rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

明日は9月1日

2017-08-31 22:54:42 | 随想たち
台風15号の影響で、北よりの風が強く吹き付け肌寒い8月の終わりとなった。
稲の刈り入れが始まったばかりのこの台風によって、まだ刈られていない稲が無残にもなぎ倒されている。
今年の日本は、例年になく全域で自然災害が発生し、一年の苦労が報われない方々も多いだろう。
生きるとは、多くの不測の事態に遭遇するということか。

一昨日の朝、Jアラートが鳴り響いた。
田舎ゆえ、堅牢な建物たちか施設など近くにありはしないので、家の中で、飛び散るガラス片や吹き飛ぶ木片などに精一杯の抵抗を試み、小さい人と家人とともに布団に包まって次の放送を待った。
その時に過ぎった思いは、このうちの誰かにガラス片が襲い掛かり、運良く免れた者も、一生心に深い傷を負うのだということだ。
自分が死ぬのはかまわないけれど、それを見た小さい人の心情を思うと、やりきれなさでいっぱいになる。
再びの放送で、さし当たっての被害を被らなかったと知ったあと、洗濯物を畳みながら考えた。
死が恐ろしいということは、自分の存在がなくなるよりも、愛する人と永遠に別れることが悲しく耐えられないのではないかということだ。

明日は9月1日。
関東大震災で多くの犠牲者を出した防災の日でもあり、多くの学校の始業式でもある。
夏休みを後の登校は、学校に通うものに多くのストレスを投げつける。
この数日、これによって引き起こされる最悪の事態を懸念して、「無理に学校へ行かなくてもいい」「家族もあまり追い立てることをしないように」などのメッセージが、さまざまなメディアを通じて発信している。
そもそも人並み、平均、均一化を求む、そして結構高め、を設定している今の教育課程は、全員に必要なのであろうか?
見せ掛けの平等は、実は不平等を目論んでいるのではないかと疑ってしまう。
人は、おのおのの特性にあった教育を受け、自分の力で生きられるのが、本当の幸せだと思うのだ。
人が生まれ持つ資質は同じという幻想から人々が目覚めない限り、真の寛容な世界はやってこない気がする。



秋めく景色、メランコリア

2017-08-27 23:19:00 | 日記
貴重な晴れた清々しい一日だった。
乾いたそよ風に揺れる頭を垂れた黄金色の稲穂は、豊穣そのもの、昔より続く日本のすばらしい風景だ。
稲刈りもそろそろ始まって、人々は新米を心待ちにしていることだろう。
文化とは、簡単になるものではない、人々の忍耐強い日々の営みから醸し出されていくものなのだ。
日本において、その一番の基礎となるのは稲作といっても過言ではない。
田の作る風景が、人の心に及ぼす影響ははかり知れず、仮にこれが小麦やとうもろこしであったならと、置き換えて想像してみるといいだろう。
減反政策による耕作放棄地の増大、米の需要の減少、輸入米の増加、さまざまな要因で、日本の風景は大きく様変わりしている。
それは、じわじわと我々の内面を変容させ続けて、今まであまり意識させられる機会が少なかった日本文化の固有性が、無意識に変わり果てるのではないかと、憂いている。
けれども、豊かに実った田園風景を見ると、一時その思いは散逸するのであった。


駄菓子屋は、寺子屋そして社交の場

2017-08-22 23:46:02 | つぶやき&ぼやき
最近富みに思うこと。
かつて田舎においてもぽつぽつとあった駄菓子屋は、子供たちにとってとても大切な場であった。
自力でおやつやおもちゃ・文具用品を調達できるだけでなく、基礎的な計算力を身につけ、かつ限られた少ない予算の中で如何に望むものを組み合わせたり折り合いをつけて購入し、店のおばちゃんやそこに訪れるほかの子供たちとの付き合い方、公共の場でのマナー、あるいは友達と共同でお菓子などを買うなどの知恵を学んだり、実に総合的な学びの場だった。
今、そのような場が無くなったことで、子供が自由に活動できる機会も失った。
そして、学校で習得する内容は、実践する機会を伴いにくくなったので、子供の生活に結びつきが弱くなり、学習を不得手とする子供たちをより困難な状況に追い込むこととなっている。
たとえば、「掛け算の有用性に気がつく」「概数の意味やその便利性を実感する」「組み合わせのバリエーションを考える」「暗算をする・・・頭の中に黒板をもち、短期メモリーの訓練をする」など、お金に関わる諸々のこと。
制限が設けられた中で欲望の優先順位をつけたり、また諦めるなどの制御を学んだりと、道徳的なこと。
物を真剣に選ぶために、多くの情報を処理・分析し、判断力を養うこと。
これらをこなすことで底上げされてきたものが、できていない。
親や大人の庇護の元では、吸収率はあがりにくい。
子供の世界で、子ども自身が緊張感を持ち臨み、あるいは教え教えられることで真剣さが増すというものだ。
数年前に、確か東京のある街で駄菓子屋を復活させて、子供の社交場を作るという取り組みをしている人がいると、テレビで見たことがある。
おそらくその人も、ある危機感を感じていたのではないかと思う。
子供の過疎地において、それはなかなか難しいことである。
けれど、それに匹敵するような何か子供の真剣な自主的活動による学びの場ができることを、切に願うのであった。




時には溺れてしまい時もある コールドプレイ

2017-08-21 21:57:08 | 音楽たちーいろいろ



Coldplay - Hymn For The Weekend

どうしようにもなくなって、人は何かに溺れてしまいたくなる時がある。
酒だろうが、ギャンブルだろうが、ドラッグに愛欲、身を滅ぼしかねない危険なものは、誘惑に満ち満ちている。
仕方がない、人はとても弱いものだから。
けれどもそれで良かろうはずもなく、奇跡的に授かった命を無駄に浪費するのは罪に当たる。
できることならば、せめてぎりぎり戻れるところで止めておきたい。
分水嶺の頂で踏みとどまるのだ。


なまの人間を描く フランツ・ハルス

2017-08-20 22:51:59 | アート

ジプシーの女

17世紀のオランダの画家フランツ・ハルスは、まるでスナップ写真のごとくに人の素を切り撮る。
そこには、体裁を繕っている間など無い。
あたかも街角の似顔絵描きみたいに一気呵成に絵を描ききったかのような、迷いのない筆捌きが、雄弁に物語っているのだ。
その当時、彼のような画家は少なかったのではないだろうか。
肖像画といえば、地位も名誉もある一部の特権階級のもので、道化師はともかくもジプシーの女の人が、単独で描かれることはまず無かった。
しかし、ハルスは、あえて市井の人にもスポットライトを当てた。
彼の画業で、ほぼ人物画しか描かなかった彼は、おそらく人間が一番興味惹かれるものだったのではないか。
一個の人間のかなに善も悪も複雑に入り乱れ同居する、複雑怪奇なこの生き物に、心底魅入られていたのだろう。
あまりに人間くさい彼の作品は、至高の美とは言い難いかもしれないけれど、普遍的な人間の本質を宿していて、魅力的なのだと思っている。


リュートを弾く道化師