rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

趣のある文庫、旺文社文庫

2011-04-18 23:23:33 | 本たち
小学生の高学年のころに、ある方から本を何冊か頂いた。
その年齢には、まだ早い、志賀直哉・夏目漱石の本を数冊。
文庫本なのに、格調高い装丁で、何しろ、ケースがついている、子供ながらに背筋がぴんと伸びる思いをしたものだ。
薄いオリーブグリーンに、エジプトの象形文字と古代ギリシャのメダルをあしらったデザイン。
中の紙は、真っ白でつるつるとした上等なもので、細かな文字が整然と並んで印刷してある。
旺文社文庫、昭和40年代の前半の出版物だ。
本に対して畏敬の念を抱いていた、最後の時代の本だろう。

本を自分の蔵書として装丁しなおす文化の無い日本では、出版されたものをそのまま持ち続ける。
だから、本の装丁には作家や出版社が趣向を凝らしたものだ。
さすがに、革張りを見かけたことはないが、布張りの表紙を持つ単行本は存在する。
もっとも、最近見かけたことはないのだが。

どうも、作家になって出版するのが昔に比べて容易になったのか、出版技術が進んで大量生産できるせいなのか、本の作りが簡単になってきたように思われる。
見た目の軽さが災いしてか、本の持つ威厳が失われて、本を読む人の心持も品位がなくなってきている気がする。

かの旺文社文庫は、本を読む自分の自尊心をくすぐってくれた。
単純なもので、同じ文庫本でも、現在にも見られるようなぺらりとした表紙カバーのついた本とでは、格の違いが明らかで、少し自分が上等なものになった気分を味わった。
そんな上っ面な気持ちでも、本を読む原動力になったのだから、あながちきちんとした装丁を成された本の魔力、軽んじるべきではないだろう。

もっとも、デジタルな世界の今においては、布張りの本を所有し読むよりは、モバイルを持ってフェイスブックでの交流をしたり、スマートにデジタル書籍をたしなむほうが、クレヴァーとされるのかもしれない。
しかし、真の優美さとは、利便性を追っていては得られない。
あらゆるものへの敬意をもち、自分に誇りを持ってこそ、知性と品位を併せ持った人となりえるのだと思う。

子供だった頃の自分に旺文社文庫を譲ってくれたあの方に、感謝の念を忘れたことはない。
かれこれ20年近く前に山形へ転居されたと聞いた。
今もご健在であることを祈る。

月並みだけど、読書のすすめ。そして、公立図書館の充実を叫ぶ。

2011-04-18 00:43:29 | 本たち
今読んでいる本は、伊丹十三「女たちよ!」、文春文庫1975年第1刷¥240。
これは、20年以上前、古書店で買ったもので、いまやページは赤茶けてしまった。
その風貌たるや、恐ろしく年季の入った、古書の味わい満点の風格を備えている。
ながらく書棚の奥にしまってあったが、再度読み返そうと取り出して読んでいるのだ。

子供の頃、学校や市の図書館を利用した覚えがない。
どことなく敷居が高く、友達の中には市の図書館で本を借りて読んでいると聞いても、自分で行ってみようとは思わなかった。
昔の図書館・図書室は、冷たく厳しい雰囲気だったのだ。
小学4年生のとき、クラスの友達に薦められた本がきっかけとなって、本の世界にのめりこんでいった。
最初は、その友達に借りて読み、小遣いをためて本を買い読むようになった。
初めて意識して図書室に行ったのは、高校生のとき。
同時に、県立図書館へも足を運ぶようになった。
それでも、学術書などの高価な本を借りて読む場合がほとんどで、いつも手元における気楽さで小説は文庫本を買って読んでいた。
しかし、本を買うと、捨てられない自分はひたすらたまる一方。
幸運なことに、実家のすぐ近くに充実した図書館があるので、実家に行くたびに大量に借りてきて、本に没頭する機会を持つようにしている。
では、自分の住む地域に、図書館はないのか?
とりあえずあるが、なんとも寂しい内容で、何度か行ってみたが心ときめくものがなくなったので、もう何年もご無沙汰といった具合だ。

子供の学校の図書館を見たとき、あまりの本の少なさに唖然とした。
確かに、過疎な地域の学校で、児童数も120人くらいなのだから、一般教室の広さに本が並べられていても、児童数割の蔵書数としては妥当な数かもしれない。
読みたいならば、市町村の図書館<図書室で借りて読めばよいと言われるだろう。
だが、図書館は遠いのだ。
わざわざ親が連れて行かなくては、本を借りることが出来ないなんてナンセンスにつき、本が少ないの二重苦。
これでは、どんなに「読書タイム」を設けても、「読書を勧める協議会」なるものが頑張っても、たいした効果は望めないのではないだろうか。
人の面白いと思うセンサーは、千差万別。
多種多様な本があってこそ、読書への興味も湧くだろう。
話題の本やHowTo本、雑誌ばかりでは先が広がらない、きっかけにはなろうとも。

大人が、日常的に本を読み、各家庭に本がある風景が当たり前になれば、子供たちも本を読むことが当たり前のこととして受け入れられるだろう。
まずは、大人を啓蒙すべく、公立図書館の充実を図る。
誰でも気軽に足を運ばせる為に、映画などの映像ソフト、音楽のCDを、取り揃えることは言うまでもない。
ゆったりとしたくつろげる環境整備も、必須状件に入るだろう。
親子連れで、大人同士・子供同士、知的テーマパークとしての図書館利用が、日常化できれば、人生が少し豊かで面白いものになるのではないだろうか。

しかしここで、思わぬ伏兵が控えている。
電子書籍の台頭だ。
アメリカでは、電子書籍が「紙の本」の売り上げを抜いたとか。
自分は、電子書籍懐疑派、本心は反対派。
この電子書籍が席巻して、「紙の本」の家である図書館が存亡の危機に立たされないことを願っている。
この流れを安直に使って(無意識の悪意・愚行)、地方の小さな図書館・図書室不要論がまかり通らんことも、懸念されるのであった。