インジャラ(エリトリア・エチオピアの主食・国民食)
これはレストランの豪華版
この先、私たちがまた世界を自由に旅するときは来るのか。
それとも自由な世界は完全に終わったのか。
昔、新聞に寄稿した文に少し手を加えて忘れがたい思い出語り(2003年)。
その昔、「ライター」しているときがありました。
早朝五時、空はまだ明けていない。
独特のアクセントでアスカダムがバスステーションに向かう私を呼んだ。
「困ったら、電話しなさい」
「ありがとう、大丈夫よ、楽しんでくるから」
エリトリアに滞在して二週間が過ぎようとしていた。
国境の町までちょっとひとり旅に行って来るという私を、アスカダムは心配そうに見送ってくれた。
エリトリアはアフリカの東、紅海沿いにある小さな国だ。三十年の独立戦争を戦ってエチオピアから独立した。しかし、九十八年に国境を巡ってまたエチオピアとの戦端を開き今だ緊張状態(現在は確か和解しているはず)、国連の平和維持軍の駐留によって平静を保っている国だ。
そんな国の首都アスマラで、年末から新年にかけて三週間ばかりホームステイした。
友人の配偶者(エリトリア人)の兄で、ノルウェーに住むアスカダムが娘たちと姪(友人の娘)を連れて里帰りするというので、ついていったのだった。
アスカダムとは、彼の家を訪ねて泊めてもらったりしているので、知っていた。彼も、私がオマケのようにくっついてくことを歓迎してくれた。
アスカダムの主たる目的は親戚訪問。ヒイじいさんの実家とか、イトコの娘の嫁ぎ先とか、日本人から見たらもはや他人と思われる「親戚」まで訪問する。初めは面白がってついてまわった。抱き合ってほっぺを右、左、右、左と三回もくっつけ合う挨拶で大歓迎されたが、回が重なるとさすがに飽きが来た。
むくむくと「一人でバックパッカーしたい」という気持ちになった。
それと親戚訪問では、どこの家でも、コーラとインジャラが出てくる。インジャラはこの国の主食で、テフというヒエのよう穀類の粉を発酵させて作るパンケーキ、その上にバルバレという赤い独特の香辛料で煮込んだ鶏肉や野菜のルーをのせて手で食べる。少しだったらいいのだが、たくさん食べると、あとでお腹の中でふくらむような感じになって苦しい。胸が焼ける。しかし、「食べなさい、食べなさい」と何度も勧められ、食べるのが礼儀でもあり・・・これがけっこう苦痛だった。
六時少し前、東の空が白々とした頃にバスは出発した。
バスはひどくオンボロで、エンジンやブレーキは大丈夫か、と心配になるくらいだった。入り口近くの座席にいた私は、実に目立っていたらしい。で、あまり姿を見ないアジア人への好奇心か、バス乗客たちの自主的な思いやりか知らないが、隣には必ず英語のできるおじさんが座って、沿線の町や景観のガイドをしてくれた。一度だけ、身体に白い布を巻いたバリバリの羊飼いのおじいさんが座ったときは、エリトリアの公用語テグリニアで「○×△・・・」。すかさず、通路をはさんだ横の席から「あんたはテグリニアを話すのかいって訊いている」と通訳がはいった。こんな次第で、六時間あまりのバス旅行はずいぶん楽しかった。
しかし、緊張が続いているエチオピア国境まで二十五キロしかない町セナフェまでたどり着くのに、一体何度検問を通過しただろうか。
最後は、UN(国連軍)の検問だった。バスに乗っている外国人はもちろん私だけだ。(当時、外務省ウエブサイトでは危険度4)
下ろされてパスポートチェックを受ける。
「どこへ行くの」
「セナフェ。メテラの遺跡を見て、夕方のバスでアディ・ガイヤの町に戻る」
インド人的風貌の国連軍のバッチをつけた兵士はうなずくと、パスポートナンバーと乗っていたバスのナンバーを控えて「ありがとう」と、バスポートを返してくれた。
やがてバスは赤茶けたエリトリア独特の色をした丘をいくつも越えてセナフェに到着。
バスステーション近辺の建物は穴が開いたり、傾いたり、完全に破壊されてくずれる寸前だったり・・。
空爆のあとが生々しかった。
町の入り口には、難民キャンプもあった。
親戚訪問で首都郊外や地方へ行く道中、爆撃によって壊された建物や置き去りにされた戦車は何回も目撃した。しかし、ごく間近で破壊された建物を見ると、その下にふつうの生活があったはず、と想像できてショックだった。
日曜日だったせいか、町の中心を走る一本道、メインストリートだが、ここで自転車レースが行われていた。くずれ落ちそうな建物に、人が鈴なりに腰かけて疾走してくる自転車レーサーに声援を送っていた。
人々の真っ黒な皮膚が強い日差しに反射して輝いているように見えた。
「平和がいいよ、やっぱり」
思わず、ごく当たり前の言葉が口から出た。
さていよいよ、ジリジリ照りつけるアフリカの太陽の下、二キロ先のメテラ村を目指して歩く。 (続く)
