蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

終戦前後のこと  (bon)

2020-08-15 | 日々雑感、散策、旅行

 恐縮ですが、私の個人的な想い出の一端です。

 1939年生まれの私は、日本がこの戦争に参戦してちょっとした頃には、奈良県
磯城郡田原本町というところに疎開していました。なので、直接には戦争の怖さや、
空襲の恐ろしさみたいな経験はなく、近所の子供たちと一緒に遊んだことばかりの
記憶で、戦争に関することといえば、上空 頭の上をB-29 の編隊がゴーゴーと音を
立てて大阪方面に向かうことや、時折町内での戦闘訓練と称した行動、灯火管制、
幼稚園への通いには胸に名札が縫い付けられた服に、防空頭巾を持参していたこと
くらいです。

         (ネット画像より)


 大人たちは、寄りあっては戦争のことなどを話しているときでも、子供心にあまり
深刻さを感じていなかったし殆ど気に留めていなかったようです。ただ、空襲警報
のサイレンがけたたましく鳴る時には、どこか緊張した感覚がありました。

        

 8月15日の玉音放送も直接聞いた記憶はなく、私にはその印象はないのです。終戦
の年、それから2年くらいは戦争が終わったことも大して意に介せず、その後も同じ
ように物が不足し、食べるものも限られた不自由な生活だったと思うばかりです。

 しかし、こんなことを言えるくらいなのだから、幸せ過ぎたのでしょう。戦火を
知らずに来れたことを感謝すべきなんです。

 戦後しばらくして大阪に戻るまで1年近く、母親が病気で入院していた堂島川に
面した阪大病院に疎開先の田原本から毎週のように見舞いに来て、病室で寝泊まり
して、窓の外に堂島川を引き船が行き交う景色などを覚えています。

 そんなこんなで確か小学校2年の中頃は休んでいて3学期から大阪の桃谷小学校に
転校してきました。 家は生まれたところではなく、上本町2丁目というところで、
家のすぐ前には市電が通っているような街中でした。 この時期は復興が始まって
いましたが、周りにはまだ焼け跡があちこち残されていて、大阪城の掘りにも水が
なく、環状線側は焼け跡で荒れたままでした。

       (ネット画像より)


 家の2~3分のところが、後に通うこととなる清水谷高校があり、西グラウンドは
当時はまだ焼け跡でした。 このころ食べ物がなく、貧しい生活でしたが、生来の
のんびり屋なのか友達と遊びまわっていた記憶は多いのに苦しい記憶はあまり残っ
ていないのです。

        

 今日8月15日は終戦の日で、あれから75年が過ぎ、今日も武道館で全国戦没者追
悼式がコロナ対策をとりながら行われる予定です。 310万人に及ぶ本当に多くの
人たちが戦地に亡くなり、また空襲や原爆で亡くなったのですね。その家族や関係
者は今も苦難の中の方々もおられるのですね。  先の、『黒い雨』地裁判決に、
国、県らは控訴とあり、つらい日々がまだ続くのですね。

 そしてまた、世界のあちこちで戦闘が現に起こっていますし、大国までもが亀裂
寸前の状況を呈してきています。

 人は恒久平和を真に望みながらも、時代が進んでも、その欲望に曳かれ、らせん
状を描きながら再び同様のことを繰り返そうとするのでしょうか。

 

 ブログ「青空Green倶楽部」のページに、老子の教えの『無為自然』『上善若水』
がありましたので、ここに引用させてもらいました。

『無為自然』 無為とは人為的に無理にものごとを動かそうとせず、知や欲をはた
らかせず天地宇宙の原理や変化を受け入れる。自然とは「自(おのず)から然(し)
かり」で他から影響を受ける事なくそれ自体がそのままの意です。

『上善若水』 万物の根源は水で最上の善をそなえた人は水のように万物を潤し、
争わず衆人の悪場所に治まる。水は高きから低きに無心に流れ前途の障害物があれば
自在に流れを変えて行く。水は四角や丸の器に入れれば柔軟性を発揮し収まり後を
残さない。洋々と河川や大海を満たし発して雲になり雨雪に変じ豪と化し凍っては
玲瓏な鏡となり、しかもその性を失わない。

 

 

少年時代 / 井上陽水

 

 

 

 

コメント
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