに「諸聞(もろもろきこ)しめせと宣(の)る」と宣下する型のものと、「称辞竟(たたへごとを)へまつらくと白(まを)す」と奏上する型のものとに大別される。構成は、祭儀の由来を述べる部分と祭事の執行を述べる部分とからなる。表現には、列挙、反復、対句などを多く用いるが、そこには、文字以前の口誦(こうしょう)の段階で形づくられた表現をうかがうことができる点で注目される。口誦の表現の様式として、「朝(あした)には御門(みかど)を開きまつり、夕べには御門を閉(た)てまつりて、疎(うと)ぶる物の下より往(ゆ)かば下を守(まも)り、上より往かば上を守り、夜(よ)の守り日の守りに守りまつる」(「祈年祭」)のごときをみることができよう。[ 執筆者:沼部春友・神野志隆光 ]
★頌(しょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古くは、中国最古の詩集『詩経(しきょう)』において、全詩を六つのジャンル(六義(りくぎ))に分類したうちの一つで、宗廟(そうびょう)の祭礼における舞楽の歌をいう。「ほめうた」の意。一種特有の文体で、農事の神々、祖先、君王の盛徳、成功を形容し、賛美、頌揚、祈求するものであった。その後、頌揚の対象が鬼神帝王から一般人や普通の事物へと拡大され、漢の揚雄(ようゆう)の「趙充国(ちょうじゅうこく)頌」、晋(しん)の劉伶(りゅうれい)の「酒徳頌」、唐の韓愈(かんゆ)の「子産が郷校を毀(やぶ)らざるの頌」などがそれである。[ 執筆者:杉森正弥 ]
★六義(りくぎ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国最古の詩集『詩経(しきょう)』の詩の分類法で、内容別の分類である風(ふう)・雅(が)・頌(しよう)と、形式上の分類である賦(ふ)・比(ひ)・興(きょう)の六つをいう。初出は『詩経』大序と『周礼(しゅらい)』春官であるが、それぞれの意味するところについては古来問題が多い。通説によると、風は風土・風俗の意で、民間の歌謡のこと、雅は正の意で、中原(ちゅうげん)の王朝貴族の雅言(標準語)による歌声、頌は祖先の功徳の頌歌をいう。次に、賦は比喩(ひゆ)なしで事実を述べる文体、比は一般に比喩であるが、とくに諷喩(ふうゆ)(アレゴリー)のこと、興については定説がないが、自然の現象と人間の事象を並べる平行法により隠喩(いんゆ)を読み取らせる手法と考えられる。『詩経』がわが国に伝わると、六義は和歌の六種の表現形式に適用された。『古今集』の仮名序で、風・賦・比・興・雅・頌をそれぞれ、「そへ歌、かぞへ歌、なずらへ歌、たとへ歌、ただごと歌、いはひ歌」と言い換えている。そのほか、書道における六種の法(筆法、風情、字象、去病(きよへい)、骨目(こつもく)、感徳(かんとく))をさすこともある。[ 執筆者:加納喜光 ]

★いわい‐うた〔いはひ‐〕【祝(い)歌/×頌】
1.民謡の分類の一。祝いの式や宴席などでうたう歌。祝儀歌。
2.和歌六義(りくぎ)の一。祝いことほぐ歌。頌歌(しょうか)。
「六つには―」〈古今・仮名序〉

★詩吟 「富士山」 川添精照 (岳精流日本吟院町田岳精会)http://p.tl/rpZT
★全国新人大会優勝者吟詠  中島 右祐 富士山(石川丈山)http://p.tl/QCHP
★平家物語 祇園精舎/岩佐鶴丈 http://p.tl/qRxl
★平家物語より 祗園精舎の一節 http://p.tl/XZkA

★古城/三橋美智也 http://p.tl/s9UU

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