これはレストランの豪華版
この先、私たちがまた世界を自由に旅するときは来るのか。
それとも自由な世界は完全に終わったのか。
昔、新聞に寄稿した文に少し手を加えて忘れがたい思い出語り(2003年)。
その昔、「ライター」しているときがありました。
早朝五時、空はまだ明けていない。
独特のアクセントでアスカダムがバスステーションに向かう私を呼んだ。
「困ったら、電話しなさい」
「ありがとう、大丈夫よ、楽しんでくるから」
エリトリアに滞在して二週間が過ぎようとしていた。
国境の町までちょっとひとり旅に行って来るという私を、アスカダムは心配そうに見送ってくれた。
エリトリアはアフリカの東、紅海沿いにある小さな国だ。三十年の独立戦争を戦ってエチオピアから独立した。しかし、九十八年に国境を巡ってまたエチオピアとの戦端を開き今だ緊張状態(現在は確か和解しているはず)、国連の平和維持軍の駐留によって平静を保っている国だ。
そんな国の首都アスマラで、年末から新年にかけて三週間ばかりホームステイした。
友人の配偶者(エリトリア人)の兄で、ノルウェーに住むアスカダムが娘たちと姪(友人の娘)を連れて里帰りするというので、ついていったのだった。
アスカダムとは、彼の家を訪ねて泊めてもらったりしているので、知っていた。彼も、私がオマケのようにくっついてくことを歓迎してくれた。
アスカダムの主たる目的は親戚訪問。ヒイじいさんの実家とか、イトコの娘の嫁ぎ先とか、日本人から見たらもはや他人と思われる「親戚」まで訪問する。初めは面白がってついてまわった。抱き合ってほっぺを右、左、右、左と三回もくっつけ合う挨拶で大歓迎されたが、回が重なるとさすがに飽きが来た。
むくむくと「一人でバックパッカーしたい」という気持ちになった。
それと親戚訪問では、どこの家でも、コーラとインジャラが出てくる。インジャラはこの国の主食で、テフというヒエのよう穀類の粉を発酵させて作るパンケーキ、その上にバルバレという赤い独特の香辛料で煮込んだ鶏肉や野菜のルーをのせて手で食べる。少しだったらいいのだが、たくさん食べると、あとでお腹の中でふくらむような感じになって苦しい。胸が焼ける。しかし、「食べなさい、食べなさい」と何度も勧められ、食べるのが礼儀でもあり・・・これがけっこう苦痛だった。
六時少し前、東の空が白々とした頃にバスは出発した。
バスはひどくオンボロで、エンジンやブレーキは大丈夫か、と心配になるくらいだった。入り口近くの座席にいた私は、実に目立っていたらしい。で、あまり姿を見ないアジア人への好奇心か、バス乗客たちの自主的な思いやりか知らないが、隣には必ず英語のできるおじさんが座って、沿線の町や景観のガイドをしてくれた。一度だけ、身体に白い布を巻いたバリバリの羊飼いのおじいさんが座ったときは、エリトリアの公用語テグリニアで「○×△・・・」。すかさず、通路をはさんだ横の席から「あんたはテグリニアを話すのかいって訊いている」と通訳がはいった。こんな次第で、六時間あまりのバス旅行はずいぶん楽しかった。
しかし、緊張が続いているエチオピア国境まで二十五キロしかない町セナフェまでたどり着くのに、一体何度検問を通過しただろうか。
最後は、UN(国連軍)の検問だった。バスに乗っている外国人はもちろん私だけだ。(当時、外務省ウエブサイトでは危険度4)
下ろされてパスポートチェックを受ける。
「どこへ行くの」
「セナフェ。メテラの遺跡を見て、夕方のバスでアディ・ガイヤの町に戻る」
インド人的風貌の国連軍のバッチをつけた兵士はうなずくと、パスポートナンバーと乗っていたバスのナンバーを控えて「ありがとう」と、バスポートを返してくれた。
やがてバスは赤茶けたエリトリア独特の色をした丘をいくつも越えてセナフェに到着。
バスステーション近辺の建物は穴が開いたり、傾いたり、完全に破壊されてくずれる寸前だったり・・。
空爆のあとが生々しかった。
町の入り口には、難民キャンプもあった。
親戚訪問で首都郊外や地方へ行く道中、爆撃によって壊された建物や置き去りにされた戦車は何回も目撃した。しかし、ごく間近で破壊された建物を見ると、その下にふつうの生活があったはず、と想像できてショックだった。
日曜日だったせいか、町の中心を走る一本道、メインストリートだが、ここで自転車レースが行われていた。くずれ落ちそうな建物に、人が鈴なりに腰かけて疾走してくる自転車レーサーに声援を送っていた。
人々の真っ黒な皮膚が強い日差しに反射して輝いているように見えた。
「平和がいいよ、やっぱり」
思わず、ごく当たり前の言葉が口から出た。
さていよいよ、ジリジリ照りつけるアフリカの太陽の下、二キロ先のメテラ村を目指して歩く。 (続く)