rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

高密度な作品、奇跡の画家、フェルメール「地理学者」

2011-04-16 23:46:25 | アート


今週の「美の巨人たち」は、フェルメール「地理学者」。

43年という生涯の中で、現存する作品が36点と寡作な作家だ。
しかし、悔しいことにその作品どれもが完成度が非常に高く、つまり駄作がないのだ。
画家自らが選別して、納得のいく作品以外は処分したのではないかと勘繰ってみたくなる。
凡才のひがみ・・・

フェルメールの作品は、構図・色彩・ドラマ性・高度な技法・時代性など、どれをとっても練られている。
鑑賞者の間口は広く、奥は深い。
観る者全てに語りかける術を持っている。
普遍性を具えた、稀有な作品を描いた画家。
表現を志すものにとって、それがどんなに難しく、激しく切望するものか!
神の領域。
フェルメールは、自分の作品が「神の領域」に到達したと認識したのであろうか?
おそらく、確信していただろう。
描くモチーフや主題は、宗教色は薄くともすると風俗画として見られ低く扱われることを知りながらも、小説的世界を描き続けた。
神の御技の光を中心に据えて、平易な言葉で語り続けたのだ。
だから、派手さや荘厳さはないけれど、見続けているとその世界の広さと深さがひたひたと身に染み入ってくる。
そこでは、光によって照らし出されるものと、それ以外の影の中にも形と色彩が存在し、真の闇は存在しえないのだと言っている。
画面の隅々まで、画家の愛が行き渡っている。
彼の絵を観ていると、いつまでたっても飽くことがない。
むしろ、もっと観ていたいと、観なくてはいけないとすら思ってしまう。
無限の空間を持った世界に、魅入られてしまうのであった。
心地よく愛に満ちた完璧な世界は、地上にある天国の覗き窓かジオラマであろう。
何も、プルーストに見出されずとも、フェルメールはその存在が返り咲く、復活するのを約束された画家だったのだ。
完全な死とは無縁の、奇跡的な画家フェルメールよ!

悪条件にもかかわらず見た、韓国・ソウル・明洞

2011-04-16 01:28:32 | 街たち
今回は、更に電波状態が悪かった。
地デジへの移行まで、100日となったらしい。
スカイツリーが完成するには、まだしばらくある。
それまで、NHKとTBSは、まともに映らないときが間々あるのを、我慢するようだ。
でも、スカイツリーからの電波が、どの程度安定して届くのか、なってみないと分からないが・・・

4分の3、モザイクと例のメッセージ画面となっても、見続けたという驚き!
さて、それでは、ちらちらと見られた内容で、今日の「世界ふれあい街歩き」韓国・ソウル・明洞の感想などいってみましょうか。

ぽつぽつ映った画面からは、日本とあまり変わらない街の風景。
繁華街の通りは、匿名性が高く、ハングル文字の看板で判別できる具合だ。
小売店や飲食店のひしめく路地は、さすがに特異性がみられた。
店の外、人通りのある路地に調理場を設けているところだ。
もしかすると、豆腐屋だけなのかもしれないが、ちょっと驚く光景。
そのほか、昔の面影を残した路地が映ったが、なんだか吉祥寺のハモニカ横丁やその周りの商店街に似通った雰囲気があった。
路地で小売店を営む初老の男性は、この界隈はバーが軒を連ね、歩く人の方がぶつかり合わないと歩けないくらい賑わっていたと、懐かしむように話していた。
今より猥雑で活気に満ちた場所だったのだろう。
たくましく生きるエネルギーが、むんむんと立ち込めて、時代の空気が支配しているという。
そして、一つの大きなうねりが終息し、次の時代に向かおうとする過渡期に今あるのだと、そんな感じがした。

何か、何処となく不安な、どう方向を見定めたらいいのか迷っている、虚ろに冷えた時代が、ここにも、その他至る所に漂い潜んでいると思うのは、錯覚だろうか?
どうにかしたいのに仕方が分からない、展望がもてないもどかしさと苛立ちが、特に若い世代にあるような気がしてしまうのだった。