杵屋六郎ブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ヤッシャ・ハイフェッツ

2017-09-13 22:09:22 | 日記


完璧な技術でマイナス点をつけることが出来ない。唯一の不満を言えば演奏が少し冷たい感じがすること。ヴァイオリニストの永久的なお手本であると言えよう。Jascha Heifetz: the Complete Album Collectionを購入した。

ニコニコ大百科より
ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetzas 1901年2月2日 - 1987年12月10日)とは、20世紀を代表するヴァイオリン奏者の一人である。

概要
1901年 ロシア帝国領(現リトアニア領)ヴァルナに生まれる。

神童の誉れは高く、3歳でヴァイオリンを習い始め、5歳で音楽学院へ入学、12歳でベルリンにてデビューを果たす。尚、乳児の頃、ヴァイオリン奏者の父が音を外すと泣き出したというある意味酷い逸話が残っている。

1917年に勃発したロシア革命を避け、その後はアメリカ在住(1925年に市民権を獲得)のまま世界中を演奏旅行しつつ多数の録音を行った。また、晩年には後進の育成の為教鞭をとるなどしている。

その超絶的な技巧から「ヴァイオリニストの王」と称され、その神憑り的なテクニックの前に、「当時のヴァイオリン奏者は例外なくハイフェッツ病に罹った」とさえ評されたようである。生まれついての天才が脇目も振らずに努力し続けた結果とは言え酷い話である。技巧的な面からの評価やその他細かい点は、Wikipedia : ヤッシャ・ハイフェッツを参照のこと。

一方で、妥協を許さない演奏スタイルから、「冷たいヴァイオリニスト」と評されることも少なくなかった。というのも、20世紀初頭のクラシック界では演奏者の個性を表現することが重視されており、彼の妥協を排した冷静な解釈に基く演奏は時流に沿わないものだったのである。現在では大量に残された当時の録音から、再評価されている。

尚、ニコニコ動画に於いてはパガニーニ作の「24の奇想曲」の演奏が特に有名であるが、ハイフェッツ本人はあまりパガニーニの曲を演奏したがらなかった模様である。

1972年に演奏活動から退き、1987年にロサンゼルスにて死去した。

ハイフェッツ病
ハイフェッツの余りに隔絶した技巧の前に演奏をあきらめてしまったり、自分の技量に絶望したりする病のこと。悪化した場合、弓を手に取ることすら出来なくなる。ヴァイオリンの上達度に比例して悪化する傾向にあるようである。

余談だが、ハイフェッツが13歳の頃、ベルリンにて行われた演奏を聴いたあるヴァイオリニストが、同じく友人のヴァイオリニストに「私も君もこれ(ヴァイオリン)を叩き割ってしまったほうがよさそうだ」とこぼしたそうであり、彼らが最初期の発症者だろう。

なおその彼らとは、カーティス音楽院院長を務めたアウアーの直弟子で、作曲編曲者、指揮者としても名高いエフレム・ジンバリストと、ウィーン高等音楽院を10歳で主席卒業しその2年後パリ高等音楽院をまた主席で卒業、「愛の喜び」「愛の悲しみ」などの名曲を多数作曲、演奏したことで有名なヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラー両氏である。

簡単に言えば、一般人にとって雲の上の存在であるジンバリストとクライスラー2名さえもあきれるほど彼の技巧は卓越していたということになる。

最近ではハイフェッツ症候群と名を変え、また世に広まっているとかいないとか。


お薦め
バッハの無伴奏ヴァイオリンの為の”パルティータ第2番”の終曲『シャコンヌ』
ツィゴイネルワイゼン
J.S.バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」
マックス・ブルッフの「スコットランド幻想曲」
チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」
ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」
メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」
シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」

最新の画像もっと見る

コメントを投稿